昏蒙 Ⅰ

 針葉樹の深緑から零れ落ちた乳房は栗の蜂蜜の甘やかな褐色に染まっている。けれども伝う珠を舐れば塩の辛さが舌に絡んだ。豊かな肢体は、しどけなく解れた蕾に切先を押し込み、最奥を抉るたびに畔に打ち上げられた魚となる。ふると震える双の山に手を伸ばすと、白い指の合間から柔らかな肉が盛り上がった。成人した男の掌でもってしても覆い隠せぬ豊潤は、いつか異国の使節に献上された果物にも匹敵する大きさでもって己に迫っている。六年前は小ぶりの林檎に過ぎなかったふくらみは、いつしか黒い縞のある果実となっていたのだ。

 豊満な胸の下のくびれの、蜜蜂と競い合うがごとき優美な曲線を際立たせる帯は解けかけている。組み敷く女が衣服を脱ぎ捨てる暇すら惜しみ、裾に意匠化された金の糸杉が聳える裳裾をたくし上げ、艶やかな肉を乗せた腿を露わにしたために。

「あ、」

 月夜の紺青と鳩の血の赤でもって飾った琺瑯エナメルの燭台の枝に突き刺さる蜜蝋の、芳しい火影が薔薇色の愉悦が滲む頬で揺らめく。もぎたての果実さながらに瑞々しい紅唇には尖った真珠が押し当てられ、漆黒の孔雀の羽の睫毛は水晶の粒に濡れ煌めいていた。くっきりと整った妖艶な面を支える首は白鳥のそれに似ていて、染み一つない代わりに数多の薄紅の花弁が舞い散っている胸に置かれた一対の骨は、どんな装飾品よりも蠱惑的にエルゼイアルが穿つ女を飾っていた。

「あにうえ……」

 もはや亡き父から分け与えられた血を共有する、腹違いの妹を。

 まろやかな肩に向かうにつれてゆるやかに跳ね上がる突起から柘榴の粒の片割れまで舌先を這わせ、整った歯列で挟めば、熟れ切って蕩けた果肉は猛った蛇を柔らかに締め付けて。ほんの一月前までは、手つかずではあらねども確かに処女おとめであったとは俄かには信じがたい媚態は、彼女の母より譲り受けたものなのだろうか。エルゼイアルが母に捧げる贄とした、あの禽獣さながらの女から。

 引き締まった腰の二つの窪みを撫でる丸い跟と、密着する腿の絹にも勝る滑らかさは淫蕩そのもの。手管こそ興を覚えて幾度か褥を共にした妓楼の娼婦には劣れども、エルゼイアルにとってのダーシアは何よりも芳しい禁断の実であった。麝香めいた芳香を漂わせるそれを齧り咀嚼するたびに飢餓感はいや増す。逸る欲望の全てを褐色の肢体に注げば、肉の器が受け止めかねた白濁はたびたび内股を伝って零れ落ち、乱れ皺の寄った敷布を穢した。

『ねえ、あにうえ……』

 けれども妹は、己の裡から溢れた精を掬い、粘りに塗れた指を滑った桃色でなぞってふっくらとした口の端を持ち上げる。もう一つの肉厚な唇を己が指で開き、娼婦も及ばぬ微笑を浮かべながら。清純な少女の、かつての彼女が紅薔薇の下でほころばせた華を咲かせるのだ。

 ――まだ足りない。もっと、もっとしてほしいんです。

 寝台に押し倒せば猟師の弓の前の兎となって慄いていた妹が貪婪な獣となったのは、久方ぶりに彼女に外界の空気を吸わせ、薄布に濾された朧な一条ではない陽光を浴びせてやった直後からであった。


 籠の中の小夜啼鳥には鉄の籠の外など必要なく、また咎人の住まいには鍵を掛けられた堅牢な檻こそが相応しい。けれどもダーシアはエルゼイアルの妹であり籠の鳥であると同時に、あのおぞましい女の娘であるのもまた事実である。母とたわいない談笑を交わすどころか名を呼ばれたこともついぞなく、そも母の世界に影すらも存在していなかった己とは異なり、妹と彼女の母の間には紐帯があったのだ。たとえそれが引けば千切れる糸同然のか細い、しかも粗悪なものだったとしても。

