再会 Ⅰ

 王を守らんと聳える城壁に囲まれた王都を山とすれば、その崩れかけた裾野には肥沃な農村が広がっている。

 すらりとしなやかな痩身を晴れ渡った蒼穹に突きさす、ただ一本だけの糸杉の瑞々しい緑と白壁は鮮やかで麗しい対比を成す。しかし、それを目に映す人々の心を安らがせはしなかった。常ならば若草の合間から飛び立った駒鳥が清しい風を灰色の翼で受け止め飛翔する刻。しかし長閑な小村で飛び交うのは寡婦でも修道女でもあるまいに陰鬱な黒を纏い、醜い嗄れ声で人々を苛立たせる烏ばかり。

 家畜小屋からは牛馬の、家々からは農夫やその妻子らの囁きが掻き消えてはや二月あまり。晩春に差し掛かった村には、ぽつり、ぽつりと鮮やかな赤が落ちている。遠目では雛罌粟の、あるいは薔薇の一片かと見紛う彩りは、常に艶めく黒と銀の煌めきを伴っていた。

 ある者は腕を、ある者は、脚を、またある者は首を失い倒れ伏す兵士たち。烏は彼らの濁った眼球や腸を突き抉り出す喜びを囀り、澱んだ紅の網が張られた肌では数多の蝿の子が蠢いていた。

 餌を巡る闘争に敗れ、戦火に半身を焼かれた樹の枝にとまり身づくろいをする鳥たちが、飢えた嘴を向ける一画がある。

 うらぶれた小宅は、村はずれの侘しい場所にぽつねんと佇んでいた。村人共有の物置とされていたのか、家と呼ぶにはあまりに荒れ果てた一室では、怪物が――否、怪物さながらに醜い男が柱に繋がれていた。むずがる幼子の耳元で、あるいは長い夜の無聊を慰めるために炉端で紡がれるお伽噺で捕らえられるのは、麗しの姫君が定石である。あるいは高貴な生まれの見目麗しい若者でなければ、救出に赴く勇士の忠義心もいささか目減りしようというもの。

 それゆえであろうか。捕らえられた男の弛んだ背に鞭が叩き付けられ、藁を編んで拵えた華奢な縄の先端に潜む残虐が――いばらを真似た棘を備えた球が、ぶよついた肉を割いても、停止を訴える者はなかった。

 男の低い、ひしゃげた鼻は既に吐き気を催す悪臭に耐えかねているが、臭気は己が肌から漂っているのだから逃れることはできない。熱せられた油でもって真皮に至るまでもが洗い清められた下肢の表面からは、既に痛みは撤退している。しかし用心深く内側に潜って身を顰めた感覚は、たちまち前線・・に呼び戻された。

 元来醜怪な面を野獣よりもおぞましくする髭や体毛同然に伸びきった爪の先が、やっとこに挟まれた。癒着した、あるいは分離しきれぬ肉と共に十枚の爪が剥がれる激痛に全身の筋肉が収縮し、やがて極限に達した緊張は弛緩に転ずる。濃淡は様々だがいずれも生々しい桃色の斑に蝕まれた脚を濡らすのは、つんと饐えた排泄物の臭気に他ならなかった。滲み出た体液や血液と入り混じった尿は、石を敷かれもしないむき出しの地面に吸い込まれる。

 あと数刻もすれば、粗相の痕跡は跡形もなくなるだろう。吐き出した安堵は間断なく振り下ろされる幾束もの藁の撓りに紛れて、誰の耳にも届かなかった。

 もうすぐ、彼が、この世で最も麗しい青年が己の許を訪れる。美貌の想い人に己が醜い姿を晒すのは焼き鏝を押し当てられるに勝る苦痛だったが、それを凌駕する喜びをも齎すはずだ。

 ゆるゆると目蓋を降ろし、自らの裡に蓄えた宝玉を――焦がれる青年の面影を観賞する。まだ泣き叫ぶばかりの赤子であった頃から彼の容貌は他を圧倒していた。しかし、持つ物といえばただこれだけとなった財を全て詰め込んだ箱の中で最も尊く煌めくのは、六年前の冬の日の……。

