責苦 Ⅰ

 高みに儲けられた採光窓から差し込むのは、白金の一条ではなく清冽な唄であった。銀の鈴を転がすような音色を奏でる黒歌鳥は、春の訪れを告げる鳥でもある。遠い昔、喪服を纏っていてもなお可憐な生ける楽器を死肉を啄む烏と見誤り、傍らの兄に苦笑された日が愛おしかった。もう二度と、あの幸福には還れないから。

 鉄では肌理細やかな皮膚を徒に痛めつけ、膿ませ、場合によっては死に至らしめる傷を刻む。ゆえに寝台に艶やかな黒髪を散らす女の手足は、細かに編まれた牛革で飾られていた。繊細ですらある枷からは、武骨な鋼の鎖が伸び、厳めしい光は寝台の四隅まで続いている。

「……あにうえ」

 肩を震わせ啼泣する女が求める影はついぞ女の許に訪れず、女は疲弊に意識を蝕まれるまで悲嘆に沈むばかり。


 己や母に侍っていた妙齢の女官たちではなく、物言わぬ老婆たちの隙をついて部屋から飛び出し、懐かしい睡蓮の池に身を投げたダーシアは、しかし己が罪を償うことはできなかった。

 重い目蓋をこじ開けると、抜け出したはずの愛妾の間の、恐らくは母の居室であったろう見慣れぬ装飾がぼやけた視界に飛び込んでいた。いかにも温かな火が爆ぜる暖炉の側に横たえられた我が身からは、燦燦と降り注ぐ陽光に温められても冷ややかな水を啜った衣服は剥ぎ取られている。代わりに鎖骨から踝までを包んでいるのは兎の毛皮だった。奥底は未だ冷え切った肢体に沁みこむぬくもりよりも素早く全身に広がるのは、失望と絶望に他ならない。

 赤みを取り戻した豊かな唇を噛み締める。滲み出た紅玉の珠が淡く開いた亀裂に吸い込まれ、口内で鉄錆の臭気が噎せ返ると、眼裏に焼き付いた惨たらしい情景がじくじくと疼いた。色も大きさも様々な暴虐の痕跡が散った腿を紅蓮で汚していた、絶世の佳人の麗しき死顔が。事切れた女の血に塗れた、彼女の息子――誰よりも愛おしいのに、もはやそれを告げることすら赦されなくなった異母兄の沈痛な面が。

 分かっている。たとえダーシアごときが死んでも亡き王妃は蘇らず、彼女が味わわされた苦痛は和らげられはしないのだと。己が犯した罪は己が命程度では到底贖いきれぬ、恐ろしいものなのだと。だがそれでも、ダーシアは願わずにはいられなかった。

「殺してください」

 自らの世話役に任じられたらしき老婆たちの裾を握りながら。

「私を、殺して」

 彼女らのある者は聾であると知ってもなお、縋らずにはいられなかった。供される肉を切り分けるための小刀ナイフを首に押し当てても、己が母が亡き女性に舐めさせた苦杯とは比べ物になる苦痛を恐れるがあまり、いつしかとり落としてしまう臆病者の息の根を絶やしてくれと。しかし涙ながらに絞り出した哀訴は退けられ、日に二度差し出される食事に添えられるのは匙のみとなってしまった。ならばせめて兄との思い出に浸りながら地獄に堕ちようとしても、あえなく現世に引き戻されてしまう。

「どう、して?」

 兄が何故自分を生かそうとするのか理解できなかった。ダーシアは、兄の母である王妃への暴行を黙認した、おぞましい咎人なのに。ぽっかりと開いてはいても何者をも――ダーシアをこの部屋に放り込んで以来、ついぞその麗しい姿を見せていない兄を除く全てから逃避している漆黒の洞でも、金に朱に煌めく炎の舌はちらついた。

 水ですら雪げぬと拒絶された罪業でも、火でならば燃やし尽くしてしまえるかもしれない。松明の燈火に飛び込む蛾のごとく、恐れ躊躇いながらも伸ばした指は、大樹の乾いた幹を思わせる掌に遮られる。

「お目覚めのようだ」

 己の世話を担う老婆たちで唯一、深く刻まれた皺の一つかと錯覚してしまう口を開く老婆はどこか烏に似ていた。頭髪こそは色と艶を失ってしまっているが、纏った黒衣といい、嗄れた掠れた声といい。

 これまた名すらも伝えられていない唖の老婆を従え、ただひたすらに己が怯懦を悔いる妹の許に訪れた兄の肌は冷たかった。豪奢な黄金の髪など、毛先から水滴を滴らせてもおかしくはないほどに。だがそれとても、彼の瞳で燃え立つ憎悪に比すれば麗らかな木漏れ日だった。

「あにうえ」

 かつての自分たちならば真っ先に交わしていたであろう抱擁もくちづけも、応えすらもなく、しなやかな筋肉に覆われ引き締まった腕が伸ばされる。

「殺してください」

 六年前よりも逞しくなった首筋に顔を埋め、精緻な刺繍が施された襟を濡らしても、背を摩る手も頭を撫でる指も与えられない。

「おねがいですから、」

 微かな期待に縋って仰いだ面は変わらずに秀麗だが、至上の翠緑玉の双眸は焔を宿して怖気を振るうまでに憎悪によって研ぎ澄まされている。神の玉座に嵌められた貴石すら色褪せる眼差しは氷柱よりも鋭利に忙しなく脈打つ胸を刺し、縮こまった舌を頤に縫い付ける。