 子ならば母の最期を見届けたがろう。手向けたい言葉もあるやもしれぬ、と連れ出した処刑場。数多の民の怨嗟と獰猛の獣の唸り渦巻く終焉の場は、脆弱なまでに繊細な妹の心身にとっては地獄にも勝る醜悪の縮図であったらしい。エルゼイアルがそれを悟ったのは、ダーシアが己が重みに耐えかね地に伏した大輪の薔薇となってからだった。抱え上げた身体は豊かだが儚い女のもので、よもやこのまま目を覚まさぬのではと危惧と焦燥がこみ上げた。

 母が、そして父も喪われた今となってはもはやただ一人の肉親となった妹に先立たれたら。エルゼイアルは身の裡で渦巻く焔を誰に注げばよいのか。

「主は始末しましたが、あの女はどうなさるおつもりで?」

 大臣たちは己が娘を王の妾に、あわよくば王妃にせんとの野望を隠し切れぬ面に忠臣の貌を張りつけ、しきりにダーシアの処分・・を迫る。

「あれは禍となる女です。御父君があの女の主に――あれと同じ賤民の、黒き者たちの女に弑されたことをお忘れでございますか!? 亡き王妃殿下の無念を!」

 忘れられるものか。

 眼裏に焼き付いた絶望を振り払わんと頭を振り、しばし伏せていた目蓋を持ち上げる。真っ先に翠緑玉の双眸に飛び込んだ高官は、蓄えた脂肪ではない何物かによって弛んだ頬をぎらつかせていた。王国東部に広大な所領を有するこの男には、妹と同い年の娘がいる。常々王妃は北部貴族の娘から選ぶと公言していたエルゼイアルだが、此度の離反によって考えを変えるやもしれぬと踏んだのだろう。

「貴方様の御母堂の美しき身を、あの悪魔の行いで穢した売女の同胞や裏切り者など、捨て置けば宜しい。陛下がお望みとあらば、私は北に私兵を率い、貴方様が慈悲をかけられ残された狐どもを皆殺しにしましょう。旧帝国領に向かい、賤民どもの屍で山を築きましょう」

「その報酬として、そなたの娘を我が妃として迎えよ、と?」

「流石陛下は英明であられる」

 王に対する口利きにしてはあまりに不遜で傲岸な懇願に、閣議の間に居並ぶ廷臣たちのある者は顔面を蒼白に、またある者は憤りの朱に染め上げる。またある者は腰に佩いた剣の柄を掴み、鋭い切先を格好ばかりは膝を押る男に突き付けもした騒乱の最中、平静を保っていたのは彼らの上に君臨する若き王のみで。

「先の北への懲罰によって我が国軍は疲弊している。そなたの武勇の助けが得られれば、何よりの助けとなろう」

 己が爪先にくちづけんばかりに身を屈めていた男の、持ち上げられた面に据えられているのは大望を糧として燃え盛る焔であったが、恐るるには足りぬ小火であった。

「だがそなたには、果たさぬ忠勤の功に先んじて与えねばならぬ物がある。――売女に跪き、財産を割いてまで得た幸福は、我が母の具合はいかほどであった? 二度、三度と通い詰め父祖の財を蕩尽するまでに快いものであったのか?」

 衛兵に腕をねじり上げられ、平伏させられた男の鼻を己が跟でもってめり込ませると、たちまち磨き上げられた黒革が荒い吐息でくぐもって。豚よりも浅ましい呻きの源を鋭利な鋼鉄で撫でると、凍てついた鋼はひしゃげた突起から滴る血に濡れた。

「此度の乱は城内の守りを手薄にした私の浅慮が招いた災禍でもあり、重ねてそなたらと結んだ成約を反故とする不義を犯すつもりはない。それは我が許にこの玉座を運んできたそなたらの忠誠を踏みにじり、神に唾するに等しい大罪であるがゆえに」

