再会 Ⅱ
「殿下にお伝えせよ。アルヴァスが、殿下にお伝えせねばならぬ大事を携えてまいりましたとな」
鎧を脱ぎ捨て父母にすら怪物と罵られた醜貌を表せば、周囲の兵は気色ばむ。焦がれる青年のものとは対極に位置する容姿こそドニがドニである何よりの徴であり、彼らとてそれは理解しているだろに、兵たちが動く気配はない。
「そなたら、耳が利かぬのか?」
驚愕とも落胆ともつかない溜息と共に皮肉を放っても、返ってくるのは獣の唸りめいた罵声だけ。
――これはどうやら、殿下が従えた南方の民による隊らしい。
ルオーゼ人の金や栗色の髪と碧眼とは異なる色彩を纏う彼らの正体は自ずから察せられたが、それはドニにとっては凶兆に他ならなかった。己が誰かを把握せず、言葉すら通じぬ異民族ならば。混乱に促されドニをあえかな望みごと斬り捨ててしまうやもしれぬ。
さすれば、こやつらを屠ってでも殿下の下に急ぐまで。
滅多に握らぬ剣の柄に伸びた手はじっとりと汗ばんでいた。ドニがいかほどに奮闘しようとも、この野蛮ではあるが見るからに勇猛な若者たちを倒せるはずはないが、縋らずにはいられなかったのだ。
このまま己が命よりも愛おしい青年の尊顔を拝むことなく倒れてしまっても、全てを賭け、そして全てを喪失してまで挑んだ博打は終われない。既に
怪物と獣の眼差しの交錯は断ち切られ、まだしも頭の働くらしき誰ぞが、指揮官らしき人物を求めて駆け出す。幾ばくかの後、抵抗も虚しく手足を縛められたドニの双眸に突き刺さったのは、焦がれた青年の麗姿だった。
「久しいな、アルヴァスよ」
残虐が湛えられているがゆえに一層、背筋が戦慄くまでに麗しい微笑は葡萄酒よりも強かに飢えた魂を酔わせる。酩酊した心身を美々しい鎧の足元に投げ出すと、髭と疲労に覆われた面を大地に擦りつけられた。締まりのない、干からびた蛭じみていておぞましいと囁かれた唇を割る爪先は冷ややかで、鋭利な砂礫に刻まれた擦過傷から滲む粘りが乾いた口内で噎せ返る。
武骨な鋼鉄ではない鞣された革一枚で隔てられた想い人の一部が己の内に在る幸福は喩えようがない。折れ、欠けた歯を吐き出すと、迸る鮮血と唾液が弛んだ顎を伝って滴り落ちた。大理石の肌を穢す砂塵や血飛沫を舐め清めたくとも、舌先を擦りつけるたびに新たな汚濁で汚してしまう。意味は介さずとも侮蔑と判ぜられる冷笑が降り注ぐ最中、せめて己のものだけはと舌を動かしていると、やがて己の体温を啜ってぬくもった革は引き抜かれ、代わりに鳩尾に埋め込まれた。
ドニが仰向けに倒れ伏し蒼穹に顔面を向けると、さも疎ましいとばかりに太陽ですら厚い雲間に隠れてしまったが、もう一つの太陽は変わらずに地上に在る。
「此度の
あるかなしかの毛髪を引き抜かんばかりに鷲掴まれ、強引に立ち上がらせられる。鼻先がこすれ合うまでとはいかずとも、互いの吐息がかかる近しさで堪能する面は神がこの世に齎した恩寵であり奇跡そのものであって。
「ゆえに、私も心を尽くしてそなたをもてなそうではないか。我が城は未だ無法者に占拠されているゆえ、そなたをしばし待たせるのは本意ではないが、」
地下牢ではなくとも、そなたをもてなすに足る道具は揃っておるゆえ、存分に愉しむがよい。
凄惨たるものになるであろう拷問の始まりが暗示されても、荷物さながらに馬の尾に括られ、粗末な小屋の柱に繋がれても、ドニが己の裡に築いた城壁は壊されなかった。
「吐け。殿下のご命令だ」
拷問吏は大逆者が携えてきた情報を引きずり出さんとし鞭を振るい、熱せられた油でもってドニを苛めるが、あの歓喜にもう一度浴するまでは。
思い描いた夢想は泡沫となって久しい。エルゼイアルを己だけの彫像とし、彼の美を朝な夕なと感嘆し、愛でる日々はもはやいかように足掻いても現実にはなりはしないが。だからこそ、せめて。
「私はお前のような下賤ではなく、殿下に直接奉るべき御言葉を持ってきたのだ」
繰り返し繰り返し吐き捨てた言葉と笞によってもついに折れなかった強情に値を上げたのか、官吏はやがて福音を告げた。
