給餌 Ⅰ

 実体を備えぬ黄金の槍は疲弊した目蓋をも貫き、漆黒の洞に夜明けを突き付けた。 

 母の胎内で安らぐ胎児を真似てか、あるいは還ってか。身を丸めて微睡む女は、採光窓から覗く輝かしい薔薇色の暁ではなく、忸怩たる違和感のために虚無そのものの瞳に光を映す。過ぎ去ったはずの月影も星彩も射さぬ暗澹を嵌めこまれた双眸を囲む、濃密な黒が震える様は、孔雀の羽ばたきめいていて婀娜だった。金粉に縁どられた藍の目玉が散りばめられた絢爛たる装飾に似ているのは、蒼ざめた頬に艶めいた影を落とす睫毛のみではない。

 全身に圧し掛かる疲労と長い髪を除けば何物をも纏わぬ裸体には、深い緑が掛けられている。入った覚えのない寝台に自分が横たわっている理由と経緯を探ろうと、縺れ絡まり合った糸玉の端を握っても、あえかな絹はぷつりと千切れてしまうばかりで。 

 ならばと脳内に立ち込める濃い靄を払わんとしても、四肢は泥が詰められた革袋とすり替えられたのかと錯覚してしまうまでに重い。

 これは本当に自分の手と足なのだろうか。もしかして、夜の間に扉や窓の隙間から忍び込んだ魔女の呪いをかけられていて、冷たい灰色の石になっているのかもしれない。

 抗いがたい恐怖に突き動かされ、三日月の眉を苦悶に顰めながら持ち上げた腕も、そのか細い先端も、普段と変わらぬ滑らかで温かな褐色をしていた。けれども、ほうと漏れ出た安堵の息はたちまち驚愕の喘ぎとなってしまって。

 ――どうして、こんなところに蛇がいるの。

 己が手首に絡みついた澱んだ紫のくちなわを払い落とさんと、鈍重な肢体を持ち上げ、下肢の付け根から奔る激痛を堪えながらも腕を振る。乱れた髪を更に、狂女さながらに縺れさせても、長虫は執拗に絡みついたまま。ならばとあの生臭い肌に触れる嫌悪に強張った指先が感じ取ったのは、肌理細やかな人肌から染み入る体温だった。起きながらに見る夢にしては奇妙に鮮明に小首を傾けると、ふいに露わになった胸元が飛び込んで。

 幾つもの薔薇の花弁が散らばる豊かな大地から盛り上がった双の山の片方には、くすんだ赤の手形がまざまざと浮き上がっていた。その片割れの頂は血を滲ませ、痛ましく腫れあがっている。

「……あ、」

 坐した寝台から投げ出した豊かな腿を伝う液体には、一筋の紅蓮が入り混じっている。己が内に穿たれた虚ろから垂れるそれを指先に絡め、鼻先に近づけると春の庭園のそれとはかけ離れた青臭さに噎せ返った。

 甘酸っぱく据えた月の障りではありえぬ雫に塗れた指先を舐る。するとたちまち胃の腑からせり上がった嘔吐感に耐えかね折り曲げた肢体は、寝台から転がり落ちた。柔らかな肌が硬い石材に受け止められる衝撃は赤錆の霧を追い払う風となり、躊躇う真実の手を引いて白昼の下まで誘う。

 苦痛に瞠られた眼に突き刺さる天井は部屋こそ異なれど、異母兄に組み敷かれ穿たれながらも仰いだそれとまるで同じで。ダーシアの絶叫と啜り泣きを、兄と妹が踏み込んだ禁忌の一切を静観していた偽りの天は、今なお涼しい顔をしてこちらを見下している。己が怯懦で一人の女を死に追いやった罪人の頭目がけて石片の雨を降らせもせずに、ただひたすらに高みから。

 ぼやけた視界の端に映る真の天空には澄み切った青が湛えられていて、神の怒りの徴が轟く気配すらない。けれども神は――この世を創り支配する唯一神ではない神は、己が矮小な世界を統べる太陽は、ダーシアを赦しはしないのだ。

