苦痛 Ⅱ
乾ききった枯れ枝の指が、若く瑞々しい旬の果実の足首に添えられる。犬歯を食い込ませれば、鮮血ではなく甘い蜜がしたたらんばかりの褐色の素足。その五つの先端には、貝さながらに磨き抜かれた薄紅が張り付いていた。
寝所での熱狂を分かち合う最中、王の玉体を損ねてはならぬと側仕えの老婆に切り揃えられた爪は、剥ぎ取り金の鎖に繋げば人魚の胸元に飾られても恥じないだろう。しかし、同じ秤に乗せることすら躊躇われる翠緑玉に注視されれば、たっぷりとした裳裾か上掛けで爪先までを覆い隠したくもなってくる。
「あにうえ。あの……」
そんなに、見ないでください。
恥じらいで燃え立たせた面を伏せながら紡いだ懇願は我ながら滑稽だった。自分たちは既に互いの秘所を眺めるどころか、触れてはならぬと神に定められた禁域に侵犯しすらしたのだ。兄の瞳がダーシアの身体で知らぬ箇所などありはしないし、その逆もまた然りである。あまつさえダーシアは、完全にして完璧な均衡と調和でもって形作られた長身に潜む男の徴を咥えこみさえしたのに。なのに今更、素足を見られただけで恥じ入るなど愚かしいにもほどがある。けれども、下腹から駆け上る羞恥は全身の血を沸騰させ、赤い管の上の肌を燃え上がらせるのだ。
堪えきれぬ羞恥に根負けし、女性美そのものの曲線を描く脚を折り曲げ裳裾に潜り込ませると、古い神話の芸術の神によって描かれたに違いないと陶然としてしまう整った眉が幽かに寄せられた。
「何をしている?」
「だ、だって……」
苛立ちを漂わせた声は、冷徹ですらある眼差しも、脳髄が蕩けんばかりに麗しい。二つのたわわなふくらみの頂に置かれた柘榴の粒を舌で突かれても、ましてや肉付きよい脚の合間の翳りに隠れた芽を摘ままれてもいないのに、身体の奥底は
エルゼイアルは、ただ見つめただけではしたなくも身を悶えさせるダーシアの醜態を蔑んでいるはずだ。けれども、どんなに手荒に、それこそ血を流すまで責め立てられてもいいから、彼に貫かれたくて仕方なかった。普段以上に煌びやかに着飾った姿で逞しい腕に掻き抱かれるのなら、その後に待ち受けるどんな苦痛も耐えられるだろう。
「あにうえ」
情欲によって潤み艶を増した黒曜で上目遣いに見上げた氷像は、その美貌を顰めたままで微動だにしない。もどかしさが命ずるままに鞣された牛革を履いた足元に跪き、引き締まった腿に合間に顔を埋める。黒の脚衣の前を乱し、僅かに持ち上がった蛇の頭に接吻し舌を絡ませると、冷ややかな制止が降ってきた。
「餌は十分に与えているのだから、無暗やたらに咥えこむな」
一部を編みこまれ金細工の花を挿しこまれた豊かな黒髪に、大理石の指先が食い込む。
「足りぬのなら後でくれてやろう。だが、此度ばかりは目を瞑るが、主の命に従えぬ犬に餌に先んじて与えられるものが何たるかを弁えろ」
鞭を振り下ろされた家畜よろしく、沈痛に垂らされた頭は、しかしすぐに跳ね上げられる。柔らかな足裏に滑らかな何かが被せられたのだ。違和感の源を確かめると、そこには黒い鞣革を捧げ持つ老婆がいて、紅の絹糸で施された蔦の模様が優美な靴の片割れは、己の右足に嵌められていた。
誰よりも愛おしい異母兄と共に庭園を散策する喜びの刻をこの手からもぎ取られてはや六年。久方ぶりに身に着けた外歩き用の靴は、生まれたての赤子のもの同然に柔らかくなった足を締め付ける。これでは狭隘とは縁遠いが広大とも評しがたい室内を歩き回ることすら困難だろう。