「明日、殿下がこちらにお出ましになられる」
それは指揮官たる王子が戦地を離れるにたる余裕が生じたという、何よりの証であった。落城を間近に控え、後は攻め込むばかりとなった青年が最も案ずる者が誰であるかなど、たとえ幼子であっても察せられる。
「母上の身に大事があれば、そなたらは生きながらにして地獄の炎に突き落とされることとなるが、そなただけは容赦してやっても良いのだぞ」
六年の長きに渡り恋慕に炙られたこの身が、地獄程度の焔に耐えれぬはずはないが、ドニは想い人の憂愁を取り払ってやりたかった。だが干上がった口を滑らかにするには、どうしても購ってもらわねばならぬものがある。
「……私は貴方をお慕いしております。ただ貴方を得るためだけに、あの売女の下に付き、」
「生憎と、私は下らぬ戯言を聞く耳など備えておらぬ。今一度猶予をやろう、母上は、」
腐敗し蛆に集られた亡骸に手向けるものと酷似した嫌悪に引き締まった口元を引き攣らせた青年の面には、驚愕は乗せられていなかった。
淡く血の色を透かす唇は数多の女の唾液と体液に塗れていて、その中には彼の腹違いの妹のものすらも混じっているのだと聞く。ならば、ドニが泡沫の狭間だけ彼を望んでも赦されるのではないか。
「貴方の妹の、あの女の娘の葬儀の際、涙を流して嘆く貴方を目にしてからずっと、お慕いしておりました」
エルゼイアルが愛した彼の異母妹は、母親以上に唾棄すべき女だった。ただ彼の妹として生を受けたという幸運だけを頼みにする地虫と怪物では、怪物の方が幾分か上回ってすらいるのではないか。
それを確かめんがために目前の青年を組み伏せることはもはやできない。焼け爛れた脚は己が体重を支える役割すら放棄し、骨を砕かれた腕はただ肩を飾るだけの調度品と成り果ててしまっているから。
だが、王子に対面するために清められた顔面ならば。
「くちづけだけを、殿下。ただ一度だけで十分でございますから」
彼に触れられても構わぬのではないだろうか。
「望みが叶えば、殿下が欲する全てをお教えしましょう! ですから、」
エルゼイアルを得るために、ドニは全てを失った。父祖より伝えられし領地も領民も、もとよりさして愛着を抱いてはおらず、彼との逢瀬の対価とするにはあまりに賤しいものであったが。
後ろに天使の軍団を、隣に預言者を侍らせる神に裁きを受ける咎人の心持ちとは、このようなものなのだろうか。
瞬きも、呼吸すらも忘れて判決を待ち焦がれる男の頤に、長く細く、けれども節くれだった指が添えられる。やや癖がある純金がこけた頬を掠める面はゆさに裂けんばかりに眦を開けば、至上の麗貌が飛び込んできて。
驚愕と恍惚に締め付けられた喉は壊れた笛となったが、奇怪な音はじきに封じられた。
「――満足か?」
人肌の名残は瞬く間に消え去り、美と醜の交錯は儚くも断ち切られたが、脈打つ心臓から四肢の末端までに広がる法悦の勢いは衰えない。豚の脚そのものだと幾度となく嗤われた二本の合間にぶら下がる肉が、炎熱によって機能を奪われていなければ、白濁した欲は紫衣の袖で唇を拭う青年の面や髪にすら飛び散っていたかもしれない。
「一刻も早く宮殿の王妃の間へと急ぐべきです。あの女が母君を弑する前に」
己が身命を投げ出してまで求めた青年は、振り返ってはくれなかった。だが、彼が酷薄であるがゆえに、より一層、狂おしいまでに愛おしいのだと焦がれる想いは受け止められた。
閉ざされたはずの扉が不快に軋む。静寂を掻き乱す唸り声が耳元で轟いても、男は甘やかな幸福の余韻に浸り続けた。
◆
漆黒の弩弓と化して軍馬を穏やかな獣に還して立ち止まらせるには、ただ手綱を引けばよい。
精緻な浮彫が施された轡が勇猛の影に臆病を潜ませた彼の気概を脅かしてはならぬと慎重に。けれども確固たる意志をもって、己が主であると知らしめる。エルゼイアルの命に服従した馬の背から降り、太い頸を撫でて彼の労を労うと、ひんと甲高い嘶きが鉄錆の臭気漂う大気を揺るがした。
「殿下」
