給餌 Ⅱ
破瓜の血と精液に汚れたために取り換えられた敷布に投げ出された手足は、肉付きこそ一日前と変わらない。けれども元来惰弱にすぎた力の一切は失われ、枷で縛められておらずともぴくりとも動かせなかった。
このまま食と水を絶っていれば、ダーシアは程なくして地獄に堕ちられるのだろう。兄がいない世界への旅立ちは、以前は身の毛がよだつまでに恐ろしかったのに、今となってはむしろ望ましい。褐色の肌に張り付き、いつか一つになってしまいそうな上質な紺の絹布すらもはや重苦しく感ぜられるのだから、己の死期は既に寝台のほど近くまで這い寄っているに違いなかった。
「ダーシア」
それは神のせめてもの温情なのか。とすれば、己に慈悲を垂れるならなぜダーシアの怯懦の犠牲となって儚くなった女性を救わなかったのかと問い詰めずにはいられないが、朦朧とした意識で捉えた声は兄の美声そのものであった。
幻ならば、縋っても赦されるだろうか。
「あにうえ」
眦を煌めかせる一筋を掬う指は白く、硬い、大理石の彫像のそれに他ならない。己が弱さが織りなす夢想にしては温かな手は、頬に張り付いた黒髪を払いのけ、飢えと渇きに苛まれた肢体をそっと抱き起してくれた。
逞しくなった背に腕を回し、肩に額を押し当てても、褥に押し倒されも服を剥がれもしない。強引に脚を開かされ中心を穿たれもしなかった。
「……あにうえ!」
涙に咽びながら啜り泣き、深淵からとめどなく浮かび上がる慙愧を吐き出す。
ごめんなさい。王妃さまは、私のせいで死ぬよりも辛くて酷い目に遭ってしまった。私が弱かったから、母上を止められなかった。王妃さまを助けられなかった。
脈絡なく、途切れ途切れに紡がれる告白を受け止める兄の面に湛えられた微笑は麗しく、絵師でさえこれ以上に美しい弧を描けぬであろう眉には憂いが湛えられていて。むずがる赤子をあやすがごとく震える背を撫でる掌から染み入るぬくもりは心すらも温めた。
「お前は、」
頑なに引き結ばれていた薄く整った口元が緩められる。この次に控える言葉は何だろう。幻の兄ならば、ダーシアが渇望する連なりを囁いてくれるのではないだろうか。
唯一にして至上の神に捧げる祈りめいていて真摯な想いは、張りつけられた花弁の幾ばくかは風に吹き飛ばされたのか消えてしまった胸を締め付ける。癖のない黒髪を掻き分け、巻貝の耳を露わにする仕草も、耳朶から項までをも甘やかにくすぐる吐息も、かつての兄のものでしかない。
「かように涙を流して懺悔するなら、何ゆえに食を絶つ?」
しかし突き付けられたのは、氷の憎悪と炎の激怒を秘めた、冷厳なる裁きであった。
いつの間に控えていたのか。兄の背後で佇む老婆のうち、ある者は銀の盆を捧げ持っている。またある者は、二人がかりでダーシアが悔恨に沈む寝台の傍らまで小卓を運んでくる。
色合いが異なる二種の木材の組み合わせでもって、羽ばたく小鳥と蔓の文様が描かれた卓は優美そのもの。その上に大輪の薔薇が生けられた花瓶が飾られでもしたら、この暗澹にも少しは光が射すのだろう。だが、現実に乗せられたのが初夏を象徴する果物が盛られた器と、幽かではあるが確かな湯気を立てる平皿とあっては。
水晶か氷柱を切り出し彫り込んだかのような硝子は、爪の先で突いただけでもひび割れ砕け散ってしまうのではと危惧してしまうほどに儚い。けれども幻想的でさえある透明な容器は、目を楽しませる美術品としてではなく、一個の入れ物としても有用であった。
丸く磨きぬいた紅玉。あるいは血に染めた真珠と見紛うばかりの桜桃は瑞々しく、杏は今にも地平線に沈みゆく太陽そのものの橙に染まっている。李と葡萄の紫は互いにその高貴さを競い合うがごとくで、皮を剥いて中身の色合いを確かめたくなった。だが、熟れた柔らかな果肉に己が歯を沈め、芳しい果汁で唇を濡らしたいとは思えない。言葉なく発せられる命の仔細は察せられるが、従うための力は残っていないのだ。
ぽってりと肉感的な亀裂を割らんとする桜桃を頭を振って拒絶すると、赤い珠は薄紅の断罪の証が散らばる谷間に転がり落ちてしまって。
「……あ、」
