昏蒙 Ⅱ

 大理石より彫り上げられた、それ自体が一個の芸術品に等しい指先は、震える粒を掠めてもくれなかった。あくまで繊細な一片を破らぬように慎重に。薔薇の蕾を毟るにも似た手つきで濃桃色の胴着の前を乱した手は、折れんばかりに細い胴の優美な曲線をなぞるだけ。

 剣に鍛えられ硬いはずの指は、しなやかな鳥の羽となってなけなしの理性をくすぐった。腰骨から乳房の付け根までを緩やかに這いのぼる蜘蛛に覚えるのはおぞましさではなくもどかしさで、長く整った五本の一つでも構わないから山のように盛り上がったふくらみの頂に登って欲しくてたまらない。

「……ねえ、」

 押し寄せる快楽のうねりに潤む漆黒で懇願しても、残酷な指は腕の付け根と乳房の境界の鋭敏な部分に弧を描くのみで。厚い皮膚を擦りつけられれば薄く柔らかな皮膚はたちまち甘い痺れが奔る。その下に潜む管を通って全身に行き渡った快楽は脳髄を蕩かし、長たる器官の統制を失った肢体は自らを組み敷く男が奏でる楽器となるばかり。

 縁いっぱいまで注がれた器に垂らせば、ただの一滴すらも氾濫を巻き起こす。白葡萄酒で湿った脚の付け根が、更にその下の腿をひりつかせる痙攣は、やがて力なく投げ出された四肢にまで奔った。熱した小石を押し当てられたような、悪質な草の汁を塗りつけられたような疼きは堪えがたい不安を呼び起こす。この身に流れる血潮はダーシアの知らぬ間に抜き取られていて、代わりに毒の液を流し込まれたのではないだろうか。致死性の強さは備えない、けれども確かに人体を蝕むしたたかな毒。

 己の血管を満たすのは毒蜂の巣から集められた蜜であり、それはいつか張り裂けんばかりに脈打つ心臓を止めるのではないだろうか。恐怖に駆られて涙を流せば、巻貝の耳の裡の突起を舐っていた舌先は離れ、低く威厳のある囁きが鼓膜を揺るがして。

「恐ろしいのか?」

 振り乱さんばかりの勢いで頭を振れば、毛先から漂うのは花の香気である。だがその清冽な芳香すらも、甘く饐えた体液には敵わない。禁忌の匂いの源泉のほど近く、むっちりと魅惑的な肉を付けた腿の根本で遊ぶ指は縦長の臍の周囲にも伸びるのに、ひくつく芽を摘んではくれなかった。

 兄は妹の肉体に埋め込んだ熾火の種を掘り起こし、微風を送って燃え立たせる。脇腹を撫でる掌は恐怖に駆られるほどに冷淡で、ダーシアが黄金の恍惚の波に攫われんとする徴を見やれば、瞬く間にその場所から退くのだ。寄せては返す漣に翻弄された肢体は毒の蜜に溺れてしまっていて、なんということはない指の股でさえも触れられれば陶酔の喘ぎが漏れる。ましてや二つの果実を同時に撫でまわされては、狂気の予感に悶え苦しむのも致し方ない。

 なぜ兄はダーシアをここまで翻弄するのだろう。これは罰であるとは分かり切っているが、背にいばらの鞭を振り下ろされた方がまだ耐えられた。これ以上この責苦を続けられれば、自分はもう正気ではいられなくなるだろう。狂乱の沼に引きずり込まれ、決して這い上がることはできなくなる。

 もう、やめてください。このままじゃおかしくなってしまう。

 ふっくらと肉厚な、貝の肉をも思わせる濡れた唇に犬歯を突きたて、零れかけた懇願を封じ込める。これは愚かで罪深い己に課された刑であり、逃避を企てるどころか反論すらも訴えてはならない。