「枷は付けぬが、お前が私の物であるのだと忘れてはならぬぞ」
兄の背を仰ぎ、己が背で老婆たちのしめやかな足音を聞きながら白亜の回廊を歩む。意気地のない脚はたちまち音をあげ、夜毎絶え間なく繰り広げられる宴の疲労を重石として括りつけられた下半身はついに崩れ落ちた。
朧ながらも顔が映るまでに磨き上げられた床に座り込み、己が不甲斐なさに唇を噛みしめる。異変を悟ってか脚を止めこちらを振り向いた兄の、至上の美と威厳でもって形作られた面は明白な不快を湛えていて、震える花弁は用をなさぬ謝罪と塩が融けた露に濡れる。
「す、すみません。……私、その、」
腰がだるくて、もう歩けないんです。
涙と恥じらいに咽びながら哀訴を搾りだす。ぼやけた視界の端に蟠る黒で這い回る蔓は、紅葉した蔦ではなくていばらであり、鋭利な棘ゆえにしなやかな茎は赤く染まっているのだろう。恐ろしき棘はダーシアの脚にも絡み、縛めたために、ついに一歩も動けなくなってしまったのだ。
癖のない毛先を引いても根を生やしたように微動だにしない愛妾を、その強情ごと腰に佩いた剣でもって切り伏せんとしているのか。硬い靴音を響かせながら己の許に歩み寄る兄の美貌には一切の感情が刷かれておらず、それゆえに神が彼に与えた、抗いがたいまでに崇高な麗しさが際立っていた。互いの吐息が項をくすぐり背筋を戦慄かせるまでに迫った涼しい瞳を縁どる黄金の睫毛は、瞬けば微風を起こすのではないか。
踝から脹脛の半ばまで這い上った手に鋭敏な膝裏の窪みをなぞられ、もう片方の手を右のふくらみに添えられれば、褐色の肢体の中心では期待が滴る。脚を弄ぶばかりの指が太腿の奥まで伸び、漆黒の繁みに潜む芽を摘まんで麻薬めいた疼きを鎮めてくれるのではないのかと。豊満な実りを揉みしだいて、葡萄酒めいた甘い酩酊を齎してくれるのではないかと。
ここがどこで、自分たちがどこに向かっているのかなどどうでも良かった。ダーシアは兄に命ぜられたのなら、喜んで裳裾をたくし上げ果汁滴る裂目を兄の眼前に曝け出しただろう。発情した獣を真似てたっぷりとした臀部を高く突きだし、私をいっぱいにしてと強請ったはずだ。
「……お願いですから、」
物陰でも草陰でもいいから。淫蕩に囁いた誘惑は、冷厳な一瞥でもって散らされてしまって。甘やかな高鳴りの中心を貫いた氷柱の鋭さに軋み、浴びせかけられた怒りの冷たさに縮こまる肢体は、更なる衝撃に見舞われる。
「首に手を回してしがみ付け」
兄に抱き上げられたのだと理解したのは、間の抜けた叫びを迸らせた直後だった。己が鼓膜を劈いた甲高い悲鳴は慣れぬ浮遊感への恐怖に掠れた喘ぎとなり、染み入る体温への恍惚が入り混じる吐息となる。
高貴な姫君よろしく王に横抱きされた賤民。それも大罪人である賤民と己たちの支配者たる王の姿とすれ違った女官や官吏たちはいずれも、目を剥き呆然と開いた口からは言葉にならぬ驚愕を漏らしていた。さも信じられぬ、己が今目の当たりにしているのは幻か亡霊ではないかとでも言いたげに。
どこか覚えのある――タリーヒの女官として愛妾の間に侍っていたはずの顔立ちの娘などは、愛くるしいはずの顔面から一切の血の気を喪失させてすらいて。
「まさか……」
彼女の呟きを終いまで聞き取ることはできなかった。
「陛下!」
厳めしい甲冑で鎧った衛兵が、ダーシアを抱えた兄の往く手を阻まんとするがごとく膝を折ったために。