 ぎし、と不快な軋みを発して扉が開いても、手足はやはり萎えたままで。お伽噺の魔女の呪文を掛けられ石となった四肢では、もう一度あの泉を目指すなど叶わぬ夢だろう。

 言葉を備えぬ赤子か獣となって、ただひたすらに嗚咽を漏らし悔恨にくれる娘に与えられたのは、寝台に投げ落とされる衝撃だった。水鳥の羽が詰められた上掛けに受け止められた背はさしてどころかまったく痛まない。けれどもどうにか気怠い半身を上げると同時に、足首は節くれだっていて硬いがなお優美な指に縛められてしまって。

「あに……うえ?」

 驚愕のあまり背筋まで石にしたダーシアの問いかけなど聞こえていないのか、はたまた耳を傾ける価値などないと断じているのか。革を締められるこそばゆさに悶えさせた下肢はたちまち寝台に拘束された。蒼ざめてはいるがはちきれんばかりに豊満で瑞々しい肢体に絹の肌着が、春の庭園を模した華やかな小花模様が織り込まれた衣装が被せられる。すると両の腕の自由も取り上げられ、身じろぎすらできなくなった。

「……あにうえ」

 いかにも芳しいが己の食欲を刺激させるどころかむしろ減退させる肉汁スープを、老婆が操る匙に無理やりに押し込まれる苦渋は喉に痞えた。せり上げる嘔吐感に苛まれ、潤んだ視界では兄の真意を窺えるはずもなく。

 おどろに縺れた黒髪が象牙の櫛で梳られ、薔薇の香油を塗り込まれるまでを見届けた新たなる王は、朽ちた大木さながらに黙する老婆に何事かを言いつけて去っていった。それからどれ程の歳月が過ぎたのかは判然としないが、鈍痛と共に脚の間から流れ落ち、敷布を穢した紅蓮の生々しさは記憶の澱にも漂っている。甘く饐えた異臭の源に顰められた老婆の顔を溜息と共に突き付けられたのは、二回……。いや、三回だったのか。もう何もかもが判然とせず、何もかもが遠く隔てられている。

 己が偏狭で卑小な世界を照らす太陽を失った娘が、心身を蝕む暗鬱からほんの僅かにでも逃れられるのは、温かな湯に浸された布が己が肌を滑り清める間のみ。ゆらり、ゆらりとただ無為に流れる時は沼に似ている。ダーシアはその生温かな水底に沈み、魚に啄まれる亡骸にならんとしたが、赦されなかった。

 日に一度。多くは朝に行われる、寝台を筆頭とする居室の調度品の手入れの際は、両足の拘束は外される。脚を折り曲げることさえ叶わなくさせる短い鎖から解き放たれれば、歩行は容易になった。しかし、自由は扉の内側どころか寝台の周囲のみに限定されていて、清廉な花が咲き誇る畔を目指すなど夢物語なのだ。

 この手からすり抜けた――否、知らず知らずの間とはいえ、己の意志でもって路傍に投げ捨て粉々に砕いた宝の残骸を観賞する貴重な刻たる微睡みを己から取り上げる朝も老婆たちも、来なければいいのに。

 ぎ、と薄い木の板が耳障りな悲鳴をあげる。いや、叫んでいるのは自分の心だ。今すぐにも兄の足元に平伏し彼の剣でもって首を刎ねられたいのに、兄はダーシアの目の前から姿を消したまま。

 でも、もしかしたら、今日こそ兄上が。

 儚い希望に牽かれて戸口に向けた首は瞬く間に項垂れる。己が横たわる褥に近寄ってくるのは彫像よりも美しい青年ではなく、美醜どころか性の判別すらも容易ではないほどに老いた女たちであったから。足音どころか気配すらない彼女らは、常になく絢爛な布を捧げ持っている。袖や胸元に真珠が縫い付けられた衣服は虜囚に着せるにはあまりに華美だったが、懊悩にもがれた翼は羽ばたかない。

 かつてダーシアが煌びやかな衣装や装飾品に焦がれたのは、全てエルゼイアルのためだった。兄に焦がれる少女は彼の薄く整った唇から称賛を引き出すためだけに、時に半刻にも渡って髪を梳いていたのだ。しかし、エルゼイアルはもう二度とダーシアの耳元で愛を囁いてはくれないだろう。

 気性の荒い家畜にそうするように牽かれて赴いた浴室では、山羊乳の甘い香りが立ち込めている。赤い一片を浮かべた白い水面に身体だけでなく頭頂までを浸せば死ねるのだろうかと思案しても、傍らには監視が控えていて実行などできそうにない。

 かさつき、ささくれだった指で滑らかな琥珀を損なっては畏れているのか。あるいは兄にそうせよと命じられているのか。いずれかは定かではないが、老婆たちは海綿で慎重に褐色の肌を擦る。上気した全身と洗い上げた長い髪に薔薇の薫りを塗りこめ、手足の爪を海に住まう女精の胸を飾る貝の代わりとするに似つかわしいまでに手入れされているうちに、いつしか日輪は天頂から地平線の彼方まで転がり落ちていた。

 罪人である自分をこんなに着飾らせてどうするのか。どうせ、後は寝室に戻るだけなのに。

 引き結んだ唇を割ってこみ上げる疑問を吐き出さんとしても、唯一の口が利ける老婆の姿は傍らにはなかった。けれども、あの梢に止まって夜闇を不気味に揺るがす鳥めいた声はどこかからか轟いてきて。

「陛下のおなりだよ。ようやく北の狐狩り・・・から戻っていらっしゃったんだ」

 老婆たちの退出と同時に塵一つ残してはならぬとばかりに掃き清められた部屋に、神と見紛うまでに整った面立ちの青年が足を踏み入れる。設えられた椅子に坐し、卓を挟んで対峙するダーシアに手向けられた微笑は厳寒よりも凍てついていた。

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