苦痛 Ⅳ
月光も星芒も射さぬ嵐の夜よりもなお暗い、深淵を湛えた泉の瞳から零れた雫は温かで、塩辛かった。愕然と開いた肉厚の紅薔薇の花弁を震わせる嗚咽は、涙に濡れくぐもっている。
「……どうして?」
絶望の針で貫かれ、自責の糸でもって下顎に縫い付けられた桃色の肉を動かすたびに全身に広がる激痛は今にも破れんばかりに脈打つ胸の奥から発するもの。
どうして自分は王妃を助けようとしなかったのか。どうして昔のダーシアは文字を覚えようともしなかったのか。せっかく兄が教えてくれていたのに。そうしていれば、母の企みに気づくこともできただろうに。
「……あにうえ」
誰よりも愛しい異母兄に彼が敬慕する母を屠らせずも、一たび目の当たりにすれば焼き印よろしく脳裏に刻まれ、決して逃れることはできぬだろう残虐を行わせずにいられたはずなのに。唯一なる神の光明がこの北方をいまだ照らしていなかった太古では居丈高にこの地を闊歩していた、零落した神々の小さな末裔たちがひっそりと命脈を保つ聖所同様に、滾々と沸き起こる悔恨は尽きなかった。
陽の光すら射さぬ森の奥にひっそりと佇む神聖な泉の漣。とめどなく流れ出る清水の波紋はついに畔にまで押し寄せ、稚い若草からうら若い白樺、更には老いた樫を、果ては人間の努力と叡智の証をも押し流し全てを水底に沈める。
彫り込まれた青玉めいた花々は典雅にして清冽で、喪われた佳人とよく似ていた。もはや愛すらも囁けなくなった青年にその絶世の美を分け与えた女性の面影を偲び、これが最後と惜しんで蒼穹を模した大輪に目を細めたのがいけなかったのだろうか。
晴れ渡った夏空の清しい青で染め抜かれた花弁に縁どられた黄金は眩い日輪を想わせ、凍てついた湖面を鏡を白金に輝かせる冬至の太陽そのものではないが愛おしい。彼の母の生命と共に知らず知らずのうちにダーシアが踏みにじっていた、かつての少年の慈愛を懐かしみ悲嘆にくれることすら、自分には赦されていなかったのだろうか――きっと、そうなのだろう。
『目を逸らすな。焼きつけろ』
もはや母の姿を見ることすら叶わなくなった青年の命を叶えるべく、慄く上半身を持ち上げる。脆く砕けやすい黒硝子の双眸は突き刺さる残酷に耐えかねたが、盲目となるには及ばなかった。
孔雀の飾り羽めいた睫毛が囲む暗澹の前に聳える処刑台では、地獄も及ばぬ凄惨な処罰が繰り広げられている。
喉を潰されているのか、あるいは絶叫を漏らす気力などとうに搾り取られて久しいのか。生きながら貪られる女はただひたすらに押し黙ったまま。彼女の虚ろに押し込まれた盃の苦さを舌に代わって物語るのは、千切れた腕から吹き出る紅蓮であり、歓喜の唸りを発しながら人肉を咀嚼する犬たちの咆哮である。
「己が肉体を貪る獣の姿を目の当たりにさせるため片目は残していたのだから、お前の姿も見えるやもしれぬぞ」
そして嘔吐感を催す醜悪とは対極に位置するはずなのに、そのどれよりも恐ろしい微笑だった。非業の死を遂げた母の怨嗟を晴らせども、そもザーナリアンに言われなく齎された苦痛は贖いきれるものではない。歓喜と鬱屈がせめぎ合う秀麗な面は、雲一つなく澄み切った冬空に振る純白を思わせた。ひらひらと舞う一片を鳥の羽ではないかと掌に落とせば、体温を啜って儚く消え去ってしまう雪花とは異なり、エルゼイアルの憎悪は決して融けぬ氷であるけれども。
「近くに寄れ。今ならば、まだ間に合うだろう」
癇癪を起した幼子を言い含めるかのような口ぶりと、慄く背を撫でる手つきはどこまでも優しく、疼く奥底はついに罪悪感に引き裂かれた。鉄錆の臭気が喉を逆流し、口内をひりつかせていたことが不思議でならなかった。なぜ自分の心臓は未だに脈打っているのだろう。
「なぜお前の母の許に往かぬのだ? お前たちの関係は良好とは言い難かったろうが、それでも母と子であろうに」
べたついた頬に張り付いた乱れた一筋を払うがごとく首を振っても、低く艶めいた温情はなおも降り注ぐ。
「恐ろしいのか? 礫や犬ではなく、お前の母の有様が」
汚泥が詰め込まれているのではと錯覚してしまうまでに鈍重な頭を頷かせると、呆れと苦笑を滲ませた吐息がか細い項を撫でた。
「……そうだな。お前が知っているはずはない」
ダーシアは母の罪業の底無しの深さを、荒れ狂う大海に住まう怪物にすら比せられるおぞましさを知悉している。母の咎は砂漠の砂粒にも匹敵する数の死をもってしても雪げるはずはないものだが、何ゆえに兄はこのように無意味ないたぶりを続けているのだろう。エルゼイアルにとってはタリーヒがこうして息をしていることすら腹立たしいだろうに。己の母を虐げた女を憎むのなら、タリーヒを速やかに、己が剣を濡らす赤い露にしてしまえばいいのに。
「反逆者は生きながら犬に喰われる。それが我らの――ルオーゼの民に平等に科される掟だ。王族であろうとこの掟からは逃れられぬ。事実、私達の祖父は、謀反を企てた実弟と長子を――父上の兄。当時の王太子だな――を犬に喰らわせ処刑した」