 じんと疼き不快な熱を帯びた頬を無意識に心地良く冷えた花崗岩に押し当てる自分がおぞましい。

 通り過ぎた夜に、胎に生温かな憎悪を注がれるやいなや崩れ落ちたダーシアを非情で残酷な現実に連れ戻したのは、技芸の神が拵えた彫像の冷笑と顔面に叩き付けられた怒り。

『起きろ。お前にかような安楽に逃避する自由などありはしない』

 そして猛り狂う蛇に腸を食い破られる激痛だった。

 破瓜の血と吐き出された精を潤滑油の代わりとして、隘路の奥の奥までを暴いた剣に張りつめていた意識の糸を断たれれば、頬を打擲されて。自体が一個の生物であるかのごとく脈打つ肉は、空洞をすっかりこじ開けてしまっている。ゆえに熱く脈打つ杭を抜き取られた今となっても、脚の間は依然として何かが挿しこまれているような違和感に貫かれていた。

 以前と変わらずに愛しているが、もはや愛を囁くこともその証を乞うこともできなくなった兄に強いられた交合は、己にとっては拷問そのものだった。ならば、数多の、多くは名どころか顔すらも知らぬ男達にこれを強いられた王妃の苦痛はいかほどであったのか。――それは、ダーシアが察することすら罪深い恐慌だった。

「……あに、え。おうひ、さま」

 酷使し続けたために掠れた喉で紡いだ悔恨は、醜くひび割れている。

「ごめん、なさい。……ごめ、なさ、」

 もはや天上の人となった王妃どころか、愚かな異母妹に踏みつぶされた心を抱えてなお生きる兄にすら届かぬと弁えていてなお、懺悔は虚しく胸に響く。

 自分が死んで兄の母の死をなかったことにできるのなら。己が血潮で彼女が舐めさせられた汚泥が雪げるのなら、ダーシアは喜んで己が首を兄に差し出しただろう。だが、エルゼイアルは生きろと言った。生きて、己が母の苦痛の幾分かでも構わぬから味わい、苦しみ抜けと。

 頬をひりつかせる雫は生ある者にしか流せぬ生命の象徴であるが、ダーシアが流す涙が誰よりも愛おしい青年の氷を溶かすなど叶うはずもなく。己の醜悪さに耐えかね催した吐き気の大波は、今度こそ全てに押し寄せ洗い流すばかり。

 入り混じって一つの淡紅となった禁忌の滴りと胃液で汚れた床に額を押し当て、喉を登る粘りに身を任せる。

 吐き出した吐瀉物が喉を塞いで絶命する。それは即ち兄の意に背くことであり、エルゼイアルは自分の許可なく命を絶ったダーシアに憤慨するのだろうか。それとも、かくも無残な断末魔を遂げた母の仇の醜態に、ほんの僅かであっても溜飲を下げるのだろうか。

 分からないが、やってみる価値はあるだろう。兄が少しでも彼の心身を蝕んでいるだろう懊悩から逃れられるのなら、ダーシアは己など路傍の石同然に投げ出せる。

 擦過傷に染み入る吐瀉物を吐き出さんとする衝動に抗うには、ダーシアはあまりにも怯懦だった。髪の生え際や蟀谷こめかみを不快に濡らす脂汗が齎す不快感と息苦しさにこじ開けられた花弁からあふれ出たのは、黄金の蜜ではなく汚らしい体液でしかなくて。

「……随分なお目覚めだねえ。こりゃ、俄然掃除のしがいがあるってもんだよ」

 気配も足音もなく饐えた臭気が渦巻く一室の扉をあけ放った老女たちに肩を支えられ、背を叩かれ空の盥に全てをぶちまけてしまえば、窒息すらままならない。

 引き裂かれた衣服を剥ぎ取り、汚辱で穢れた全身を温かな湯に浸された布で清める乾ききった小枝は忙しなく、まるで蝶さながらに深い琥珀色のあちらこちらに飛び回っていた。あらぬ体液に塗れべたついた毛先を解きほぐす手つきの鮮やかさなど魔法そのものだが、世の習いでは魔術と称されるものは全て悪魔に属するとされている。無論ダーシアにとっても、己の罪深い身を明日に繋がせんとする老婆たちは、悪魔とはいかずとも魔女の使いに匹敵した。

