苦痛 Ⅰ

 ぽっかりと開かされた空洞にはあるべき白いものがなかった。代わりに三十余りの赤黒く糜爛した虚ろから這い出るのは、おぞましい虫。もぞもぞと口腔を這い回り腐乱した組織を食む蝿の子はまるまると肥え太っていながら、貪婪に糧を求めて焼き爛れた皮膚の上を這い回っている。

 ぐずぐずに崩れた己を浅ましい虫の欲求から隠して然るべき表皮が剥落した火傷では、宴が催されていた。腐肉を酒と肴とし繰り広げられる醜悪なる催しが。

「ついに蛆の巣窟となったか。愉快なものだな」

 女は液状になるまで熱せられた銀の雨に潰された漆黒の片割れで、人間の肉が腐り落ちる悪臭が石壁にすら染みついた地下にはそぐわぬ涼しい美声の源を見やる。彼の毛髪は久しく目にしていない陽光であり、虹彩は陽光にかざされた翠緑玉よりも深く鮮やかな緑である。そして何より、その顔立ちは焦がれた女のものに酷似していた。

 ――わたくし自らの手であの女を屠りたかった。あの美を壊したかった。

 それこそが彼女の望みだった。

 遙かな高みからこちらを見下す女を自分と同じ場所まで引きずり下ろし、波打つ黒髪に指を絡めれば、常に胸中に垂れ込めていた暗雲は十七年ぶりに掃われただろう。か細い項を唇でなぞり真白の柔肌に爪を立てながら薄い胸を一突きすれば、恍惚のうねりが押し寄せたはずだ。そうして迸る血潮をこの身に浴びる瞬間こそが、己の至福の時となっただろう。だが現実に憎い女の生命を奪ったのは目の前の男なのだ。

 生きながら腐りゆく悪臭に慣らされた鼻腔は懐かしくすらある情事の余韻を敏感に嗅ぎ取った。彼女のそれと似通った蜜の名残を。

 女はその身に受けた責苦の凄惨さを言葉なくも雄弁に物語る四肢をばたつかせる。己が囚われた地下が宮殿ごと水底に沈んだかのごとく、手足を縛める鎖で醜悪なる楽を奏でながら。

 壊死した肉に群がる蛆の幾つかは小雨となって零れ落ちた。鉄の枷が嵌められた足首から続く踵と、黒ずんだ飛沫飛び散る壁に挟まれ押しつぶされた死骸の体液は精液さながらにべとついている。

 長く艶やかだった髪は刈り取られ、乳房は抉り取られ、去勢された男と見紛うばかりとなった女は青年への呪詛を吐き出さんとしたが、その目論見は果たせなかった。悪口は拷問吏の手管によって速やかに封じられてしまったのだ。

「喜べ。これでそなたの空腹も紛れるであろう」

 食事と銘打たれた責苦の道具は煮えたぎった麺麭粥パンがゆであり、女は苦悶しながら水疱の膜に閉じ込められていた薄黄色の液体や死した蛆までをも嚥下せざるを得なくなる。

「これはどれ程保つ?」

「そろそろ限界かと」

 己を食んだ腐乱の象徴が喉を通るおぞましさに覚えていた嘔吐感は既に消え失せて久しい。けれども女は、己の生死を支配する男を痛罵し、あらん限りの生命をかき集めて腹違いの妹との禁忌に堕ちた青年に呪詛を寄こす嘲りだけは忘却しなかった。払暁よりも輝かしい青年が、一息でかき消されんばかりの炎では駆逐しきれぬ暗澹が蟠る一室から立ち去っても、なお。彼を通して誰よりも欲した女を想い続けた。


 ◆


 乱れ皺が寄った敷布に空いた空白を褐色の手が彷徨う。兄の憎悪は皮膚の下の肉どころか魂に染み入るまでに教え込まれているのに、天頂から差し込む光に誘われ重い目蓋を持ち上げた途端に覚えるのは、広漠とした虚しさだった。

 脚を広げられ持ち上げられ、曝け出させられた内臓を穿たれ掻き乱される。夜毎下される罰は峻烈そのもので、整った歯列を押し当てられた乳房や肩からは時に鮮血が滲んだ。無理やりに剣を刺しこまれ押し広げられた果実の裂け目が滴らせる汁は、痛みを和らげるには足りない。けれども肉体で味わわされる苦痛など、魂に焼き付くそれに比すれば孔雀の飾り羽で撫でられるに等しかった。