「そのような煩事は我らに申し付けくださいませれば良いものを。どうかその女をこちらに渡して下さい。さすれば速やかにこの女を陛下が目指す場所まで、陛下が望まれるのでしたら冥府までもお運び致します」
己を驢馬の背に括られた壊れた陶器の山であるかのごとくねめつける男に、エルゼイアル以外の男に触れられるなんて。それに比すれば兄の剣で首を斬られた方が幾分かましというものだ。
どうか私を離さないでください。私を殺すなら、あなた自身の手によって終わらせてください。
胸中で渦巻く想いを肌から伝えんとして硬い胸板に盛り上がった胸を押し付ければ、はちきれんばかりに水を蓄えた革袋はなよやかに潰えた。全てを呑みこみ受け止める清水にも、盛りの芳香を漂わせる桃にも似た、柔弱の内に快い弾力を秘めた乳房には、大きさも様々な淡紅が張り付いている。その一つは小粒の真珠と水晶が縫い止められた襟首からも除いていて、どんな首飾りよりも艶めかしく褐色の胸を彩っていた。
「よい」
己が忠義でもって退けんとしたのは、王の
「一人の男としては、己の女の躾すらままならぬのだと思われていたのでは、いささか面目を失ってしまうが、」
癇癪を起した子を宥めるような、あるいは友人を揶揄うような苦笑に応じてか、男の強張った顔面が喜びに緩む。
「だが、そなたのように義信溢るる臣を持った私は、王としてはこの上なく嬉しく思う。私は良い臣下に恵まれた」
「陛下」
「疾くそなたに課せられた責務を果たしに戻れ。これの血潮など噴出させなくとも、そなたの忠誠を示すには、忠勤によって流した汗があればよい」
爪先にくちづけんばかりに低頭し、優雅とは評しがたいが力強く一礼して去っていった衛兵に倣ったのか。新たなる支配者に頭を垂れる官人たちは、頑なに沈黙を守って馬車に乗り込む王を見送った。
王の私を担う内廷から、政を司る外廷へ。更にその先に聳える城門を目指して駆ける黒駒に牽かれた馬車の内側で繰り広げられる宴に添えられた楽は、老婆の色褪せた唇から吐き出される悪魔祓いの文句であった。近頃はダーシアの声を耳にしただけで蠢くようになった舌は切り取られてしまっているから、老婆の呪詛には音は伴わない。しかし、怯え歪んだ目つきから、己が何と見做されているかは容易に判ぜられるのだ。
叢に覆われた花を二本の指で掻き乱されると、傍らから轟くはずの濁った歌はついに聞こえなくなった。のけぞる背筋をそっとなぞられ、突き出した乳房の先端を舐られれば、たとえ待ち受けるのが甘美な苦痛だとしても兄が欲しくてたまらなくなる。赤黒い肉の脈動をぬるついた粘膜で感じ取りたいのだと哀訴しても、欲する喜びは俄かには授けられない。肌を燃やす熾火が劫火となり、全てを焼き尽くさんとしても、その寸前で風が送られなくなってしまうのだ。
積もり積もるばかりのもどかしさに悶絶する脳裏は、耳朶を尖った真珠の列に挟まれただけでも真白になる。愛妾が荒い息を吐いて王の膝に崩れ落ち、濃い睫毛に縁どられた目蓋を降ろした途端、淫欲で噎せ返らんばかりの部屋は振動に揺さぶられた。
何事かと悦楽の膜が張った黒曜を瞬かせる娘に突き刺さったのは、燦燦と降り注ぐ陽光の眩さ。そして、嘔吐感を催させる異臭であった。
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