 新たな、清潔な袖に包まれた腕で芳しい湯気を立てる肉汁スープ麺麭パンが乗った盆を遠ざける。すると死にも通ずる静謐を常にその面に張りつけた老婆の群れの長は、烏の囀りそのものの笑いを発した。

「いらないのかい?」

 返事の代わりに首を振り、己が意志を伝えても、彼女の一切は変わらない。

「まったく、我儘な愛妾さまなことだ。陛下に、もう一度枷を使うべきだと訴えるべきかねえ」

 驚嘆が命ずるままに幹に張りつく苔を思わせる手を取り、どういうことだと問い質したくとも、この老婆は聾である。生まれながらにではなく、何らかの不幸に音を奪われた彼女は、喋れはすれどももはやダーシアの想いに傾ける耳は持たない。

 唯一の口が利ける老婆の背後に控える唖たちの面は、聾のものとは全く対照的であった。ある者はあるかなしかの薄い眉の間に嫌悪を刻んでいる。またある者は色褪せた唇を忌避の念に捻じ曲げ、またある者はダーシアに触れた手を長い裳裾で擦っていた。そうせねば神に唾した大罪人から移った穢れが、己の魂に沁みついてしまうのだと彼女らは考えているのだろう。つまり、唖の老婆たちはダーシアの正体に感づいている。三代目の王を弑逆し、玉座の簒奪を目論んだ王の愛妾の女官マーリカ・・・・は、六年前に病没したはずのダーシアであったのだと。

 エルゼイアルがダーシアを、兄が妹を妾にした。かつての己の父母の在り方を彷彿とさせる手段を講じた兄の意図を、妨害し非難する者はいなかったのか。ついに成し遂げられ真実とされてしまったとはいえ、父が弑された夜には未だ甘い夢想に過ぎなかった虚実の情交でもってエルゼイアルを破門したあの司教は、高官たちは。兄の学友という青年は、一体なぜマーリカを処刑すべきだと主張しないのか。彼らにとっても、マーリカは朋輩や親類を虐殺した女の、憎み罰するべき配下であるはずなのに。

 すり潰した赤い扁豆ひらまめを鶏と香草の出汁ブイヨンで溶いたのか。白い息を吐く汁は老婆が操る匙の先からどろりと滴り、古び黒ずんだ血のようだった。蒼ざめた亡骸の肌の下で淀む穢れた命を抜き、新たに生命漲る赤い潮を注いでも、死者は生き返らない。王室礼拝堂の一角で永久の眠りを貪るダーシアは、たとえ遺骸を掘り起こし、百の鞭を振り下ろし火にくべても、二度目の断末魔を迎えはしない。

 ダーシアは公的には既に死していて、マーリカは王の尊い血など欠片も引かぬ賤民である。ゆえにダーシアは四代目の王として即位したエルゼイアルの愛妾とされたのだ。

 復讐のために母妃殺しに加担した咎人を囲う王を、臣民たちはどのように噂しているのだろう。凄惨な悲劇のために父母を喪った哀れむべき青年か、あるいは畏れ跪くべき君主か。それは個人によって異なるのであろうが、誰しも兄の絶世の美貌に狂気の翳りが落ちてはいまいかと目を凝らすだろう。ザーナリアンの面影を探すのだろう。

 縫い付けでもすれば話は別なのだろうが、人の口は他者の思惑では閉ざせない。あの王の母は世に類なく美しいが狂っていたとの囁きが翼を生やして、玉座に坐す青年の肩に留まる日は存外すぐに訪れる。その時、エルゼイアルは息絶えてなおも徒に貶められる母のために心中で嘆くのだ。

 ――やっぱり、兄上を苦しめるだけの私なんて死んでしまえばいい。

 執拗に、浅ましくも鎌首を擡げる飢餓感を退け、水すら拒絶した一日。ぽっかりと開いた虚ろから零れる嘆きを啜った決意は、心臓に絡むまで深く根を張る。しかし王のほど近くを彩るにはあまりにおどろな雑草・・は、いずれ引き抜かれる定めであったのだ。

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