責苦 Ⅱ

「待たせたな、ダーシア」

 幾人もの女たちに磨かれ、飾り立てられた自分など及びもつかぬほどに兄は麗しい。整えられた毛髪はえり抜きの貴石が嵌めこまれた冠よりも、玉座よりも尊く輝く。太陽よりも輝かしい黄金色に縁どられた面には、理想そのものの弧を描く眉が、狂いなく真っ直ぐに通った鼻梁が、涼しい双眸が、理知的に引き締まった薄い唇が、完璧にして完全な調和を保ちながら配置されていた。

 異母兄が亡き母より、あるいは神から授けられた美は目鼻立ちのみに留まらない。絶世の麗貌を支えるに相応しい長身は細身だがしなやかな筋肉を纏っていることは、その肌の白さを際立たせる深紫に染められた上衣に覆われていてもなお明らかで。柔らかな黒を引き立てる金の蔓草が刺繍された衣に包まれた脚は伸びやかに長く、力強く、すぐさま長靴の先に縋って接吻したくなった。

 ダーシアはもはやエルゼイアルの唇に触れることも、指を舐ることも赦されない。ならばせめて、たとえ無粋な鞣革越しであったとしても、兄を感じていたかったのだ。

 罪深いこの身を腰かけるには高雅な装飾が施された椅子から降り、無造作に、だがこの上なく優美に投げ出された足元に跪く。震える指を引き締まった足首に添えると、じんわりと染み入ってきた体温が愛おしかった。

 床に押しつぶされた乳房による息苦しさを堪えながら、肉厚の花弁を割って這い出た桃色の蛞蝓を黒褐色の牛革に這わせる。叶うことならば、靴などではなく異母兄の素足を、指と指の合間までをも余さず舐りたかったが、それはあまりにおこがましい願いだった。

 靴先に留まった涙の粒を啜り、爪先を柔らかな口腔で包めば、緩慢ながら断固たる意志を込めた一蹴で払いのけられてしまって。

「何ゆえにお前は犬の真似事などをする?」

 細い顎を伝って滴った己が唾液などよりも、兄の冷笑は冷ややかだった。頭皮が剥がれ落ちんばかりの力でもって髪を掴まれ、息を呑むまでに整った面のほど近くまで引き寄せられる。

「私の爪先を舐ればお前の罪が贖われるとでも考えたのか? 母上の苦痛を無い物にできるとでも?」

「……ごめんな、さ」

 肩を押され、磨き抜かれた花崗岩に強かに背や臀部を打ち付ける苦渋も、突き付けられた悲嘆と憤激が齎す激痛には比せられなかった。

 後頭部から広がる疼きと痺れに苦悶の喘ぎを漏らし、肉塊を前にした瀕死の野犬のものじみて荒い息を吐く口内に、節くれだった三本が差し込まれる。

「私に対して徒に動かす舌があるのならば、」

 舌を摘ままれ、引かれる痛みに呼び覚まされた嘔吐感は退けがたいが、堪えるために口を閉ざすこともできない。

「なぜそれをお前の母を諌めるためには動かさなかった? お前もあの命が形に成された場にいたのなら、なぜそれを他者に伝えようとしなかった?」

「あに、うえ」

「お前の身を何よりの証とし、あの女の企てを高官なりに吐露すれば、此度の乱の芽は早々に摘まれたろう。さすれば母上は……」

 亡き佳人は数多の男にその身を穢されも、タリーヒの妄執に身を損なわれもせず、今も穏やかに微笑んでいたのかもしれない。隣にあの厳めしくはあるが気高い忠義心を備えた女官を従え、彼女と見つめ合いながら……。

 己の頭にほんの少しの勇気と知恵が詰まってさえいれば、そのような未来もありえたのだろう。幸福な女たちの様子を、陰ながら兄が見守る、穏やかで満ち足りた日常が。だが、甘い蜜にも似た可能性が注がれた玻璃の器はダーシアが大地に叩き付け、粉々に踏みつぶしてしまったのだ。

 私は、王妃さまだけでなく、兄上すらも殺してしまったんだ。

 縛めから逃れ、氷柱よりも冷厳な糾弾の眼差しと悔恨に胸を抉られるばかりとなっても、喉と舌は気づかぬうちに猛毒を嚥下していたのかと錯覚するまでに痺れていて用を成さない。