はせ参じた従卒の一団には、見慣れた栗毛は混じっていなかった。オーラントであるならばエルゼイアルを労うついでに、馬にも人参や甜菜などの野菜を差し出すのだが、同胞の躯転がる平野においてそのような配慮が得られるはずはない。見知った人間の顔を探してか首を動かしていた馬は、しばしの後に自ら見出した草を食んだ。
退屈を託ってかあるいはふてくされてか、腹を満たした黒毛は蹄で土を掘る。彼の腰では、革袋に収められた荷がぶら下がり、逞しい臀部が跳ねるごとに澱んだ紅を滴らせていた。
幾重にも縛めた口を解き、鞣された羊の皮越しであってもその丸みが窺える中身を引きずり出す。見目の割に小心の馬は、慣れぬ人物が近づけば恐慌を来してしまうから、己自身の手でもって。
「それは……」
露わになった造作は整っているとは評しがたいが、それ以上に醜悪なのは彼の内側であったのだろう。ドニは数多の民を己の獣欲を満たす贄とした。
亡き妹は誰よりも愛おしい。だが、その母たる父の妾が君臨する魔窟となった宮殿で、母とアマルティナが平生の暮らしを保障されていただろうと夢見るのは愚か者のみに許された逃避である。
アマルティナは既に殺害されてしまっただろう。父の妾には、そうするだけの理由がある。しかし母は、最後の交渉材料とすべく未だ生かされているはずだ。タリーヒにその選択を思いつく頭がなくとも、ドニが進言していよう。
「城に残るは既に傀儡のみで攻め入るは容易だ。しかし、我が弟に最後の選択の余地をくれてやろうではないか」
ドニの首級と共に異母弟に要求するは母の身柄。エルゼイアルが引きかえに彼に与えるのは、偽りの死と鄙の僧院での穏やかな生活。病弱ゆえに母の支配下に置かれていたであろう少年にとっては、申し分のない取引であるはずだった。もっとも、彼があくまで母に従うのだと主張すれば、母親と共に処刑場まで牽くまでだが。
ぶよついた肉塊とエルゼイアルが認めた文を携えた伝令は夜陰に紛れて戻ってきた。
曰く、王は即位より体調を崩し自室に籠るばかりで、彼との交渉は叶わなかった。けれども、ドニに強いられて屈従した高官たちは、提示された和平の条件に同意し、その証を示すと確約した。
「恐らく、あと四半刻も経てば」
そう締めくくった兵の指先で、見張り台に灯されていた燈火が掻き消える。城壁に巣食った闇は波紋のごとく広がったが、紺青の夜空に坐す月は進むべき道を照らしてくれていた。
火矢を放たれ崩れ落ちた破城槌の、最後の一突きが開いた空白の向こうには、犬の毛皮で跳ねる蚤のごとく集っていたはずの星芒を跳ね返す鋼はない。
「――突入せよ」
旗下の数十人を放り込んでも、剣戟が生じた気配はなく。幾ばくかの後に最も近くの城門を開いた兵が負ったのは、潜入の折に砕けた石材に擦って拵えた傷のみらしい。
威勢を快復した黒駒に跨り、立ちはだかる兵は残らず切り捨て宮殿まで駆ける。
「お待ちしておりました」
頭を垂れて門を開放した衛兵に馬を預けてからは、己が脚で。母が囚われている王妃の宮まで。
踏み荒らされ、散らされ、踏みにじられた庭園の惨状を嘆きはしなかった。あの花を手折ってやれば歓声を上げて飛びつき接吻を強請ってきた妹はもはや亡いのだから。
亡き少女を悼むのは、恐らくは惨たらしく屠られたであろう母の騎士の亡骸を発見し、弔ってからでも遅くはない。優先すべきなのは、既に墓所に葬られた妹ではなく生きた母やその側仕えなのだ。
狼の遠吠えめいた絶叫と共に斬りかかってきた兵の首に刃を差し込むと、扉の竜の翼が赤く濡れた。
母は、血塗れの自分に怯えはしないだろうか。
慄きながら取っ手を引く。閉ざされていた室内には異臭が立ち込めていた。血臭と入り混じってもなお淫猥なそれには、有り過ぎるほどに覚えがある。しかし、己の寝室ならばともかく、母の部屋で、なぜ。
脳裏を過った絶望を仮定から現実としたのは、壁面から毟り取られたタペストリーからはみ出た波打つ黒髪と、白く嫋やかな腕にすら散らばる薔薇の花弁であった。
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