散華 Ⅰ
赤みに見放された褐色の頬にへばり付いた一房が、垂れ下がった眦から零れる悲嘆に濡れる。水浴びをした烏の羽もかくやの艶を放つ長い髪は、かつてはダーシアの宝であった。愛する異母兄に美しいと称賛され、くちづけられた、女の美の筆頭。
母の企みによって兄から引き離される以前は、彼に愛でられる瞬間を想い髪を梳き香油を塗り込むだけでも、ダーシアは己を取り巻く一切から逃避できていた。しなやかな毛先に不快でみっともない枝分かれが潜んでいないかと目を凝らすだけでも、兄の傍らで過ごすのではない空漠な、緩慢に流れる責苦を忘れられたものだった。
六年前の冬の日、己の小さな世界の崩壊にも等しい別離を突き付けられてからは、ダーシアは日がな己が髪を弄んでいた。何らかの異変が生じて母やアルヴァス侯が神の許に旅立てば、ダーシアは王宮に呼び戻されるかもしれない。兄との喜びの時を迎えるに、麗しい彼の前に出るに恥じる格好をしていては兄に失礼だ。ダーシアはもとより異母兄エルゼイアルの絶世の美貌には及ばないのだから、せめて身なりには気を払わなくては。
――生きてさえいれば、いつか兄上と再び会えるかもしれない。
六年の長きに渡る、己にとっては永遠に等しくすら感じられた孤独と渇望を僅かながらにでも癒していた希望の星は、無情な哄笑に堕とされてしまっている。もはや己が一部ながら滑らかな束を指先に絡める気力すらも湧き起こらず、娘は死人同然に萎えた四肢を寝台に投げ出していた。
元来旺盛とは称しがたかった食欲はついに消え失せ、けれどもあえかな光に縋らずにはいられなくて、ただ生命を繋ぐためだけに一切れを押し込む。砂よりも味気ないそれを咀嚼するのはもちろん、ただ嚥下するだけでも堪えきれぬ嘔吐感がこみ上げた。生理的に滲んだ涙と共に呑みこんだ麺麭は苦く、さしてどころかこの一室に軟禁されてからは全く働かせてはいないはずの頭は、割れんばかりに疼いている。
全身に圧し掛かる不調と微熱と倦怠感と眠気から察するに、月の障りが近いのだろう。常よりも大きく、重く張った乳房を按摩しても、己が手では安らぎが得られるはずもなく。けれども下腹は甘く悶え、虚無を満たす者を求めて叫んでいた。
――あんなことになるって分かってたら、兄上に怒られてもいいから、兄上と最後までやっていれば良かった。
この場に兄がいれば、逞しい首に腕を回してしな垂れかかり、懇願していただろう。自ら白い手を掴み胸元に差し込めば、兄はダーシアの願いを叶えてくれていただろう。流れ落ちるばかりの土壌に蒔かれた胤が実を結べば、ダーシアはこの苦痛から解放されるのに。
緑滴る庭園で互いの手足と舌を絡めていた頃、幾度となく臀部に触れた硬い熱が何であるかも、ダーシアは既に把握している。偶然に盗み見た母と使用人の密会と、シュゼシスから伝えられた知識が正しいのなら、あれを己の中に招き入れれば子ができるのだ。なのになぜ十一だった自分は兄の脚衣の前を乱し、裳裾を捲り上げて露わにしたそれを誘いもしなかったのだろう。そうしていればダーシアは己が腕で兄の子を抱きしめ、無垢な頬に接吻の雨を降り注げていたのかもしれないのに。
兄の子であればどんな子であっても愛おしいが、できれば最初は男の子が欲しかった。兄によく似た、美しく聡明な男児が。
叶わぬだろうと半ば予期した夢想は泡沫よりも儚いのに、いばらの鞭よりも強かに豊満な胸の奥に潜む臓器を苛む。
光を、己を取り巻く現を拒絶するかのごとく降ろされた目蓋の裏。朧な像から明白な輪郭を伴った幻想となった幼児が微笑んだ。
――ははうえ!
その子はある時は兄とそっくり同じ黄金色と深く鮮やかな緑を、またある時はダーシアの黒と褐色を纏っていたが、顔立ちだけは常に一定で。
――僕の妹。お前、名前は?