 兄の耳には怪物の咆哮として響くのだと悟っていてなお、紡がずにはいられなかった哀訴すらも、舌先から硬い指先が滑り落ちなければ発せられなくて。

「……わたしを、ころして」

 分かっている。ダーシアごときが死しても残忍な責苦の末に非業の死を遂げた王妃は還らないのだと。己の血潮では兄の凍てついた憎悪は融かせず、また母や己が犯した罪を雪げもしないのだと。

 己を押しつぶす懊悩は、母の息の根を己が剣で断ち切らねばならなかった青年の苦悶と同じ秤に乗せることすらおこがましいものなのだと理解している。だがそれでも、ダーシアはこのままでは生きていけない。エルゼイアルに憎まれたまま、己が罪業に心身を苛まれながら無為に過ごすならば、もういっそ兄の手でもって全てを終わらせてほしかった。

 一面のいばらの園を素足で闊歩するなど、惰弱で卑劣な己にはできはしない。いずれ鋭利な断罪の棘に刻まれた裂け目からあたたかな生命を流し尽くすのなら。あるいは飢えによって終焉に至るのなら、絢爛たる大輪の影に潜む蛇に喉を締められても同じであろう。

 むき出しの首に回された硬い皮膚をダーシアは拒まなかった。むしろ、己が手を添え、骨を軋ませる激高の介添えさえした。

 容赦も躊躇いもなく加えられる力が増すごとに、頭の芯にかかる靄は濃さを増す。葡萄酒など一滴も嚥下していないのに、四肢の感覚は酩酊したかのごとく曖昧になり、記憶の澱は逆流し渦を巻き、過去と現在が入り混じった。

 少女に戻った娘は濃密に垂れ込める乳白色の霧を駆け抜け、懐かしい紅薔薇の下で佇む少年の腕の中に飛び込む。

 ――愛しています。

 その言葉は現実には発せられなかったはずなのに、妖術師がかけた悪しき魔術を解く妖精の呪文となって幻想を打ち砕く。緑滴る薔薇の芽は朽ち、艶やかな花弁は古びた血飛沫同然にくすみ、いつしか麗らかな庭園はすっかり荒れ果ててしまっていた。懐かしい睡蓮の池に、兄との思い出に飛び込まんと駆ける最中、荒れ狂う心臓に棘に刺さり続けた惨状そのものに。

 圧迫から解放され甘やかな夢想から非情な現に舞い戻った女の、朧な目に飛び込んできたのは、六年の時を経て更に美しくなった何よりも愛おしい存在だった。

 少年であった時分はダーシアの髪を優しく梳き、唇や乳房や臀部や太腿のまろみを愛おしげに撫でていた手を、兄は呆然と見下ろしていた。

 さも信じられぬと言いたげに。もっとも信頼していた何者かに離反され、深淵に突き落とされたかのように。

 再開の日に母の血に濡れていた手を一身に注がれていた眼差しは、やがて激しく咳き込み浅ましくも生を求めて呻く娘の魂までをも縛めた。

 起こした半身を床に押し倒され、折れんばかりに締まった腹部に圧し掛かられる。両の手首を掴まれ腕を頭上で捻りあげられる衝撃は、十匹の蛇が這いまわった痕跡が蒼く刻まれた喉を壊れた笛にした。

 どうして私を殺さないのですかと尋ねたい。尋ねなければならないのに、声が出ない。はちきれんばかりに盛り上がった胸元の艶めかしさをいや増す、意匠化された葡萄の紋は鳩の血の紅を啜った布地ごと引き裂かれてしまって。あえかな悲鳴を漏らすのは衣装であって自分ではないのに、何故だか自身が襤褸切れにされているようにすら感じた。

 乳房の下に彫り込まれた縦長の臍や、陰部の翳り、むっちりと肉付きのよい脚まで露わにされても、羞恥を煽る部位を己が手で隠すこと気力など湧き起こらない。衣服の囲いを打ち壊され、転がり出たたわわなふくらみの一方は形を変えんばかりの強さで揉みしだかれる。もう一方の頂を千切り取らんばかりに捻り上げられれば、吐息同然に掠れた悲鳴が飛び出る。