 神の楽園で善人たちに快い日陰を供する樹々の葉とて色褪せるであろう、至上の翠緑玉から零れ落ちた一粒の真珠。己の欲を縁いっぱいに湛えた杯に落とされた一粒こそが、ドニをこの場に導いたのだ。

 澱んだ大気を切り裂く軍馬の嘶きに応じ、男は過ぎ去った過去を箱の中に閉じ込める。

もてなし・・・・は不足しておらぬか、アルヴァスよ」

 流麗であるが決して軟弱には落ちぬ、威厳と意志の芯を秘めた低く冷ややかな声は、非情な撓りにも妨げられない。青年の毛髪の金色は、長く目にしていない陽光よりも眩かった。均整のとれた長身を優美な甲冑で包んだ青年の美しさは、この世のどんな言語も超越していた。大理石の肌を血飛沫で、黄金の毛髪を砂塵で汚していても、エルゼイアルは燦然と輝く真冬の太陽。あるいは太陽を司る古の青年神そのものであった。

 お目通り叶い光栄でございます。

 臣下の礼をとることは能わずとも迸る感謝の念を伝えたく面を上げると、たちまち冷徹な一振りが叩き付けられ、長く言葉を発しなかった喉は苦悶に干上がる。

「よい。そなたらはしばし下がれ」

 抉られ、割かれ、挽肉同然にぐずぐずに糜爛し、飛び散った脂肪でぬるついた背に振り下ろされんとした悶絶が制されたのは慈悲によるものではない。己が愛する青年は主君に刃を突き付ける大逆を犯した罪をも寛大に赦す聖人ではなく、厳罰でもって罪を裁く支配者なのだから。

 常に影のごとく王太子に従う栗毛も、その他の者たちもいない一室で怪物と彫像は対峙する。配下の兵が運び込んだ、恐らくは村長が腰かけるために拵えられたのだろう、作りは良いが素朴な椅子も、エルゼイアルが坐すと玉座になった。

「オーラントがそなたの領地を掌握した」

 整った薄い唇が紡げば、己の破滅を真に決定づける言葉すらも額づいて賜るべき神託になる。

「……それは良うございました」

 吐息同然の応えは紛れもない本心であった。エルゼイアルは何一つ損なわれていないが、戦地に身を置いていれば、いつ技芸の神の傑作を打ち壊さんとするうつけの凶刃に見舞われるともしれぬから。

「――良い、だと?」

 典雅そのものの弧を描く細い眉が跳ね上げられる。憤りに研磨された貌の光輝は人の子を盲目に至らしめる日輪そのものだが、目を背けることはできなかった。

「此度の乱のために、少なからぬ兵が落命した。それは都でも同様であろう」

 たとえ彼が憂いているのがドニの――あるいはタリーヒの我欲の餌食として散っていた民草や、やがて襲い来るであろう王国の騒乱であったとしても、目前の美はただドニだけに向けられたものであるから。

「更に、そなたの反逆を支持した北の背信は看過できぬゆえ、いずれ然るべき罰を下さねばなるまい」

「……殿下ならば、巧みに収められるでしょう。なに、少し首を掴んで撫でてやれば、北の狐どもも殿下に腹を見せましょうて」

 そのためには狐どもを巣穴から引きずり出し、四肢を縛って尾を木に結んで宙づりにしなければならぬだろうが、エルゼイアルならばやり遂げるであろう。

 和議を結んだ南方異民族と母の故郷たる旧ティーラ帝国領民、更には彼自身に与えられていた王国軍の混成部隊を率いて王太子・・・が都を包囲したのは、ほんの一月ほど前であったと記憶している。

 それから季節どころか月の移ろいを待たずして、簒奪の首謀者の片割れたる己を捕らえた青年の武勇と知略をもってすれば、狐狩りも赤子の手を捻るに等しい細事だろう。

 微笑みと呼ぶにはあまりにおぞましく焼け爛れた口元を緩めた男は、しばし想い人との再会を果たすまでの、苛酷を極めながら退屈でもあった日々を想った。

 

