散華 Ⅱ

 豊かな腿に押し付けられた踵は、鞣された牛革で覆われていても錐めいていてもなお硬く尖っている。面紗からはみ出た一房を汗ばんだ頬に、厚みのある唇に張りつける娘が抉られているのは、太腿の肉だけではなかった。

「お前は、主人の羊を狼から守り切れなかった番犬がどんな罰を受けるか知っているかしら?」

 噎せ返らんばかりに焚き染められた麝香の濃霧の向こうから振り下ろされるいばらの鞭さながらの嘲りは、脆く柔らかな肌ばかりか脆弱な魂すらも引き裂く。

「食事を抜かれる、だけでは済まないわ。主の財産を怠慢によって損なった役立たずの、腑抜けた気概は鞭と焼き印でよってしか鍛えられないものなのよ?」

 薄けれども確かな脂肪を纏った腹部より亡き双子の弟と共に這い出て以来、密やかに蓄え続けた諸々を踏みにじる女の囁きを耳を塞いで拒絶したくとも、指一本すらも己が意のままにならない。

 生理的な苦痛にぼやける視界に映るのは、厳めしい甲冑に覆われた足元だけ。亜麻色の巻き毛に覆われた頭もすんなりと若々しい少年の肢体も捉えられなかった。

 ダーシアがドニの屋敷の虜囚となってからの六年間。良好とは称しがたいどころかほぼその真反対に位置する関係を保ち続けた自分たちだが、何故だかシュゼシスの存在が気にかかる。あの少年が薔薇の棘となって、己の指先に刺さったわけでもないのに。

『ね、こんな部屋に閉じこもってばっかりじゃつまらないから、一緒に外で遊ぼうよ!』

 まだヴィードがダーシアであると見抜かれてなかった頃、投げかけられた笑顔と誘いが泡沫となって深い淵から浮かび上がる。六年前の自分は、兄と引き離された悲嘆に暮れ、奪い取られた幸福の幻に縋ってばかりで、自らの涙を溜めた池から這い上がろうともしなかった。己の心情など素知らぬ顔で無邪気に笑う少年を、恨めしくすら思っていた。

 わたしは兄上と一緒にいられなくなったのに、どうしてあなたは好きな人と一緒にいられるの。

 噛みしめ、赤い珠に彩られた口元から幾度となく発しかけた問いと鬱屈は、やがて真の性別同様に敏い少年に見抜かれた。シュゼシスは、ダーシアにはヴィードに向けていた笑顔をただの一度も向けなかった。

 ――ちょっとぐらいは肩貸してあげるから。

 けれども先ほどしなやかな手と共に差し出された苦笑は、呆れを滲ませていてもなお温かで。シュゼシスならばきっと、何らかの危機に晒されているという王妃を無事に救出してくれるだろう。ダーシアには想像もつかない機転を働かせ、甲冑に隠された兵たちの強張った面をも天性の愛嬌でもって和らがせて。ならば、もうそれでいい。

 凪いだ海面とも、光射さぬ深海の底ともつかない諦観が、潤んだ漆黒の双眸に広がる。貂から剥ぎ取った黒褐色の毛が縫い付けられた靴から、滑らかな毛を擦る裳裾から、それらが飾る母から逃れるべく降ろした目蓋は、耐えがたい衝撃によってこじ開けられた。

「――こんな時に、こんなところでおねんねなんて……。お前はどこまでも野犬並みなのね」

 躾がなってない犬には、やはり罰をくれてやらなきゃいけないわ。

 鬱屈した悦びで揺らめく侮蔑と共に娘の肢体に投げつけられたのは、魔の手から逃れたのだろうと安堵していた少年の肢体だった。シュゼシスの姿が、母の重みと責苦に喘ぐ娘の視界から消え失せていたのは、彼がこの場から去ったためではなかったのだ。

 少年にしては華奢で小柄ではあるが、確かな生命とぬくもりを備えた肉の塊は、押しつぶされる娘にとっては岩そのものであった。

 父の頭より冠を剥ぎ取った王子・・が、戴いた位を確固たるものにするために、王都の聖会の長の下に赴いた夜。繻子の垂れ幕でもあるまいに陰鬱に垂れ込める暗黒を通して見てもなおけざやかであった血潮は、すっかり拭い去られている。なのに何故、敏感な鼻腔が鉄錆の臭気を、異変を嗅ぎ取ってしまうのだろう。

「――っ、たぁ……。」

 高く澄んだ呻きを漏らしながらも、少年は俊敏に下敷きとなった娘の肉体の上から退いた。

「……さっきは無駄だなんて言ったけど、君の脂肪、こういう時は役に立つんだね。おかげで僕はあんまり痛くなかったけど、」

「……そう、です、か……」

「君は、きつかったでしょ? 大丈夫、立てる?」

 屈みこんで荒い息を吐く娘の顔色を窺う少年の巻き毛は、乱れ縺れてしまっていた。彫像の天使そのものの愛くるしい面立ち。染みや皺どころか髭すらも一本も見当たらない、白く滑らかな頬の片方は無残に腫れあがり、可愛らしくつんと尖った鼻からは紅い粘りが滴ってしまっている。