迸る羞恥とこそばゆさが命じるままに、上目遣いに己を統べる神――異母兄の、この世にただ一対だけとなった極上の翠緑玉の双眸を見つめる。絶世の美貌を飾るに相応しい宝玉では、触れれば魂までもが凍りつくに違いない焔が揺らめいて、それゆえに一層美しかった。たとえ二十の指全てが、どころか手足が腐り落ちようとも抱きしめずにはいられない氷像の麗しさを、何と評すれば良いのだろう。
「ダーシア」
苛立ちが滲む声で呼ばれなければ、水鳥の羽が詰められた上掛けを捲られ、すっかり冷めて生ぬるくなってしまっただろう食事に対峙させられたことにすら、恐らくは永遠に気づけなかった。このまま飢えて死して亡霊と成り果てても、ダーシアは永遠に誰よりも愛おしい彼を見つめていただろう。
胸元の実はいつのまにやら花崗岩の灰白を冴え冴えを際立たせる鮮やかな紅となってしまっている。ぐしゃりと潰えた憐れなる一顆の甘酸っぱい香気は肉汁の匂いと入り混じり、胃の腑と食欲を――ひいては生への欲そのものを縮こませた。
幾度匙を握らせても取り落とすダーシアに業を煮やしたのか、罪業からの逃避と取ったのか。艶やかで癖のない黒髪に覆われた後頭部に添えられた掌の硬さはいや増し、たっぷりと折り重なる花弁を支える茎にも似た首は枯れ、朽ちかけた蔓同然になる。怯えに歪んだ褐色の面はついに冷え切った琥珀色に沈められ、淡く開いた唇の隙間からは岩塩のまろやかな辛味が侵入してきた。
「お前のために用意させたのだ。丹念に味わえ」
長く食を満足に摂っていなかったダーシアの身体を驚かせぬためなのか、ごくごく薄く味付けされているはずの汁が口内をひりつかせるのは、己の涙が混じるため。嚥下すればするほどに乾きを覚える液体のあらかたを啜っても、己を押さえつける力は緩まない。桃色の舌を飢えた犬さながらに動かし皿全体を舐め取ると、ようやく面を持ち上げられた。
細い顎から滴り落ちる雫はどんな首飾りよりも艶めかしく豊かな胸を飾る鎖骨を伝い、深い谷間に吸い込まれる。凪いだ水面に波紋が広げられた際に飛び散った飛沫は咬傷が残る頂にも降り注ぎ、狂おしい疼きを呼び起こした。
ぐっしょりと濡れ、素肌に張り付いた布地は不快で厭わしく、それが剥ぎ取られるやいなや安堵と歓喜の喘ぎがとめどなく零れ落ちる。
「あ、」
引き裂かれんばかりの荒々しさで乱された前から零れ落ちた二つの果実は、透明な器に盛られたどんな実りよりもたわわだった。鶏と香味野菜の風味が融け込んだ一滴の軌跡を辿る舌は、素肌に黒貂を纏うにも匹敵するこそばゆさと悦楽を齎す。
いつの間に褥に背を押し付けられていたのかと問う無粋を犯す暇などなく、ましてこれからどんな痛みを与えられるのかと危惧する余裕など与えられはしなかった。自らを組み伏せ、曝け出された胸を舐る青年の背に腕を回し、苦痛からの解放を願う。時に白き黄金とも讃えられる粒に苛まれる柘榴の粒は既に悲鳴を上げていて、蛞蝓さながらの緩慢さでもって豊満な曲線を辿る赤い肉の到来を今か今かと待ち焦がれていた。
豪奢な金糸の髪が、長い睫毛が肌をくすぐる。煮えたぎった湯から立ち昇る蒸気めいたしめやかな吐息は、腫れあがった芽の片割れが摘み取られたために屠殺される家畜の喉から絞り出される断末魔の絶叫と化した。
「……いたい。あにうえ……」
涙で潤む黒曜石の双眸で哀願しても、あえかな望みが聞き入られるはずもなく。
なだらかな腋窩から蜜蜂のごとく締まった胴に彫り込まれた形良い縦長の臍。さらにその下の二本の付け根でさえ蠢いた蛇は、高い丘の頂上には登ってくれなかった。鋭敏な突起を蝕まれる苦悶に僅かながらでも順応すれば、温かく湿った吐息の風が衰えかけた焔の勢いを燃え上がらせる。熾火は血の管を通って全身に巡り、手の甲をなぞられるだけでさえ、全身が痺れて奥底が蕩けた。指どころか目蓋すらも己が意のままにはできない倦怠は甘やかな毒そのもので、はしたなく唾液を漏らす口にひしゃげた果肉が押し込まれても吐き出すなどできはしない。
恐らくは杏だろう爽やかな酸味は快いが、その汁が微細な傷に擦りつけられれば沸き起こるのは煉獄の悶絶でしかない。
食物を嚥下せぬまま叫ぶ不作法のために、エルゼイアルの大理石の肌を汚してはいけない。
「……いたい! いたい! あにうえ、」