「……へ、陛下の御寛恕はまこと、唯一神が坐す天空にも、」

「だが、過去に関しては容赦をせぬぞ。この時よりそなたの領地は全て我が掌中に返上される。我が父祖が預けた土地を蔑ろにした咎は、この場では雪げぬ」

 暗黙の裡に示した地下牢と処刑場への道の幻に見舞われでもしたのか。知られはせぬだろう、との目論見が破れ恐慌しているのか。そのいずれともつかないが、大の男の癇癪を起した幼児じみたもがきは全く愉快であった。薄皮を裂いたにすぎぬというに、道化でもあるまいに、なぜこれほどまでに滑稽に悶えられるのか。この男に上に乗られた母は喉が枯れるまで悲鳴を上げても、助けなど得られなかったであろうに。

 己が眼前で服従の姿勢を取る者たちは皆等しく母を見捨てた。だがそれは苦悶の淵に落とされた女に差し伸べる救済の手を唾棄すべき企みによって斬り落とされたためであり、罰するなどできはしないのだ。

 そも彼らの罪科と母の息の根を絶ったエルゼイアルのそれを同じ秤に乗せれば、傾くのは己の側にであろう。自分は彼らが差し出された首にのめり込ませる刃を持たず、また迸る血潮に身を浸してもこの激高は治まりはしない。宮殿を支える柱を切り倒せば、父祖が築き上げた栄華はあえなく倒壊する。そしてその習いは城を王国に置き換えても通ずるのだ。だが、千切れども千切れどもどもルオーゼという若木を損ないえぬ末端の葉である彼らの娘はどうであろうか。また、枝の一つや二つならば、徒に手折れどもさして基盤は揺らぐまい。

「また、そなたらが娘を女官として私の寝所に送り込むも止めはせぬが、」

 ――娘や自身の命が惜しくば己が許に留め置くがよい。

 あえて明示せぬままに剣を鞘に収めると、金属が擦れ合う硬質な音が張りつめた緊張を断ち切ったのか。ひたすらに沈黙を守っていた高官が、躊躇いながらも引き結んでいた口を疑問でこじ開けた。

「僭越を承知でお伺いいたします、陛下。……貴方さまは、そのマーリカという娘に一体何を望んでおられるのです?」

 縋る眼差しに射し込む好奇は、追求でもあった。

「貴方様がこれほどまでにご執心なさるのであれば、美しい女ではあるのでしょう。あのタリーヒも、顔と肉体は美しかった。しかし、それとて陛下ご自身には敵いますまいに」

 よもや、貴方様の妹御の身代わりにしているのではございませんか。

 吐き捨てた揶揄ごと衛兵に斬り捨てられ事切れた男の耳にも届くように真実を吐露すれば、居並ぶ臣下たちは皆それぞれに己を罵るのであろう。

 エルゼイアルの破門は既に解かれている。別人がすり替わっているのではあるまいかと勘ぐりたくなるほどにやせ衰え、対面すれば身震いして命乞いするばかりであった司教に命じ、その記録ごと抹消させたのだ。だがそれでも、民草の心に蒔かれた疑惑は如何ともしがたい。醜聞を絶やさんと欲すれば、彼らの生命ごと引き抜かねばならない。

 腹違いの妹との淫欲に耽った王。その汚辱は王となっても、あるいは死してもなお己に執拗に纏わりつくのだろう。だが煩わしい囁きも、蜜酒さながらに甘く芳醇な吐息に掻き消されてしまって。

 妹が目を覚ましたとの報を受け、杯に注いだ葡萄酒もそのままに居室を抜けたエルゼイアルを出迎えたのは、癖のない黒髪を裸の背に垂らす妹だった。

「だ、だって、はやく兄上とこうしたかったから……」

 なぜこのような愚かな真似をする。風邪をひいて死ぬつもりなのかと糾弾すれば、頬に羞恥を叩いた妹の、肉感溢るる唇が己の脚の付け根に寄せられた。

 私が上になるなんて、と涙を浮かべながら躊躇していた妹は、たちまち教会が非難する悦びを覚える。

 昨夜同様に己の上で、また獣を真似た姿勢で果てた女の、扇情的に垂れ下がった眦に唇を落とす。あらぬ体液に塗れた衣服の代わりに上掛けを羽織らせれば、蒼い月光に照らされてなおけざやかな薔薇の唇が微笑んだ。

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