独り蹲り泣きじゃくっていたダーシアの薄暗い世界から暗澹を追い払った眩い太陽。ダーシアの全てであり支配者である彼の分身への愛着が、脈打つ生命の源を締め付ける。
「ダーシア!」
入室の許可も前触れもなく飛び込み、幻想を地に叩き付けられた硝子の器にした甲高い声の持ち主は、もちろんエルゼイアルではなかった。
「君……こんな時にどうして呑気に寝っ転がってられるの!?」
天使さながらに愛くるしいはずの顔を憤激で歪めた彼が、ほとんど手つかずの食事を下げるために退出してからまだ四半刻も経っていないはずなのに。それとも、ダーシアが起きながら夢を見ている間に、時の流れは穏やかな清流から白き飛沫散る滝に変じてしまったのだろうか。
「な、何ですか……? 私、まだお腹いっぱいだから、ごはんはしばらくは……」
あまりの血相に恐れおののき、後ずさりしながら立ちはだかる彼との距離を取っても、らしくなく大股で歩み近寄ってきた彼に胸元を掴まれればひとたまりもない。
「……君、知ってた?」
吊り上げられた目は鼠の隙を伺う猫の目。ついに残忍な爪に尻尾を挟まれてしまった卑賎な獣にできるのは、ただ頭を垂れて己に降りかかる運命に怯えることのみ。兄の名以外の一切の語句は判読さえできぬダーシアには、シュゼシスに差し出された書状に刻まれた命の中身は判ぜられない。それでも強張るばかりの首を縦に振ったのは、記された文字の配列の幾つかに見覚えがあった――少年にしては嫋やかな手にぐしゃりと握り潰されたのは、ドニが己に承諾を迫った書面で違いなかったからだった。
「……そうなんだ」
主の筆跡を指でなぞる少年の口元では、様々な感情が交錯していた。
「じゃあ、これは君の母上が企んだことだっていうことは……分かる訳、ないよなあ……」
まろやかな曲線を描く唇をねじる激昂はやがて焦燥交じりの自嘲になる。乾ききった嗤いはシュゼシスとダーシアのどちらを対象として発せられたものなのだろう。何一つ、分からなかった。
「でも、どうしようもない、いっそそこらの虫けらの方がまだましなぐらいの馬鹿でも、想像するぐらいはできるのだろ?」
シュゼシスが何に憤っているのかも、なぜダーシアを詰っているのかも。
「あんなこと、ドニ様が発案したはずはない。君の母上が考え出したことに決まってる」
「……あんな、こと?」
もはや憐憫すら読み取れる眼差しに落ちた翳りは色濃く、北方の民特有の明るい色彩が嵌めこまれているはずの双眸は、己の漆黒よりも昏くて。
「君、ほんとに一瞬たりとも考えなかったの? ――君のお兄さまの母親を、にっくき敵を、君の母上が放っておくはずはないでしょ?」
異母兄の母である王妃と愛妾である母は、形式上は亡き――ダーシアが殺した父を巡って争い合う立場だった。けれども、あの氷の彫像めいた麗しさの影に幼い狂気を隠した王妃はもちろん、母も父を愛してはいなかった。どころか、母に至っては父を軽蔑し、憎悪していた節すらある。なのになぜ、シュゼシスはタリーヒがザーナリアンを害するはずだと慄いているのか。
我が身を翻って考えてみれば、ダーシアは兄に懸想する女官や、兄と一夜を共にしたと伝え聞いた女たちに、積もり積もって山となった妬心と敵意を募らせてきた。だがそれも愛おしい兄に関する事柄だからに他ならない。例えば目の前で己を睨むシュゼシスにいきなり「ドニ様以外の人を好きになった」と告白されても、彼の新たな想い人が兄でさえなければ戸惑いなく受け入れられる。ダーシアはシュゼシスを愛してはいないから。そしてそれは、ダーシアを母に、シュゼシスを父に置き換えても同様ではないのだろうか。
「……君のその、“私にはそんなこと分かりません。助けて下さい兄上”って感じの顔、いつ見ても腹が立つ」
尖った真珠と見紛う犬歯で桃色の花弁を突き破った少年は、惑う娘の顔面に薄い紗を投げつけた。
「でも、せめてそれでも被って僕に付いて来いよ」
女官に与えられるに相応しい、質素であるが仕立ての良い袖から突き出た手首を折れんばかりに握られる。兄以外の男に触れられたのは初めてだったが、不快ではなかったのが我ながら不思議だった。
「自分の目で、あの女がやったことを確かめろ」
「……」
「甘い夢はもうおしまいにしなくちゃいけない。だけど、今ならまだ間に合うかもしれないから」
どうにか震える脚を叱咤し立ち上がると、亜麻色に埋もれた旋毛が視界に映る。少年にしては小柄なシュゼシスは、女にしては長身のダーシアよりも背が低かったのだ。彼は常に姿勢よく背筋を伸ばし、対照的にダーシアは常に背を丸めていたから気づけなかっただけで。
――おまえ、行きたくても外に行けない僕の気持ちを一度でも考えたことあったか!?
染み入る高い体温は子供じみていて、終に仲違いしたまま神の国とこの地上に別れた双子の弟を思い起こさせる。シュゼシスは容貌はともかく、物言いや雰囲気にヴィードに通じるものがあった。
娘は少年の後に続き、久方ぶりに王の私室から抜け出る。扉の左右に控えていた護衛の任を担う――真の役割は王の見張りだが――武官は怪訝そうに眉を寄せたが、彼の剣は鞘に収められたままだった。真実はどうあれ表向きは、ダーシアは王母の腹心の女官で、シュゼシスは王を陰で操る侯爵の小姓なのだ。連れだって歩いていてもおかしくはない組み合わせだから、衛兵も取り立てて不信を覚えなかったのだろう。
機敏で軽快な足取りに遅れないように疲弊しやすい手足を動かすのは骨が折れた。少年の細い背を見失ってはと、鈍重な脚を励ましながら先に進む。疲労は汗として体外に排出されているはずなのに、身体は徐々に石になっていった。呼吸は乱れ、脇腹には無数の針が刺される。
「あのさあ、君は蝸牛でも蛞蝓でもないんだから、もう少し機敏に身体動かせないの?」
半ば肩で息をし、脚を引きずるダーシアにかけられる口ぶりはそっけないものだったが、声音はどこか優しかった。
「君の、その、無駄に膨らんだ胸。ほんとは見るのも嫌で、身体に当たるのなんてもっと嫌なんだけど、ちょっとぐらいは肩貸してあげるから、」
ついには回廊の最中で倒れ伏してしまった不甲斐ない娘に差し出された手は温かい。
「マーリカ。シュゼシス。王の介護の役目を蔑ろにして、お前たちはどこに行こうとしているの?」
けれども背どころか心臓までを貫かんばかりの怒りと共に投げつけられた囁きは、身体の芯までをも凍てつかせんばかりに冷ややかだった。
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