なけなしの気力をかき集め不快な塊を呑みこむ。すると、陰湿なまでに執拗であった激痛が、僅かながら遠のいた。湿った舌先が、充血し赤らんだ粒を責め立てる塩分を舐め取ったのだ。
「……あにうえ?」
呆然と開いた口に押し込まれたのは今度は葡萄であり、瑞々しい薄緑から迸る一滴はやはり耐えがたい煩悶が燃え上がる。けれども、無残にも握り潰された楕円を己の一部として取り込めば、たちまち安楽と悦楽が訪れた。もしやと自ら腕を伸ばし果実を食めば、柔らかにぬるついた口腔で傷ついた蕾を慰撫されて。
形を変えんばかりの激情でもって揉みしだかれるのではなく、傷みやすい桃の果実にそうするように穏やかに乳房を弄られれば、六年前にもぎ取られたはずの感覚が奔流となって迸った。
体の芯が蜜が練り込まれた
四肢をもがれたけだものとなって寝台を這い、美術品を目指してか巧妙に盛りつけられたとりどりの実を鷲掴む。やがてそれすらも煩わしくなり、抱え盛った冷たい器を枕に埋めて固定すると、裳裾が持ち上げられ高く突きあげる格好となった臀部から太腿までが露わにされた。巻貝の耳朶を挟み、しなやかな一筋が張り付いた項から背の窪みの半ばまでを辿る指は、ついに熱く解れた往路の入り口まで降りて。
ダーシアを言葉を与えられなかったけだものとしたのは、膨張した粒への愛撫だった。びくり、びくりとひりつくそこに爪を立てられ、捏ねくりまわされれば、痛苦とも歓喜ともつかないうねりが押し寄せる。荒波に全てを洗い流されんとして、ひたすらに舌と顎を動かしていると、やがて目前に広がるのは濁った果汁が溜った底のみになった。
熱病じみた希求のままに器を傾け、下された命の完遂を示す。すると皺とあらぬ汚濁ですっかり醜くなった紺を持ち上げられ、たっぷりとした臀には脈打つ熱が押し当てられた。
拓かれたとはいえ未だ窮屈な隘路の行きどまりまでを一息に貫く杭は太く、切先で最奥を抉られるたびに嘔吐感がこみ上げる。生きたまま串刺しにされ、炭火で炙られている魚の息苦しさは嗚咽となって溢れ出し、肌に肌が叩き付けられる乾いた音の余韻と淫靡な水音に入り混じった。
ぐずぐずに蕩けた無花果の洞から蛇が抜ければ、その後を追って白濁が滴る。
「お前は犬の真似事を得手としていたな」
荒い息を吐く唇を緩やかに持ち上がった鎌首で割られ、奥まで突きたてられると、視界は温かな潮でぼやけた。
「舌を絡めて全て舐め取れ」
冷然と下された意志に従うべく赤黒い肉にぎこちなくも奉仕すれば、口内を圧迫する塊は徐々に大きさを増す。そしてついに破裂した、どろどろと粘ついた濁りは美味とは称しがたい。しかしそれが兄のものであるのなら、ダーシアにとっては天上の甘露となるのだ。
敷布に零れた飛沫をも舐め取っていると、新たな痕跡が刻まれた腹部を掴まれ持ち上げられた。かつて幾度となくそうしたように、兄を跨ぐ形で降ろされれば、持ち上がった柱をより深く咥えこまざるを得なくなる。涙に咽びながら乳房や脚の付け根に加えられる刺激に眉を寄せていると、やがて諸々がはじけ飛ぶ刻が訪れた。
霞みゆき、ついには大気に融ける霧のごとく融け消えた意識を取り戻した頃には、ダーシアはただ一人で禁忌に濡れた褥に横たわっていた。輝かしい朝日に誘われついと身を起こせば、身体の節々がぎしぎしと軋む。
――お前は私の物であり、私はお前に自死の自由など赦していない。
交合の最中、享楽でもって魂に彫り込まれた文句を思い起こす。
今宵も兄はダーシアを罰するためにこの部屋に訪れるのだろう。ならば、一刻も早くこの惨状を改めなくては。
下される裁きの全てを受け止めるためにも、差し出される糧はきちんと摂取しなければならない。兄の所有物であるのに、身勝手に命を絶たんとしていた昨夜までの己は度し難い愚か者であった。けれども気配すらもなく入室してきた老婆が抱える籠に鎮座する麺麭を齧れば、少しは賢くなれるのかもしれない。
退席を乞う時節を見誤ったために昨夜の情交をその目に映さざるを得なかった老婆たちは皆、槍にした眼差しをダーシアに投げつけていた。お前は腹違いとはいえ兄である男の精に塗れた怪物なのだと。
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