再会 Ⅲ

「もう終わりなのよ」

 嫋やかな手に握られた憎悪の切先でちらつく光芒は、たわわに盛り上がった双の果実の合間にすら届いた。陽光を弾く氷柱の凍てついた輝きを纏う短刀は、狼の牙よりも鋭く己の胸に食い込み、破れんばかりに脈打つ臓器を引き裂くのだろう。残酷な鋼は容易に滑らかな褐色の肌やその下に蓄えられた脂肪を突き破り、溢れる鮮血を啜るはずだ。

 このままでは、ダーシアは今度こそ母に殺されてしまう。ただ母の雲を掴むような欲望を叶えるためだけに、兄の妹として生を受けた証を奪われただけでなく。夢想が強風に吹き散らされて大気に融け消えてしまえば、用のないものとして。ついに最愛の兄の腕の中に帰れぬまま、母の破れた幻想に手向ける徒花とされてしまう。

 そんなの、いやだ。

 下腹からこみ上げ、血の巡りに乗って全身に広がったのは、生まれて初めて覚える猛烈な怒りだった。

 朝露を含む薔薇の蕾か芳香を放つ果実めいていて瑞々しい、肉厚の唇に尖った真珠が突きたてられ、紅玉の粒が零れ落ちる。月に一度の障りを除けば、ダーシアの苦悩はいずれも母によって与えられたものだった。いわれなく苛立った母に打擲され、腿や頭を踏みしめられた際の悶絶は、口内に奔る擦過傷から滴る鉄錆と入り混じって少女の喉を締め付けたのだ。

 悲鳴を上げることすらできない責苦の最中、最も蹂躙されているのは肉体の奥に潜む魂である。

『ほら、たまにはお兄さまを咥えこんだそのお口で何か弁明してみたらどうなの?』

 振り下ろされる拳や爪先など比較にならぬほどに、母の嘲りは醜悪だった。ダーシアはただ兄を愛しただけなのに、どうして母などに詰られなければならないのだろう。正式に婚姻を結んでいないとはいえ、夫と呼び表しても非難されぬ、間に二人の子も儲けた男を持ちながら、他の男と通ずる女などに。

 ――私は、あなただけには穢いなんて嗤われたくない。

 漆黒の夜闇を湛えた双眸で、あえかな一番星が瞬く。微風にすら掻き消される燃えさしの炎で母を対峙する女をねめつけると、自分のそれと全き同じ三日月の眉の片方が吊り上がった。

「残念ね、お前は結局最後までお兄さまに会えないままだわ」

 熟れた小麦ではなく人の子の吐息を刈り取る鎌めいた紅い唇が浮かべる侮蔑は、常ならばダーシアを脅かしていただろう。

 六年前からダーシアはずっと、母の気が済むまで押し黙って嵐の終わりを待っていた。でも、それはもう終わりにしなければならない。己の全ては兄のもの。自分の肉体を損ねることはすなわち兄を侮辱することなのに、どうして抵抗もせずにひたすら母に服従していたのか。

 ダーシアに触れてもいいのはエルゼイアルだけ。焦がれる異母兄の手によるものならば、どんな激痛も甘美な刺激となる。だが、彼以外の人間から齎される苦痛など、もう二度と舐めたくない。兄に愛された肉体を、兄の所有物を損なわせぬためならば、己を生み落とした女の血を浴びても構わない。

 娘は強風に煽られ熾火から猛火となった怒りが命ずるままに母の手首を掴み、ぎらつく刃を母の胸に向ける。線が崩れ、丸く形良かった頂きが僅かに垂れ下がってもなお魅惑的な実りに刻んだ裂け目から滴る汁は紅く、温かく、粘ついていた。

「ああ、そうなの」

 己が胸部に奔る亀裂を指でなぞり、指先から滴る葡萄酒を舐った女の、艶めかしく彩られた口元が妄執を湛える。

「お前もわたくしに歯向かうのね。マーリカのように、あの女のように!」

 娘に与えた仮初の名を吐き捨てた女のまろい膝が、娘の折れんばかりに細い腹部の中心を抉った。一呼吸ごとに激しさを増す鈍痛に耐えかね、豊かな肢体を折り曲げ倒れ伏すと、頭皮を剥ぎ取らんばかりの激しさでもって癖のない毛先を引かれて。

 細い顎を持ち上げられ、肉厚の花弁が描く曲線を愛でるようになぞられるおぞましさに、濃い睫毛に囲まれた黒曜石の双眸を上げる。

「やっぱり、似るものなのね」

 生理的な涙でぼやける視界に飛び込んできた、垂れ下がった眦とぽってりと肉感的な唇が特徴的な妖艶な面立ちは数十年後の自分そのもの。あるいは鏡写しであるのに、タリーヒはダーシアを通して己でも、死した双子の弟でもない、違う誰かを見つめていた。