 褐色の項に赤い花を咲かせ、鎖骨の窪みを舌先で確かめる青年の、芳しい髪がむき出しの胸元をくすぐった。背筋を駆けのぼるこそばゆさに悶えた肢体は、こぼれ落ちた果実の先端を挟まれる痛みに硬直する。

「……あに、うえ……? なにを……?」

 嗚咽に遮られながらも吐き出した問いへの応えは、凍った湖面が弾く真冬の陽光よりも凍てついた微笑。喪われた女性のそれに酷似した、奥底を凍てつかせるまでに麗しい冷笑だった。

「犯す」

 生まれて初めて耳にした響きだが、その意味を察するのは困難ではない。

「お前は生きよ。――生ある限り、母上が味わった恐怖と苦痛に苛まれるがよい」

 兄は教えようとしてくれているのだ。お前の罪を決して忘れられてはならぬと、ダーシアに刻み付けようと。そのためならば唯一神が定めた則を越え、禁を犯すことも躊躇わないまでに、エルゼイアルはダーシアを忌まわしい物だと見なしている。

 やめてと泣き叫んでも兄の怒りが静まるはずはなく、そもやめてなどと懇願する権利など自分にはない。けれども己自身ですら踏み入れたことのなかった隘路を他者の一部で蹂躙される違和感は、唇を噛みしめても啜り泣きとなって艶やかな黒髪を濡らす。胎内を拓き、掻き乱す指はいつしか数を増やしていて、そのまま内臓を掻きだされるのではと恐れずにはいられなかった。

「あ……にうえ、こわ、い……」

「知ったことか」

 かつて自分を恐怖から救いだし、陽の下に連れ出してくれた人に縋っても、あえなく突き放されるだけで。

 大きく開かされた脚の合間に、熱く、硬く、脈打つ肉が当てられる。指など及びもつかぬほど太く大きいのだろうそれを目に映すなど、恐ろしくてできなかった。直視すればきっと、襲い来るだろう我が身を裂かれる激痛を思うがあまり気が狂ってしまう。

 苦渋に撫でられ、緩やかに降ろされた目蓋をこじ開けたのは、柔かな果肉に突きたてられ、捩じり込まれた切先の鋭さだった。

 非情な網に絡め取られ深海から引き上げられ、地獄の劫火で炙られる魚となって口を開いても、腰を打ち付けられ奥底までを一息に抉られるのでは。肺腑に溜めたわずかな空気はたちまち押し出され、脳裏どころか視界までが兄と重なり合った部位から流れ出した血の色に変じる。

 虚ろをくまなく満たす質量は徐々にその大きさを増していて、内側から破けるのでは、と幾たび目かの恐怖が背筋を駆けのぼる。だが、憂慮はじきに徒花となって儚く散っていた。最奥で生温かなものが弾けると同時に、攻め抜かれ疲弊した意識も弾けたのだ。

 ひりついた目はついに閉ざされ糸が切れた傀儡さながらに崩れ落ちる。咎人の肉体は、逞しい腕ではなく、兄妹の体温を吸って温もった石材に受け止められた。


 ◆


 組み敷いた女の胎に精を注ぐと、押し殺された啼泣が止まった。萎えた己を引き出し、一切の赤みが引いた頬を打擲しても、濃い睫毛に囲まれた黒曜石は姿を現さない。破瓜の血と白濁が伝う腿を持ち上げ、屹立した己を無残に痛めつけられた――エルゼイアルが痛めつけた亀裂に押し込んでも。深い琥珀色に新たな花弁を散らしても、妹は目を覚まさなかった。ついに限界を迎えたのだろうか。

 弛緩した首筋に歯を立てれば、代価品では得られなかった満足と渇望がこみ上げる。

 もう一度、これを味わいたい。

 欲望が命じるままに妹を貪っていると、噛みしめられ腫れあがった口元が緩んだ。

「…………え」

 ダーシアがいつの夢を見ているのかは分からないが、今宵ぐらいは安楽に浸らせてやってもいい。

 最後の熱情を吐き出し、なよやかな背と膝の下に腕を回す。思うままに穿った異母妹を抱え上げた王が目指すのは、彼女の寝台に他ならなかった。

 真白の敷布に健やかとは評しがたい寝息を立てる肢体を横たえ、眠りを妨げぬように唇を重ねる。そして彼女に背を向けた王は、ただの一度も振り返らずに愛妾の宮から遠ざかった。

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