 苛酷な仕置きによって砕かれた意識をかき集めるやいなや、ダーシアは常に兄の影を探す。月も星もない夜空を湛える底無し沼に呑まれるような恐怖と絶望から、自分を救ってくれる黄金の光を求めて。だが砂を詰め込まれた革袋と化した指先が淀んだ体液を啜り湿った敷布を掠れば、痛感せざるを得なくなる。己を深淵に突き落としたのは己自身であり、ダーシアは決して赦されぬ罪業ゆえに、水面に浮かびあがるなど叶えられぬ身となったのだと。生来鈍重な肢体を更に重く縛める枷を両の足首に括りつけたのは、ダーシア自身であったのだと。

 脆く傷つきやすい黒真珠の瞳から零れ落ちる海水は温かだが、潮の雫は冷気に触れるやいなやたちまち凝るばかりで氷を融かすには及ばなかった。

 己が怯懦によって引き起こされた惨劇は贖いえようもなく、ダーシアは生ある限り永劫に、あるいは死してもなお汚泥を啜りながら苦しまなければならない。数多の男達にその美しい肢体を穢され、言語どころか想像を絶する苦悩を経て神の楽園に赴いた王妃と、彼女に安楽を与えた彼女の息子の煩悶にダーシアの悶絶などがつり合うはずはないのだから。


 唯一神が天地創造の偉業の一環として創りだした黄金の天体が沈み、欠けぬ円盤と同じ日に生み出された白銀が、濃紺の帳を絹織物さながらに輝かせる夜。絶え間なく下される罰が齎す痛苦や、最も秘め隠すべき場所を涼しい眼差しに曝け出す羞恥には、もう慣れた。

 男を受け入れ胤を宿し育み、子を産む。ただそれだけの重大な責務を果たすために神が穿った穴ではない、摂食のための洞に潜り込む蛇の生臭さにも。しかし、その太さや大きさには。これが本当に己の中に入ったのかと、あるいはこれから挿れられるのかと、歓待を命じられ指や舌を絡ませるたびに恐怖してしまう。涙で曇った双眸でその瞬間を捉えてもなお、うつつではなく幻ではないかと疑ってしまうのだ。起きながら夢を見ているのなら、脳裏に垂れこめた紅蓮の濃霧も、大気の欠乏とこみ上げる嘔吐感に嬲られ霞む意識も、何もかもを無かったことにできるのに。

「……う、」

 嚥下し封じ込めたはずの柔らかな喉奥を突かれる苦悶が蘇り、豊かな黒髪のあちこちや腹部を濁った液体で穢した肢体は地虫のごとく折り曲げられる。

 過ぎ去った漆黒の刻、現在と全く同じ姿勢を取って苦悶するダーシアに与えられたのは、背を摩る手ではなく充血した亀裂を隙間なく満たす怒りであった。身じろぎすらも許さぬとばかりに抑え込まれ、臀部を持ち上げられれば、なよやかな二本で体重を支えざるを得なくなる。震える腕はすぐに科された命に耐えかねたが、刑は全ての女が生まれながらに備えた裂目から白濁が、噛みしめられた薔薇の花弁からは吐瀉物が滴るまで終わらなかった。

 汚濁のほとんどは房飾りのついた枕が受け止めたが、ぽっかりと開いた唇の端からは饐えた臭気が漂っている。

 兄の合図に応じて扉の奥から駆け付け、汚物に塗れた寝具を指で摘まみ運び出す老婆たちの忌避と畏れの眼差しを背で浴びながらも、長く形良い脚の間に顔を埋める。

「――よい」

 艶めいた桃色の舌先が甘酸っぱい体液を拭い去った途端投げかけられたのは、呆れすら漂わせる吐息であった。

「え?」

 兄はこれを好んでいるはずなのに。覚えが悪いと冷笑しながら癖のない黒髪を引き、豊満な臀部を打擲しながらダーシアにこの奉仕の作法を叩きこませたのはエルゼイアルであるのに。なのにどうして拒むのだろう。確かに自分の技量は未だ兄を悦ばせるには至らぬ、稚拙なものなのかもしれない。だが昨晩は、ようやく稚拙から脱却したと咎人の身を飾るにはあまりに光栄な言葉をかけてくれたはずなのに。

 もしや兄は、先ほどの粗相に興を殺がれてしまったのだろうか。何かを教えても失敗ばかりの妹など、罰するために側に置く価値すらないと悟ってしまったのだろうか。

「そんな……」

 盥に張った水に垂らされた洋墨インクよろしく広がる悲観に濃い睫毛を伏せると、生温かな息が引き締まった腿を撫でた。赤黒い幹に褐色のしなやかな枝を這わせ、猫を真似て高い額を擦りつけると、頭を垂れていたはずの鎌首は緩やかに持ち上がった。