 ダーシアに赦されているのはただ兄が望むままに身を横たえ、彼の眼前に己の裸体を晒すことのみである。

「恥じるな。お前は身体と顔も無論、声も良いのだから」

 三日月の眉が湛える意図を取り違えたのか、投げかけられたのは慈悲深いと称するにも足る言葉であり眼差しであった。

「――啼け」

 冷厳とした美声を拾い、己の卑小な世界を統べる神から下された託宣を捉える。ただそれだけのために張り付いていると称しても過言でもない部位の、仄暗い洞を湿った囁きが揺るがせた。

「獣の真似事はお前の得意であったろう?」

 染み一つない、瑞々しい深い琥珀色の上を這うのは蛇でもあり蔦でもあり、一たび捕らえられれば逃れるなど考えられもしなくなった。両の赤い暈を舌で、また指で嬲られれば、兄の命がなくとも下腹部からせり上がる悦びは堰切って溢れだす。ちろちろと揺らめく炎に舐られたかのごとき疼きを鎮めるのは兄の肌であるが、それとてもぬくもりを宿しているのでは。

 健常な肌であれば浸しても損なわれるはずがないぬるま湯でも、火傷に振りかければ融けた銀にも匹敵する苦痛の根源となるのだ。負わされた負傷が軽微なものであっても、泡沫の安寧を求めずにはいられない。けれども塗り込まれるのは薬草ではなく仄かな熱であり、その後に待ち受ける苦痛はいや増すばかり。

 哀願と恐慌の狭間を行き来する魂はぐずぐずに蕩け、ふやけて蜜色の海の一部になる。散々に焦らされ、情欲の炎でいたぶられた木苺が整った歯列に挟まれた瞬間。暴風雨さながらの快楽に荒らされ、千々に乱れた脳裏に雷が落ちた。

 神の怒りを受けた咎人のごとく放心し、身を慄かせる娘を襲う歓喜は独りでは飲み干せぬ樽一杯の、至上の美酒である。これほどまでに頬が、全身が燃え立ったのは六年前の運命の冬以来絶えてなかったことであり、熱病に罹患したのではとの怖れは俄かには抑えきれなかった。ぐったりと弛緩した手足は甘やかな疲弊に酔いしれていて、指一本すらも己が意に従わない。そも思索を担うべき脳すらもこの悦楽に酔いしれているのでは、珠が滲む胸から降りる唇を止められるはずもなかった。

 やや癖のある純金の髪が、睫毛が、しっとりと汗ばんだ素肌をくすぐる。どこか絹布に似ていて滑らかな唇と舌は、ついになだらかな腹の更にその下に隠れた恍惚の種を啄んだ。

 兄の、この上なく秀麗な面が自分の最も卑しむべき場所のほど近くにある。どころか、最も汚らしいはずの場所を舐っているなんて。

「……や、」

 エルゼイアルを貶めるような行為は、それが彼自身の意志によってなされたものであっても、即刻中断させるべきなのに手足は萎えたまま。腰を逞しい手によって掴まれ、抑え込まれているのだから、たとえ気力を絞り出しどうにか四肢を動かしたとしても、この蜜よりも甘い罰を振り払えはしないだろう。ならばと言葉によって兄の軽率を諭さんとしても、身体の中心から押し寄せる愉悦はたちまち喉を締め付ける。

 絹めいていて滑らかな、しかししなやかに跳ねる先端に鋭敏な粒を突かれる喜悦は、尖った真珠を押し当てられる快い苦痛の後だからこそ、より一層甘美だった。身体の中心は硬い皮膚を擦りつけられるにも似た至福に蕩かされ、尽きることのない甕となってしまっている。

 一端は引いたはずの漣は、恐るべき大波を引き連れ押し寄せた。とめどなく、入れ替わりに襲い来る光は太陽さながらに眩く、目蓋を降ろさずにはいられない。

 母の胎内に還り、羊水に身を浸したかのごとき安らぎ。そして雷霆の槍に貫かれた衝撃。二つの相反する感覚に翻弄され、渦に呑まれる娘に差し出されたのは、彼女を畔に引き寄せる救済の手ではなかった。

 はしたなく唾液を滴らせる叢の中の裂目を猛った肉で塞がれれば、粘着した悲鳴が結合した箇所から迸る。絶世の美貌と対面する格好で兄に抱きかかえられれば、己が体重を支えるためにも、押し込まれたものを咥えこまざるを得なくなるのだ。

