苦痛 Ⅲ

 燦燦と降り注ぐ陽光を熱せられた炭から発せられる熱とすれば、紅の薄絹に覆われぼやけてもなお激高と狂乱があからさまな群衆の群れは、彼らの背の後ろに聳える街々は、黄金の香炉なのであろうか。

 唯一神が遣わした救世主の誕生を祝福すべく誕生間もない彼に奉げられた三つの宝の一つ。甘やかに煙った森林の清冽な、けれども官能的なまでに濃密な香りとはかけ離れた悪臭に燻された広場には、厳めしい甲冑を纏う衛兵に守られた玉座があった。 

 飴色に磨き抜かれ、精緻な彫刻が施された二つの椅子は互いに身を寄せ睦み合う恋人か聖堂で愛を誓う夫婦の風情で、正面に設けられた台を見上げている。兄の逞しい腕にもたれかかり、兄に牽かれながらも己の全てを蕩かす体臭に酔いしれていても、空の胃を蠕動させる悪臭からは逃れられない。一歩、また一歩と脚を勧めるごとに異臭はそのおぞましさを増し、ダーシアは兄の脚に縋りながら露天に据えられるにしてはあまりに優美な桟敷の蔦を象った細工の滑らかさを指でなぞることしかできなかった。

 暗い赤色の柘榴石は、蒼き原に住まう女精の無垢な涙の真珠に囲まれ、深い谷間に落ちていた。罪深い己を飾るにはあまりに不釣り合いな首飾りは、王の愛妾が身に着けるには相応しい品である。けれども凝った鮮血さながらの貴石はさんざめく光を弾く純金の焔を映してか、時に劫火のごとく煌めくのだ。そして何より、絞首刑に処される咎人の首に這う縄のように重い。

 どこか不吉なまでに艶めかしい輝きは漆黒の双眸に突き刺さり、紅に苛められた瞳を至上の緑によって癒さんと縋れば、冷ややかな一瞥が降り注ぐ。

「――いつまで私の足元で這いつくばっているつもりだ?」

 鍛え抜かれ引き締まった腿にたわわな乳房を擦りつけ、古の太陽神の神殿に据えられた柱を思わせる力強い脚の合間に顔を埋めると、なよやかな背に流された黒髪を鷲掴まれてしまって。

「犬の真似事に興じるのは構わぬが、それは閨においてに限る」

 恐怖によって干上がった口腔に潜り込んだのは、脚衣の裡に潜む蛇の頭を突いていた舌だけではなかった。

「疾く立ち上がり、坐せ。これはお前のために設えさせたのだからな」

 罪深い自分にはそこに座る権利などない。だって、それではまるでダーシアが兄の妃ではないか。

 苛立ちに整った眉を顰めながら、硬い指先で傍らの椅子の肘掛けを叩く青年への応えとすべく言葉も、何もかもが蠢く胃の腑まで降りて濁った胃液とない交ぜになってしまっている。幾重にも折り重なった花弁を支えるしなやかな茎めいた首を振り、濡れた黒玉によって己が意志を示さんとしても、全ては徒花として散ってゆく。

 漆黒の薔薇が咲き誇る金襴に縁どられた襟を掴まれ、首の皮を摘ままれた犬よろしく引きずられても、萎えた手足は力なく豊満な胴から垂れ下がったまま。恐慌によって芯を砕かれた肢体が亡骸同然に席から転がり落ちてしまえば、己が身を起こす気概など消え失せて久しい四肢は魂のない人形のそれとなる。

 青年の麗姿は急激に厚い雲に覆われた日輪など及びもつかぬまでに神々しく、敷き詰められた石畳の硬さを背で味わいながら見上げていても、禁忌を啜り湿った敷布の上で激高に貫かれ悶えながら仰ぐものと変わりない。

 ダーシアのように面紗で鼻を覆ってもいない兄が、この悪臭の最中に在ってもその技芸の神の手による彫刻の美貌と冷ややかな威厳を保っていられるのか困惑せずにはいられなかったが、それを発するための余力は既に立ち込める異変に削られてしまっていて。