 おびただしい血液ごと生気を喪い、蒼ざめて土気色になった少年の頬を気まぐれに撫で、彼が眠る棺桶が大地に呑まれる様を独り眺めていたドニの下に衛兵がかけ参じたのは、皮肉なまでに麗らかな午後のことだった。

「哨戒を行っていた隊は既に投降し、あまつさえ共に城壁を打ち崩さんとしているとのこと。如何なさいましょう?」

 元より整っているとは称しがたい面は恐怖と焦燥をも凌駕する羨望によって歪められていて一層見苦しい。が、彼の心情は理解できなくもないどころか、ドニ自身自明の理だと認める類のものでもあった。

 曽祖父が建て、祖父が領土を広げた王国を守護し維持する任を十五の時分より背負わされていた青年の武勇は、王国軍に属する兵全てに行き渡り、彼らを心酔させている。しかし宝飾品としても拵えられた美々しい宝剣も、己が掌中より抜き取られ喉元に突き付けられてしまえば。その本分を痛感し、己が命が露となる予兆に背筋を振るわせざるを得なくなるのだ。

 安寧の内に反映を享受していた民たちにとっては、弩砲バリスタが上げる唸りすらも悪しき竜の咆哮であり、鉛弾や矢は神の怒りそのものだった。峻烈なる裁きから逃れるべく至高神の家に急がんとしても、投石機カタパルトより放たれた焔の雨に見舞われる。ならばと灰がうず高く積もるばかりで熾火すらも灯らぬ炉端で家族と共に抱き合っても、燃え盛る藁や木片は平等に降り注ぐのだ。威嚇としてか、士気を減退させるためにか放り込まれる家畜や兵の死骸もまた、城下で渦巻く狂乱をいや増した。

 王都とアルヴァス侯領、更には一部の北部貴族が治める都市を結ぶ補給線の幾つかは既に落とされている。十分に栄養を蓄えた赤子ならば、母の胎内から這い出る刻が少しばかり速まっても生き永らえるであろう。しかし産み月を待たずして母体ごと臍帯を切断されてしまえば――糧も、温かな母の腕もない、産着に包まれもしないむき出しの生命はたちまち衰弱し、ついに物言わぬ躯となる。

「さっさとあの王子を止めさせなさい。……民に悪魔と畏れられようとしているのでもないのに、こんなにも自国の都を攻撃するなんて、お前の王子様は一体何を考えていらっしゃるのかしらね!?」

 妄執でぎらつく双眸を吊り上げ、ドニを耳障りな非難でもって煩わせる女は、きらやかに外貌を装えどもやはり賤民に過ぎない。たとえ金の台座に嵌めこまれていたとしても、路傍の石は路傍の石のままで、貴石に成り替わるなどできはしないのだ。

「ここにも城壁はあるけれど、あんな風にひっきりなしに攻撃されたら、」

 タリーヒには理解すらできぬのだ。城壁の弱点を突け狙い、破城槌を打ち付ける王太子の意図を。背教者・・・の毒の爪から無垢な羊の群れを庇護するという、司教により与えられた形ばかりは大層な任を忠実に果たしていた兵すらも、己が懐に飛び込めば麺麭と葡萄酒でもって労う未来の王の巧知を暗黙の裡に察しているのに。

 籠城が始められて一月が経ち、ドニの手元に残るのはもはや己の私兵と北狐どもから借り入れた兵卒ばかりとなった。ドニの手元から失われた王国軍は、亡骸となった幾ばくかを除けば全てエルゼイアルに吸収されたのだ。新王の退位と首級を求めて突進する羊たちの群れは、活力に乏しい老人や浮浪児たちを楽園に送った疫病に蝕まれていてなお、調伏させることすらおぼつかず、このままでは己の明日の命すらも危うい。

 ゆえに、ドニは下級兵の装束に弛緩した肉体を押し込み、もはや一部は瓦礫と成り果てた門を潜ったのだ。

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