 内臓を突き破って口に到達するのでは、と焦燥するほどに深く射し込まれた杭は収縮する胎内でも大きさを増し、胸板に押しつぶされた乳房の狭間では焦燥が蟠る。

「あにうえ……」

 こわい。やっぱりもうたえられない。

 嗚咽と共にこみ上げた哀訴を封じ、押し戻したのは、淡い亀裂を押し広げた舌であった。

 隙なく並べられた真珠の列を、その軟な台座をなぞられれば。あまりの驚愕と歓喜に硬直した肉に吸い付かれれば、ダーシアはたちまちかつての幸福の欠片を取り戻す。連夜に渡って身体を重ねてもなお与えられなかったくちづけは蜂蜜が練り込まれた牛酪にも比せられた。積もり積もった渇望を癒すべく己を蹂躙する柔肉にそっと己を付き添わせれば、もう一つの重なり合った場所から生じる歓喜は何倍にも膨れ上がる。

 愛おしい唇から離され、うつぶせに寝台に押し付けられ揺さぶられる女が発するのは、意味をなさぬ音の連なりのみ。交合うけものは言語など要せず、同時に高みに上り詰めた兄妹は厚い雲の面紗を被った月が天頂に坐すまで人間には戻らなかった。

 何をやるでもなく見つめ合い、互いの手足を交えていられた恍惚の終わり。身支度を整えた兄に縋りつき、上目遣いに接吻を強請っても拒絶されることはなかった。

 そっと重ねるだけの、小鳥の啄みめいたくちづけが、髪を梳く指が何よりも嬉しかった。

「……お前が私の意に従うのなら、幾ばくかはお前が欲するものを与えてやろう」

 下された天啓の余韻に酔いしれるあまり、兄と別れた後の己がどのように一日を過ごしたかは定かではない。気づけばダーシアは昨夜纏っていたものとは異なる衣装を兄に剥ぎ取られていた。

「今日の昼餐では兎の肉を平らげたそうだな」

 期待の朱に頬を染めながらも頷けば、待ち望んだ褒美が授けられる。腹違いの兄との禁断の情交に耽る最中だけは、ダーシアは魂に烙印された母の凄惨な末路を、己の怯懦の犠牲者の叫びを忘れられた。

 真夏であっても常にどこか冷え冷えとした城内において、熱気に中てられるなど笑い話にもできない。しかし蘇る苛烈な裁きは情欲に蝕まれた女の胃の腑をひりつかせる。

「……兄上は、やっぱりまだこれないの?」 

 鳩尾に重石を乗せられたのかと錯覚してしまう不快感は凄まじい。喉を灼く不調を和らげる薬を夜となく昼となく求めれば、老婆たちの侮蔑を突き付けられる。けれどもこの身で渦巻く苦痛に比すれば、それは春の木漏れ日でしかなかった。

「ほんの少しでいいから、一回だけでいいからって、兄上に伝えてください。……お願い、もう耐えられないんです……」

 擦り切れた革を履いた脚元に崩れ落ちても、返されるのは冷ややかな嘲りのみ。だからこそ、待ち人が訪れれば、兄と妹の体液の臭いが壁にまで沁みついた一室は地上に降りた唯一神の楽園になった。

「再び食が細くなったようだが、」

「……だったら、兄上が食べさせてください」

 口移しに供される至福と恍惚はダーシアを次第に蝕み、身体は度重なる禁忌に根負けした。倦怠がこびり付いた肢体は食物を前にするだけで吐き気を催すようになったのだ。ままならぬ自分の体調に苛立ちを覚えても、嘔吐感は日を追うごとに激しくなる。

 ――ゆかが、ゆれてる?

 酷暑が盛りを迎えたある日、ダーシアは酷い眩暈めまいに襲われた。視界は掠れゆく意識と歩調を揃えながら色彩を失い、世界は暗闇に沈む。暗澹に侵食される意識は磨き抜かれた花崗岩に受け止められ、そして深淵の双眸は閉ざされた。

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