「お前は全く野犬並みだな。一人では黙って座すことすらできぬとは」

 怒りを凌駕する呆れを滲ませた吐息が頬を撫でると同時に、折れんばかりに細い腹部に腕を回される。重要ではあるが取扱いにさしたる慎重を要さぬ品。あえて喩えれば驢馬の背から岩塩を降ろすを彷彿とさせる荒々しさで項垂れる娘が据えられたのは、温かな筋肉の横に他ならなかった。王のために設けられた椅子は決して矮小ではないが、二人が腰かけるにはその身を密着せざるを得ない。

 艶やかな円味を帯びた左足を長く伸びやかな脚の合間に差し込み右を折り曲げ、純金の毛髪がかかる首に腕を回して安定を得るためには、交合の最中のそれを模して絡めた手足を入れ替えなければならなかった。

 恍惚に至ったかのように頬を上気させ荒い息を吐く愛妾の背に添えられた王の白い指は、大きく開いた襟から覗くはちきれんばかりに豊満な褐色の胸元を這い回っている。己が刻んだ徴を嬲る指の腹から伝わるのはぬくもりだけではない。兄と接する箇所から広がる情欲は源に落とされた一滴の洋墨であり、人命を塵と散らせる劫火であった。

 彫り上げられた琥珀めいた艶を放つ腿を伝う粘りはエルゼイアルの脚衣に染みを作るだろう。しかし、己の裡から溢れた汚濁を舐め清めることも、そのぐずぐずに蕩けた源を滾る激情によって塞ぐこともできないのでは。

 これではまるで拷問だ。これから始められるのは、もしかして己を罰するための刑なのだろうか。

 唐突に浮かび上がった疑問は、泡沫よりも儚く石畳を駆る馬車が奏でる軽やかな轟音と、民衆の歓喜の絶叫に掻き消される。今にも折れんばかりの板に乗せられ台の上に運ばれる「それ」の正体は遠目では判然としなかった。

 鞭を持った男に牽かれる生き物はいずれも太く逞しい四肢を備えていて、どんな者でも一噛みで食いちぎるに違いない鋭い牙に飾られた口からは、心胆を寒からしめる低い呻りが漏れている。ばうばうと吼え居並ぶ人々を威嚇するそれが生き物であることは辛うじて察せられるが、ダーシアはこれほどまでに恐ろしい生物の名を知らない。雲雀に駒鳥、小夜啼鳥ナイチンゲール。あるいは栗鼠や兎。ダーシアが兄に教えられたのは、無害であるがゆえに愛らしい生き物たちばかりであったから。

「……あにうえ。あれは?」

 驚愕は滑らかな喉を縛めていた石化の呪文を解き、掠れていながらも甘やかに上擦った問いを絞り出す。

「犬だ」

「……いぬ。あれが……?」

 密な睫毛に縁どられた月も星もない暗黒の双眸が瞬けば、垂れ下がった眦に夜露が置かれる。かつてエルゼイアルは、剣技で傷を負った己が指をダーシアが舐れば、犬のように従順で可愛らしいとの称賛の雨を降らしてくれた。口元に理知が刷かれた整った薄い唇から零れる酒精めいた慈愛と接吻に酔いしれる少女も、数瞬前までのダーシアも、犬の真実の姿を思い描こうともしなかった。空舞う蝶にも負けぬ可憐と、鷲にも匹敵する勇猛の間に生まれた、美々しくも猛々しい生き物だとばかり考えていたのだ。

「……いぬ、は、どうして?」

 ――ここに連れられてこられたんですか。それに、私も、どうして。

 縺れ強張る舌の音は、全てを形にする前に唯一神により与えられた役割を放棄したが、慄く娘が縋りつく神は、愉悦と残忍に唇を吊り上げる。

「見るがいい」

 いっそ慈悲すら窺える、六年前に還ったかのような笑みは、締め付けられた胸の奥の臓器を凍え留めんばかりに麗しい。けれども晴れ渡った冬空の天頂に君臨する陽よりも眩い眼差しの先にあったのは直視に耐えぬ醜悪であり、眼裏に焼き付いた有様は猛毒となって体内を駆け巡る。毒杯を干したでもあるまいに蟀谷からは汗が滲み、呼吸すらも困難となった娘の口内から迸ったのは絶叫ではなく酸の濁流であった。