「この唇に、この鼻の形。そして眉。……お前は、本当に、」

 怯え、震える女官の白い指によって丹念に磨き抜かれた爪が、深い琥珀色に突きたてられる。幾度となく兄が舐り接吻を降らせた目尻の片側に。

「――やめてください!」

 圧し掛かる母の肉体は重く、柔らかいが、それは光射さぬ森に迷い込んだ旅人の足首を掴み、最奥に引きずり込む底無し沼の柔らかさだった。嘴に突かれた白い腹から腸を曝け出した魚の腐肉が、死を食らう鳥の喪に服した翼が蕩けた毒の泉に引きずり込まれんとしてもがく溺者は、木切れではなく冷ややかな硬さを引き寄せる。銀の盆に鎮座する陶器において、唯一とりどりの糧でなく空白で己を飾った酒杯は、母娘の憎悪の相克に巻き込まれ大小の破片と成り果ててしまっていた。

 気取られてはならぬとそっと、しかし速やかに握り締めた欠片を、豪奢な衣服に覆われた肩に付きたてる。

「……あなたが! 母上があんなことをしなければ、私は今でも兄上と!」

 自らの指先が割かれ、浅からぬ擦過傷が口を開け悲鳴を発しても、娘は母に怨嗟を振り下ろした。

「ずっと一緒にいられたのに、とでも言うつもりなの? お前は本当に救いようがないわね!」

 どこかに飛んでいった刃などよりもなお無慈悲に脈打つ胸を穿つ侮蔑を浴びせかけられても。

「――そんなの、私は望んでない」

 かつての、母の安らかな胎内で微睡んでいた己を養った液体が溢れだす傷口をこじ開け、情炎燃ゆる暗澹をねめつける。

「私には、あなたも、神さまも必要ない。――兄上さえいれば良かったのに!」

 己の卑小な世界を照らす太陽であり統べる神である兄がいれば、たとえそこが地獄であったとしても楽園になり、兄がいない楽園はダーシアにとっては地獄となる。

 兄との別離を余儀なくされた六年前の冬の日から己を苛め続けた劫火に比べれば、母の瞳を飢えたけだもの同然にぎらつかせる焔など、春の日差しも同然だった。

「……この期に及んでそんな甘ったるい夢を見ているなんて。お前はやっぱり、」

 切れ、無残に腫れあがった、踏み潰された花弁じみた紅は嘲りを終いまで形にする前に散らされる。

「――捕らえろ! 愛妾とその女官だ!」

 亡き父たる王や、彼に認められた特例を除けばこの世の全ての男の侵入を赦してはならなかったはずの禁域に踏み込んだ衛兵たちは、たちまちダーシアと母の腕を掴んで捻り上げた。

 彼らはいつ、どのように、この長きに渡る歳月を経て醸されるのではなく、ぐずぐずに腐敗した怨恨が交錯する宮に足を踏み入れたのか。どこか場違いに生じた疑問をぶつける暇も自由も与えられぬまま、ダーシアは背に塩の塊か小麦の袋を積まれた驢馬とされた。

 母との争いで絞りつくしたのは気力だけではなく、戦慄く足はものの数歩で用をなさなくなる。しかし、鞭の代わりに爪先で押され、足裏を叩きつけられれば、再び働かさざるを得なかった。

 もはや二つの石の塊と化した脚を引きずりながら進まされたのは、王の娘たるダーシアにも、愛妾たる母にも禁じられた聖域への道だった。自分たちの住まいと似通っているが、どこか異なる装飾。その最たる物は扉に張りつけにされた竜なのだが、今にも羽ばたかんばかりに精緻に彫り込まれた威容に感嘆の吐息を吐くことはできなかった。雄大な翼には古び黒ずんだ飛沫が飛び散り、悲鳴じみた音を立てて開かれた扉の隙間からは、甘酸っぱく饐えた悪臭が立ち込めていたために。

 古びたものも、新しいものも、様々な鉄錆。そして汗やその他の人間の体液が混じりあった濃密な臭い。その中心には、愛おしく懐かしい麗姿が――兄が、いた。

 技芸の神の鑿によって形作られた彫像は、その至上の大理石の肌をおびただしい鮮血で汚し、黄金の毛先から生々しい滴を滴らせていてもなお、彼の容姿は世に類ない。しかし彼が掻き抱く女もまた、彼に劣らぬほどに美しかった。

