息吹 Ⅰ

 この天空の澄み切った色を表すには、砕いた青玉と瑠璃のどちらが相応しいだろう。ちらほらと浮かぶ白ゆえに一層清しい蒼穹の下、整えた毛先を風に遊ばせながら青年は若草の瞳を細める。栗色の髪に榛の艶を与える陽光は厚い入道雲に遮られていてもなお眩く、重なり合った樫の葉の合間から零れる一筋ですら直視に耐えなかったのだ。

 大樹に寄り添うように、あるいは守られるように聳える領主館の石壁にはまざまざと騒乱の爪痕が残っている。質実と優美を兼ね備えた、鎧に身を包み凛々しく武装した勇士さながらの城の貫禄を蝕む災禍の惨憺たる有様には眉を顰めずにはいられない。けれどもが負わされた手傷は、本来彼が守るべきであった街や農村を苛めるそれと比すれば、まだしも軽傷に属するものであった。

 投石機カタパルトから放たれた衝撃を受け止めかね、脆くも崩れ落ちた城壁の内に広がる庭園を埋め尽くすのは、可憐な草花ではなく襤褸を纏った貧民の群れであった。

 亡き前領主の企ての犠牲となり、彼の恐ろしき企みによって額に汗して耕した畑からの実りの全てを奪われたのは農民たちのみに留まらない。兵卒の不足を補うべく刈りたてられた父の、あるいは夫を喪い困窮する弱き者たちの行く末を希望で照らす。それもまた、荒廃したアルヴァス侯領の治安維持と復興を主に託されたオーラントの務めであった。

「さあ、昼食の時間です。遠慮せずにたくさん食べてください」

 黒麦ライムギの麺麭と、石同然に乾酪チーズ、肉の欠片が浮いただけの汁の質素な食事でも、明日どころか今日の晩餐にも事欠く民には宮殿で供される美味となるのか。

「ありがとうございます」

「感謝ならば僕ではなく国王陛下に。これは全て陛下がくださったものなのですから」

 まだ首も座らない赤子の頭上に涙の雨を降らせた女の日に灼けた面には、労苦の証たる深い皺が刻まれていた。彼女一人の腹を満たすにも足りぬだろう食糧を携え、涼しい木の影に紛れた母親には、乳児の他にも五人の稚い子供がいる。

 司令官たる主の側に付き添っていたためにか、あるいは単純に幸運だったのか。戦場からもほとんど無傷で帰還し、特段の不調にも病にも悩まされていない自分などよりも優先して糧が与えられるべきなのは、本来はああいった者たちなのだ。オーラントは一食や二食を抜いたところで死にはしないが、彼女たちの場合は生命に関わるのだから。

 薔薇色に輝いていて然るべき赤子の頬がこけ、やつれている様を見ると胸の奥が締め付けられる。五年前に嫁した姉の、その翌年に妻を迎えた兄の子供とさして変わらぬ年頃の幼子の、老人めいた瞳にも。空腹を紛らわすためにか己の小さな指をしゃぶる幼子の双眸を煌めかせるには、たった一つの麺麭か菓子があれば十分なのだ。

 王命により付近の領地から徴収され届けられた麦の袋が空になる前に、新たな糧を得なくてはならない。そのためには、四か月前に別れたきりの友が坐す玉座の前に赴かなくてはならないだろう。父母に文を認めせがんだ幾ばくかの食物や衣服も、既に底を突きかけている。

 殿下は、如何お過ごしだろう。

 六年前に友として召し上げられて以来、主たる王子――ではなく王エルゼイアルの傍らをこれほどまでに離れたのは、今までに無かったことだった。

 たとえ側におらずとも、自分たちが培った信頼と友誼は変わらない。主君にして友への忠誠に引き結んだ口元に突きたてられた犬歯が齎すのは、痛みに他ならない。

 エルゼイアルは父を毒殺され、母との酷い離別を強いられた。主が王権を奪還したとの知らせを認められた書状を受け取った時。そしてその封を解き、目を背けたくなる残酷の全てを知った時、脈打つ心臓は針がねじ込まれたかのごとく軋んだのだった。

 主君とその父たる先の王の関係は決して良好ではなかった。どころかその反対に位置するものであったが、思うところはあるだろう。また、彼女から苦痛を取り去るためとはいえ、敬慕する母を己が手で屠ったとあっては。オーラントとて、此度の内乱では第二の父となって王都での生活を導いてくれた叔父を喪った。であるからこそ、友が今もなお噛みしめているであろう悲嘆の苦味を想うことができる。亡母とその女官の遺体を旧帝国領に送り返した主は、あの広大であるがゆえに冷え冷えとした宮殿の内廷にたったの独りで起居しているのだ。孤独はエルゼイアル自身が望み叶えんとした結末ではあるが、その過程は彼やオーラントが本来思い浮かべていたものよりも醜悪で残虐であった。

 拝命した務めに専念すべく、即位式にも北への懲罰にも付き添わなかった自分を、エルゼイアルが責めるはずはない。だが、オーラントは友が最も己を必要としているであろう時期に側にいてやれなかった。この憂慮を晴らすには、やはり友の現状を己が眼で確かめるしかないのだ。