 吐瀉物に塗れた面紗を腐臭入り混じる風に剥ぎ取られ、赤い靄を取り払われれば、眼前に広がる凄惨をこの目で捕らえずにはいられなくなる。

「目を逸らすな。焼きつけろ」

 慄く全身ごと頤を抑え込まれ、突き付けられたのは真っ赤に熱せられた焼き鏝など及びもつかぬ責苦。正確には、言語を絶するであろう苦痛をその身に受けた女の成れの果てであった。

「お前の母だ。すっかり様変わりしてしまったが、久方ぶりの再会だ。懐かしいであろう?」

 脳髄にまで沁みこみ、新たな汚泥をせり上がらせ喉を灼く臭気の元は、母でしかありえない。無意識に眼を逸らし続けた真実をダーシアに運んだのは、清冽であるはずの初夏の風に入り混じった饐えた腐敗臭だった。

 長い髪は無残に刈られ、垂れ下がっていてもなお豊かで魅惑的な乳房を抉り取られた母の胸から滴るのは、真っ赤な雫ではなかった。もぞもぞと蠢き、もはや所々に褐色を残すのみとなった皮膚の上では濁った白い粒が這い回っている。女の宝を奪われた母の上で飛び交うのは善き死者を楽園に誘う天使でも、朗らかに囀る鳥たちでもありえなかった。

 ぶんと羽ばたく蝿は気まぐれにどこか赤い睡蓮に似た糜爛した傷口に留まりしばしの休息を得る。するとこの世に蔓延する残虐と悲惨とが練り合わされて作られた陶器さながらの女は、苦悶の喘ぎは漏らさずとも幽かにその身を震わせるのだ。二目と見られぬ有様となっても、タリーヒは生きている。否、生かされている。それこそダーシアの胃から一切の内容物を搾り取った光景よりもおぞましい事実であった。

 先の王の愛妾でありながら彼を弑し、庶子に過ぎぬ我が子を傀儡に仕立て上げ、一つの季節が終わるにも満たぬ短期間ながら王国の運命を己が掌に乗せられた玉として弄んだ咎人。数多の民草の生命を弄んだ悪魔の化身に二親を、伴侶を、子を、友人を奪われた民の激昂は止むことなく彼女目がけて放り投げられる。ある者は礫を、ある者は細かな石片を、またある者は割れた皿を。またある者は堅い果皮の内に赤い種子を秘めた柘榴を。

 怒号の合間を縫って飛び交う激情はほんの数か月前まではむっちりと肉が詰まっていたとは信じられぬ枯れ木の手足に直撃し、蛆の群れをぼとりと飛び散らせる。永遠に続くかのような嵐の勢いを鎮めたのは、厚い雲間から射す一条さながらの一声に他ならない。

「これより、この女を反逆罪に処す」

 その絶世の美と威容でもって民衆の狂喜をいや増す若き王の身振りと同時に、四匹の犬はついに枷から解き放たれた。

「謂われなく弑された我が父と母の、この女の悪行の贄となって露となった同胞の無念も癒されよう。存分に愉しめ、我が子らよ」

 骨が砕かれ肉が咀嚼される耳を防がずにはいられない狂乱が、楽師によって爪弾かれる竪琴の弔いの音として響いるはずはないだろうに、兄は長い睫毛を沈痛に伏せていた。エルゼイアルが誰に哀悼を捧げているのかなど分かり切っているはずなのに、理解が追い付かない。確かに母は、今しがたダーシアの目前で繰り広げられる惨劇でもっても贖えぬ罪を犯した。けれども、ダーシアがこの場に連れてこられた理由の片鱗すらも掴めない。

 吐くべきものなどとうに全てぶちまけてしまったのに、未だ胃は解放を求めて悶えている。

「お前は、あの女に言い残すことはないのか? これが最後の機会なのだぞ」

 ぬるついた地面に膝をついて崩れ落ちた娘の背を摩り慈しむ手は、全身の血を凍らせる狂気を宿していた。

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