恐怖に痞えながら紡いだ疑問に答えた低く艶めいた声は、仄暗い愉悦の翳りが滲むがゆえに魂を凍てつかせ、砕け散らせるまでに美しい。
唯一神の慈愛によって偽りを暴かれるまでは麗しき青年神として崇拝され、人身を捧げられていた太陽神エルス。彼の力が最も弱まるとされた冬至の晩に、偉大なる太陽の復活を願って催された供犠を模した処刑は既に古代の神聖の面紗を剥ぎ取られていて、むき出しになった加虐の貌は醜怪極まりなかった。
「もっとも、通常は喰われる際に抵抗できぬように四肢の腱を切断しはするが、あの様に痛めつけはせぬのだが」
「……」
「お前の母が母上に味わわせた苦痛は、生きながら貪り喰われる程度では贖いきれぬだろう?」
人命と苦痛を何よりの供物とする残酷なる太陽神に愛された名を持つ王は、神そのものとなって嗤う。
獰猛な牙でもって四肢を食いちぎられた女の二つの睡蓮が咲き誇る胸は、それでも辛うじて上下していた。しかし、柔な胴がついに黄ばんだ犬歯に引き裂かれ、ぬるついた臓腑と共に鼻腔を痺れさせる悪臭が――腐り果てた血肉と排泄物の臭気が溢れでると、咎人はついに事切れた。蛆と蝿と腐肉の塊と成り果てた母に振り下ろされた鉄槌は、まばらに刈られた黒髪に覆われた頭部を処刑台から転がり落ち、石畳に叩き付けられぐしゃりと潰えた柘榴にする。生々しい亀裂から零れ落ちたのは凝った葡萄酒にも磨きぬいた紅玉にも紛う粒ではなくくすんだ桃色であり、ぶよついた飛沫は荒い息を吐く四つの口からだらりとはみ出た舌にたちまち舐め取られてしまって。
「よく目に焼き付けておけ。もう二度と逢えぬのだから」
逞しい腕に弛緩した肢体を預けながら傾聴した言葉は、どこか寂しく巻貝の耳に響く。己が罪を縒り合わせて形にされた実体のない縄はなよやかな首を縛め気道を狭め、堅い路面に叩き付けられた陶器同然にひび割れた意識を暗澹に誘い込んだ。霞み、濃い靄に覆われゆく視界は端から古び黒ずんだ血の色に――断罪の場たる処刑場を彩る赤に侵食される。
がたごとと跳ねる馬車は、冷酷な悪夢に苛まれる娘から束の間の安楽すらも取り上げた。生前の面影の一切を破壊され、こそげ落とされ、蛆に集られ食い荒らされた姿であっても、ダーシアは母の最期を細部に至るまで眼裏に刻みこめただけ幸福なのだろう。
新たな国王は母の葬儀の手筈を整えるやいなや北部貴族の討伐に赴かねばならなかった。戦乱の最中、恐慌する兵によって弑されたと公表され、無理やりに被せられた王の称号も剥奪された王子を――ヴィードを支持した諸侯を罰するために。
ダーシアは兄から、亡母の弔いのための暇すら奪っていた。なのに自分だけが幸福だった過去を懐かしむなど、やはり赦されるはずがない愚かしい夢想だったのだ。
時に夜明けまでに及ぶ伽も終わり、魂が吹きこまれ人間となる以前の、唯一神が捏ね合わせた泥人形に還った肢体をおびただしい汗で冷やし寝台から飛び起きた娘の耳元で、老婆は繰り返し囁いた。王に比すれば
聾の老婆は舌を、唖の老婆は眼差しをいばらの鞭とし、間断なくダーシアの魂に打ち付ける。陰湿なる裁きに耐えかね夜具に潜り、穏やかな眠りの海に疲弊した心身を鎮めんとしても、碧いはずの原はたちまち紅い泥濘に変じ、魚の代わりに崩れた肉を漂わせる。
しかと掴んだはずの安楽は指の合間からすり抜けるばかりで、日中が緩慢な拷問の刻と変貌するにはほんの三日で事足りた。
「……あにうえは、まだ?」
二つに割られた
夜毎兄に与えられる罰は甘やかではあるが苛烈そのもので、煮詰めた蜂蜜を諸肌に垂らされるにも等しい。激痛から逃れんとしてとろとろと這う黄金色を舐め取れば、痛めつけられた皮膚を撫でられる苦悶が、舌を焦がされる鈍痛が、脳髄を蕩かす甘味と共に流れ込む。吸いつけば吸い付くほどにいや増す苦悩を癒すために蜜を啜れば、後に襲い来る処罰は一層激しさを増し、泡沫の快楽に縋らずにはいられなくなってしまう。エルゼイアルがダーシアに教え込んだ快楽は麻薬が練り込まれた毒の蜜。あるいは芥子の汁を混ぜ込まれた葡萄酒だった。
骨の髄には至らずとも臓腑までをも犯された娘はもはや永遠に兄を求めずにはいられなくなる。ダーシアはエルゼイアルに抱かれている間だけは、怖気を震わずにはいられない母の末路も、己の罪業のおぞましさも忘れられるのだ。
ぎしり、と扉が軋むと同時に心臓が、下腹部が甘やかに疼いた。
「あにうえ!」
引き締まった首と背に腕を回し寝台に誘い、自ら衣服を脱ぎ捨て長く伸びやかで形良い脚に己の肉付きよい脚を絡める。
今日も私を、一日中起き上がれなくなるまでめちゃくちゃにしてください。
舌先で嬲られる乳房の頂きからじんと染み渡る陶酔に喘ぎながら切れ切れに紡いだ懇願は、月明りを浴び煌めく純金の髪に隠された耳に届いただろうか。
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