 翼を紅く染めた獅子が閉じ込められた織物から覗く、細く伸びやかな脚から濁った体液を垂らしていても。白樺の枝めいていてすんなりとした腹部が、色も大きさも様々な一片に蝕まれていても。どんな貴石を飾っても恥じぬだろう、睡蓮の花を思わせる優美な指のうち、あるものは無残に毟られ、またあるものは爪を剥がれていても。すらと締まった腹部のみならず、優雅に波打つ黒髪にまで飛び散った汚濁に汚された薄い胸が、ぴくりとも上下していなくとも。花の茎か白鳥のそれに似たなよやかな首に刻まれた裂目から、むせ返らんばかりの鉄錆を漂わせていても、女は美しかった。

「おう……ひさま?」

 どうして、なぜ、亡き大帝国の皇女であり、大国の王妃である高貴な女性が、異母兄の母がこのような酷い目に。誰が、ザーナリアンを殺害したのか。その答えは、事切れた王妃の足元に転がっている。

 兄が振るった剣が、彼の母である王妃の息の根を断ち切った。敬慕する母を言語を絶する苦痛から解放するために、兄は己すらも殺したのだ。

「あ、あ、」

 目蓋を降ろして目前の悲劇を拒絶したくとも、崩れ落ちた床いっぱいに撒き散らされた滑りが、鼻腔に突き刺さる死の臭いが、

「あら、放っておけばそのうちくたばっていたでしょうに、もう楽にしてあげたの?」

 高らかに響く嬌笑が娘を悪夢すら超越したうつつに引き戻す。

「体格を弁えない豚が上に乗って、殿下のお母さまを悦ばせようとしたのはいいんだけど、」

 母が何を言っているのか理解できなかった。母が犯した罪を理解したくなかった。

「そのせいで内臓が傷んだみたいなのよ。だから、最近は生きているのか死んでいるのか分からなかったぐらいなんだけれど、それでもやっぱり長年の想いを遂げたがる男は絶えなかったのよね」

 世にもおぞましい哄笑をあげるけだものが己の母でなかったのなら。本当の母は既に地獄に引き込まれていて、背後で蠢いているのが母の皮を被った悪魔だとしたら、どんなにか良かっただろう。

「この女はね、一度だって殿下のお名前を呼ばなかったわよ」

 もうやめてくれと叫びたいのに、声が出ない。母の罵りを堰き止められないのでなければ、今すぐに兄の許に駆け寄って、彼の耳を覆ってしまいたいのに、萎えた手足は悔恨の鎖によって縛められてしまっていて。

 シュゼシスは命を賭してまで母の暴挙を教えようとしてくれたのに。ダーシアは勇気ある少年どころか異母兄が敬慕する彼の母の命までも、塵溜めに放り捨ててしまったのだ。

 怯懦と怠惰に沈むばかりの自分に、ほんの少しの気概さえあれば、悲劇は終幕を迎える前に筋書を変えられたはずなのに。

「殿下のお母さまはこの通りお美しいし、王が認めているのなら、そりゃあ男なら一度は“絶世の美女”と寝たがるのでしょうけれど、それにしても残念ねえ」

 月満ちればダーシアの代わりが生まれたのかもしれないのに。もっとも、今度は腹違いではなくて胤違いだけれど。

 醜悪極まりない揶揄が吐き出された瞬間、静謐に母を悼んでいた青年の秀麗な面から一切の情動が抜け落ちた。

「――そなたの雑言には既に飽いた」

 紡ぎ出された宣告は悲嘆のくぐもりではなく冷徹を纏っていて、聞く者の背を戦慄かせる。

「その口を動かし足りぬのならば、地下牢の壁を這う地虫を相手に囀るがよい」

 密やかに示された王命に従った兵が、怖気を振るわせる怪物を王から遠ざけると、程なくして惨劇の間には死者に哀悼を捧げるに相応しい静謐に戻った。

「この女はいかがなさいますか。主と同じ地下牢にでも、」

 自らと母が犯した罪に打ちのめされた娘の、伏せられた面を陰鬱に覆う毛髪が引かれ、隠された真実が露わになる。

 兄はたったの一目で全ての企みを薄闇から白日の下へ引きずり出したのだろう。六年前に神の許に旅立ったのは病弱な異母弟であり、その双子の姉であるダーシアがヴィードとして王を名乗ったのだと。異母妹の惰弱ゆえに、己が母は無残な最期を遂げたのだと。

 驚愕に瞠られていた瞳が細められ、整った口元が弓なりに持ち上がる。凄惨な殺戮を見届けた壁が跳ね返す哄笑は、タリーヒのものとは対照的に悲痛だった。

「そなたらはもう良い。下がれ」

 やがて正気に返った青年の眼差しからは、在りし日の親愛は見いだせなかった。ただ氷のみを宿す双眸が、咎人の心臓を貫く。

「しかし、この女の処分を」

「その女は、あの女に与えられていた部屋に放り込め」

 ――これには私が直接尋ねなければならないことがある。

 玉座を正統のもとに奪還した新たなる王の笑顔は深淵よりも昏く、唯一神による審判よりも恐ろしかった。

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