「あ、あなた、こそ……。その顔……」

「君とおしゃべりでもしながら二、三日も部屋に籠ってれば元に戻るからいい。それより、」

 生来の薄桃ではない赤みに蝕まれた頬を吊り上げた少年の眼差しは澄み切っていて清冽だった。鉛色の雲間を切り裂く一条の薄明は、神が坐す楽園から地上に垂らされたきざはしでもある。

「あのね、おばさん・・・・

 両の指の数を越える衛兵を背後に従えた女と対峙する少年の口ぶりには迷いも躊躇いもない。

「僕ね、どんな悪党よりも、子供を虐めるやつが一番嫌いなんだ。それが自分の子供かどうかなんて関係なしに、年端もいかない子を痛めつけるやつには虫唾が奔る。蛆虫と同じくらい嫌い」

 ――同じ嫌いでも、蛆虫よりかは蛞蝓のほうがよっぽどまし。

 吐き捨てる少年の口ぶりの潔さに、巡る紅蓮の圧によって張り裂けんばかりに胸が締め付けられる。

「だからさあ、もう僕とドニ様の目の前からいなくなってくれないかな。あんたの子供は最後までちゃんと世話してあげるから、いい加減に元の肥溜めに戻ってよ。じゃないと僕、あんたを殺すために、」

 全ての生命の源たる臓器を守らんとしてか、胸の前で組まれた腕の片方が上衣の隠しに伸ばされる。己より幼く、背の低い少年に守られるばかりのダーシアには仔細は窺えないが、この時のシュゼシスは天使の造作で勝利の愉悦を形作っていたのだろう。

 しかし、背後からも察せられる優越は次第になりを顰め、ついには不安と焦燥にとって変わられた。

「お前が探しているのはこれでしょう?」

 少年からすり抜けた満足は、ついに彼と向かい合う女にすっかり吸い取られてしまって。

「お前がこれを手に入れてどうするつもりだったのかしら? まさか、にっくき恋敵にでも阿るつもり? ――そんなことをしても、今更あの王子がお前たちを赦すはずはないのに」

 屈強な鉄の腕に戒められ、自由と抵抗を封じられた少年の細い頤に添えられた褐色の手は左側から伸びていた。母は、書状を硬く握った右は決して開こうとはしなかった。掌中の一片は遠く離れた恋人からの、恐らくは最後のものとなる恋文でもないのに。戦地で咲き誇る徒花となって散るであろう恋人との思い出に操を立て、断髪して神の家に入る乙女と見紛う微笑は、貪婪に喜悦を貪る浮かれ女の哄笑ともとれた。

「従順に主の膝に乗って喉を鳴らす猫は、主にとっては愛らしくはあるのかもしれない。だけど、その猫が泥棒猫であったなら話は別なのよ」

 盛りが付いた雄猫だって他の猫の縄張りは尊重するものなのに、なんて嘆かわしい。

 嘆息を装って吐き出された嗜虐を湛えた唇はにんまりと吊り上がり、夜空を切り裂く残忍な三日月になる。

「鼠ではなく人間の持ち物を咥える猫は、たとえ他人の飼い猫であっても駆除・・しなくちゃいけないわ」

 程なくして少年の左胸を突き破ったのは人の子の生命を刈り取る残酷な鎌ではなかったが、ぱっくりと口を開けた虚ろからは温かな飛沫が迸る。

 初めて目の当たりにした死の情景は鮮烈で、眦が裂けんばかりに瞠った両の眼の奥底に焼き付いてしまっていた。

 どさり、と糸が切れた傀儡めいた動きで崩れ落ちる少年を受け止めんともがいても、小さな頭は震える指先を掠め冷ややかな大理石に叩き付けられてしまって。

「シュゼ、シス、さん……?」

 吹き出る生命を押しとどめ、力なく投げ出された身体の内に戻さんとしても、温かな赤は指の隙間からとめどなく流れ落ちる。元来は健やかな桃色が叩かれているはずの頬と唇はすっかり蒼ざめていてまるで死人だが、辛うじて息はある。ならば、弟が発作を起こす毎に招かれ、冥府の淵で佇む魂を幾度となく現世に呼び戻していた侍医の元まで彼を運べば、一命はとりとめるのではないか。

 透き通った肌の下で循環する命の大半を喪った少年は幾分かは軽くなっているはずなのに、抱えた体はやはり石のように背に圧し掛かる。

「……待ってて、」

 それでも、どこにいるとも定かではない侍医の影を求めて歩み出した娘の耳元で、羽虫が羽ばたいた。否、虫の羽ばたき同然に幽かな呟きが、長い髪に隠された耳朶をくすぐったのだ。