 涙と同じ透明と風味を纏う液体を垂らす肉にしゃぶりつき、はしたなくも音を立てながら潤んだ瞳で兄を仰ぐ。

 ――お願いだから、どんな目に遭ってもいいから、あなたの側にいさせて。それが叶わないのなら、私はいっそ死んだ方がいい。

 瞳で哀訴し、十分に屹立した欲に跨り、いつかの責苦の折にそうせよと命じられた通りに腰を動かす。柔らかな壺は切先と触れ合うたびに湿って淫猥な悲鳴を発し割れんばかりに蠢いたが、それがどうしたというのだろう。

 ふると震える乳房を掴み、咬傷に囲まれた頂きを差し出す。

 どうかここを弄って、私に喉が裂けるまで絶叫を上げさせて。

 口ではなく瞳から放った懇願は通じなかったのかはたまた退けられたのか。粒を食むのは尖った真珠ではなく滑らかな絹の舌で、始まったのは緩やかな悩乱に他ならない。体勢を入れ替えられ、兄に背から抱きかかえられる格好で責め立てられたのはたわわなふくらみだけではなかった。叢の内に身を隠す赤い芽を擦られれば、毒にも蜜にも似た奔流に呑まれた意識は焼き尽くされてしまって。

 荒い呼気を吐きながら弛緩した四肢を褥に投げ出すと、しなやかな長身はついに己から離れてしまった。

「……あにうえ」

 禁忌の情交の証を拭いもせずに衣服を纏う兄の袖を掴む。

「控えよと申したであろうに、痴れ者が」

 叱責ともとれる語気の影には、僅かながらの苦笑が隠れているように感じられたのは、ダーシアの弱さが見せる愚昧極まりない夢想なのだろうか。

「今宵は仕舞いだ。身を休め、明日に備えるがよい」

 汗に濡れ額に張り付いた一筋を払う手つきの優しさに嗚咽が漏れる。ダーシアは咎人であるのに、こうして罪深い妹を気遣ってくれるエルゼイアルは、やはり慈悲深いのだ。己が母の不遇を嘆き母を蔑ろにする父に憤っていた少年の本質は、六年の歳月を経ても損なわれることなく彼の裡に在る。

 自分はどうして、兄の母親を見殺しにしてしまったのか。どうして母の言いなりになってしまっていたのだろう。

 異母兄が実母に奉げていた敬慕ごと彼の心を踏みにじった己の所業に眦を悔恨にひりつかせていると、とめどなく零れ落ちる水晶の破片を白い指が掬い取った。

「明日、面白いものを見せてやろう」

 そんなのいらないから、わたしが眠るまでここにいてください。

 遍く慈愛でもって迷える羊たちを導く唯一神や預言者ですら、おこがましいと一蹴するであろう祈りを形にする前に、それを捧げられるべき神は罪深い女の許から去っていった。

 聞き取れはしてもダーシアの耳では意味を解せない、呪文めいた呟きを口ずさむ老婆たちは、吐瀉物と精液でごわついた黒髪を盥に張った湯で洗い、薔薇の芳香でもって元来の艶と絹にも勝る手触りを甦らせる。同じく穢れた肢体も清められ、香油を塗りこめた肢体に豪奢な衣服を着せられれば、寝台に横たわっているのは王の愛妾として迎えられるに相応しい、滴り落ちんばかりに瑞々しい色香が魅惑的な娘マーリカだった。

 亡き先の王の愛妾の女官に過ぎぬ賤民が、世に並ぶ者のない容姿と才気で王国中の娘を虜にする王に見初められる幸運を、城下はなんと噂しているのだろう。

「これはまた、随分と飾り立てられたものだな」

 端整な面に満足の笑みを乗せた王は、ぽってりと肉感的な唇の、大きく開いた襟から覗くはちきれんばかりのふくらみの曲線をなぞる。胸部と臀部、加えて太腿の豊麗さを際立たせる折れんばかりに腹部の細さは、感嘆の溜息を禁じ得ないほどに美しい胴着コルサージュで引き立てられていた。その衣が黒い揚羽蝶から鱗粉を失敬し塗したのではと問い正しくなるほどに煌めいているのは、金糸で薔薇の文様が刺繍され、磨き抜かれた宝玉が縫い止められているからなのだ。

 王は目元に刷かれた情交の気怠さによって生来の蠱惑をいや増す妾の面を、紅の面紗で覆う。とりどりの貴石が眠る箱に蓋をし鍵をかけるように。己のみが知る宝を他者の目から、不遜な盗人から隠し守るように。

 胴着や裳裾と揃いの暗紅の薄布越しに覗く世界は、何もかもが血に染まっていた。澄み切った蒼を湛えているはずの天空も、初夏の爽やかな緑も。名匠に彫り込まれた至上の大理石さながらの兄の美貌すらも。

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