「もう、いい」

 僕は、助からない。

 形にされずとも、心中にまで響き渡った少年の心情に誘われた涙は飛び散った古び黒ずんだ赤を洗い流したが、溢れ出る雫は如何ともしがたい。

「最後に見るのが、ドニさまの顔じゃないのは……もう。でも、きみの母上の、目元の小じわじゃ……地獄にすら、逝けそうにない、から」

 君の泣き顔のみっともなさでも笑いながら死ぬことにするよ。

 揶揄いとも励ましともつかない微笑を漏らした少年の息がいつ途絶えたかは判然としない。ダーシアはただ、彼の願いを叶えるために面紗を捲り上げ、冷たくなった肢体を掻き抱いていた。生前の彼が醜いと蔑んで憚らなかった女の肉体に包まれても、シュゼシスは喜ばないだろう。だがそれでも、己が母の暴虐のために摘み取られた若芽に悲嘆を注がずにはいられなかった。

 音どころか世界の全てが己から遠ざかったのかと錯覚してしまう静寂は、やがて厭わしい囁きに破られる。

「ごめんなさいね。お前の飼い猫を去勢してあげるつもりだったのだけれど、つい手元が狂って・・・・・・・・股間ではなく胸を斬ってしまって、こういうことになったのよ」 

 兵に命じてシュゼシスを屠ったタリーヒが少年の死を悼まないのは当然だった。むしろ、母が何がしかの沈痛の証を零しでもしたら、それはシュゼシスを侮辱するにほかならない。

「左様でございますか」

 だがシュゼシスの主であり、彼が一心に慕っていたドニすら、一粒の涙も故人に捧げないなんて。

 母上も、この人も人間じゃない。

 胃の腑から喉元までせり上がる恐怖と嫌悪に突き動かされ、叱咤させようとした脚は、肥満の萌しに曲線を撓められていてもなお優美な足に踏みしめられてしまって。

「さあ、お部屋に帰りましょうね、マーリカ」

 長い髪を掴まれ、蹴られ、引きずられながら進む回廊の冷ややかさがどこか懐かしかった。

「大丈夫。お前は悪い仲間に唆されただけなんだから、今回だけは・・・・・寛大に許してあげるわ」

 心胆を寒からしめる冷笑とともに頬を打擲される。力なく倒れ伏した娘の前身に降り注ぐ母の爪先の雨に悶絶する娘の脚の付け根を濡らしたのは、責苦によって流された苦痛ではなかった。

「……穢いわねえ。だけど、これじゃどのみち部屋の外には出れないから、丁度よかったのかしら?」

 月の障りの汚濁に塗れるダーシアを見下ろす母の双眸は、底のない沼であった。そんな光も呑みこんで離さない漆黒には、しかし時折情念の焔が灯る。

 間に子をも生した男を、罪のない少年を、その他多くを犠牲にしてまで母は何を望んでいるのだろう。

「は……うえ……」

 苦悶によって掠れ濁らされた問いかけは、己の耳にとってすらほとんど意味を成していなかったのに、母には明確に伝わったらしい。

「そんなこと、決まっているじゃない」

 苦悩と懊悩によって織りなされた紗でぼやけた視界においても、母の笑みはやはりおぞましかった。

「わたくしはあの女を壊す・・ためにグィドバールを殺したかったの。あいつを殺して初めて分かったわ」

 答えにならない答えは、奥底までをも戦慄かせる暗澹を纏っていた。

「……あの男に捨てられた屈辱なんて、あの女がわたくしに与えたものとは比べ物にならなかったわ。ザーナリアン! あの女はまだ衰えていなかった。わたくしは若さを失ったのに、あの女は……」

 ――ザーナリアン! あの女は……。

 けだものの遠吠えが木霊する。番を呼ぶ狼の呻りへの恐れを喚起させる独白は、いつまでも鳴りやまなくて。

 月の障りから解放されてからも、ダーシアは自室を柩とし、自分は亡骸となって穏やかではないが安全な揺籃の内に籠り続けた。とうとう王都の城壁にまで迫った兄率いる軍勢や、暴動を起こす民への対処に追われているらしきドニが、最後に自分の前に姿を現したのはいつだったかすら思い出せない。全てが奇妙に静かな日々で変わりゆくものといえば、日に一度となった食事を運んでくる母の瞳で燃える妄執のみ。

 このままでは、兄に城を落とされ反逆者として処刑されるよりも先に、母に殺されてしまうのではないか。

 恐ろしい予感が現実となる瞬間がついにやって来たのは、王城において迎える二度目の障りが終わった翌日のこと。

「あいつが――アルヴァス侯ドニが、王太子の手中に落ちたわ」

 振り下ろされる刃の冷たい煌めきを目にした瞬間、娘の脳裏に浮かび上がったのは焦がれる異母兄の愁いを帯びた笑顔であった。

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