 緩やかに伏せていた目蓋を持ち上げ、破壊された石壁の遙か先を仰ぐ。王都と侯爵領を繋ぐ道の彼方では、暗鬱とした嵐の兆しが渦巻いていた。


 ◆


 穏やかな安楽を掻き乱す声は、擦れ合う落ち葉が奏でる秋の音色に似ていて侘しい。

「いやはや、同じ賤民とはいえこんなにも似ているとはねえ」

 くつくつと、愉悦さえ漂わせる響きは年老いた女のそれであるが、己の世話を担うただ一人の女官の烏の囀りめいたそれとは明らかにかけ離れている。

「まるであの女が蘇ったみたいだけど、あんたはあの女よりも陛下に愛されているみたいじゃないか。お盛んなことだ」

 返答を求めぬ独り言にしては明瞭な囁きと、不調に苛まれる肢体の曲線を無遠慮に暴く指先は堪えがたい恐怖と嫌悪感を呼び覚ました。唯一神により「女」と銘打たれた同じ囲いに属する羊同士であるとはいえ、兄の赦しなくダーシアの身体に触れるなど。

 目蓋と上半身は乾いた泥濘が塗りつけられているのかと錯覚するほどに重かったが、どうにか持ち上げれば樹皮のひび割れにも似た皺に埋もれた鋭い眼光がぼやけた視界を切り裂いた。

 自分は冷たい床に倒れ伏したはずなのに、どうして寝台に寝かされているのだろう。

 なよやかな背を受け止める敷布の滑らかさに喚起された疑念も、鈍重な脳裏がそれを上回る異変を認めれば呆気なく蹴散らされてしまう。

「ようやくお目覚めかい? あの女もそうだったが、まったく愛妾様の暮らしは優雅なもんだねえ」

 薄い白髪が張り付いた頭を頭巾で覆う老婆の掌中には、金銀の花葉と水晶の露が散らばる飾り帯の端があった。熱狂と悦楽に焦がれるがあまり、帯を解く暇すら惜しみ裳裾を持ち上げ交合を強請った夜は既に過ぎ去っているのに、自ら肌蹴た前はなおも乱れたまま。だのに兄の舌と指と彼が振るう剣によって蕩かされた下肢の付け根がはしたなくも垂らしていたはずの濁りは、すっかり拭い去られている。

「……な、あ……」

 あなた、私に一体何をしたの。

 恐慌と羞恥に締め付けられた喉からは、どんなに絞っても発すべき問いは出せない。薄紅の花が咲き誇るむき出しの乳房を辛うじて袖に通した腕で包み隠し、ダーシアには意図を察しえない笑みを口元に刷いた老婆をねめつける。樹の瘤めいた曲がった背全体を震わせていた老婆が、引き攣った哄笑を収めるに要した時はほんの僅かであるはずなのに、永遠にも等しく感ぜられたのはなぜなのか。

 最近はふとした折、果ては食事の最中であっても睡魔に襲われてしまう。だからこそ日中にできるだけ睡眠を貪って兄との悦楽に溺れるための力を蓄えているのに、このままでは今晩に支障をきたしてしまう。

 ――私に用事があるのなら、早く済ませて出て行って。

 苛立ちと焦燥を込めた眼差しで糾弾すると、老婆は哄笑によって緩まされた口角をにんまりと吊り上げた。

「悪かったねえ。でも、あんたの身体を診るには都合が良かったからさ」

「……私、を? あなた、お医者さま? でも、私は病気なんかじゃ……」

 ダーシアの問いかけは彼女の鼓膜を揺らさなかったのか。はたまた先んじて確かめる事項があったためなのか。

「でも、最近ろくに食事を摂れないんだろう? それにいつも眠そうなんだって? もっとも、空が白むまで一晩中励んでりゃあ誰だってそうなるだろうけど、あんた、自分で自分はおかしいと思わないのかい?」

「それは……」

「だろう? だからあたしが呼ばれたんだよ。畏れ多くも先の王の庶子を取り上げる大任を見事に果たした、このあたしがね」

 誇らしげに萎んだ果実がぶら下がった胸を張った老婆は、鼠を袋小路に追い詰めた猫の微笑を浮かべ、一糸纏わぬまろやかな肩を掴む。乾ききった五本の小枝をなだらかな腹部に置かれると、湿って穏やかな体温が染み渡り、快とも不快ともつかぬ感覚がこみ上げた。

「今はまだ自分じゃあはっきりとは分からないだろうけどね、」

 腐乱し、蛆に集られた豚の臓物を弄る際の忌避と、聖者の遺品と神聖が秘匿された黄金の小箱を撫でるにも似た崇拝。水と油のごとく反発し、混じりあえない筈の二つがせめぎ合う双眸をひたと見つめると、老婆はとっておきの悪戯の種を明かす童子の顔をした。彼女らのものとは色が違うだけのダーシアの腹を眺めていて、面白いことなどあるはずはないのに。

 もしや褐色の腹部の下では、何らかの病が巣食っていたのか。それこそが著しくなるばかりの不調の原因だったのだろうか。

 堪えきれぬ不安は唾と共に嚥下しても、とめどなく溢れ出る。

「あの、」

 このままでは、いずれ兄と抱き合えなくなってしまうのだろうか。悲嘆すらすら滲ませながら待ちわびた答えは、乱れた脳内で繰り広げられた仮定など及びもつかぬ、驚嘆であり歓喜だった。

「あんたの腹には、王の子がいるんだ。あんたは身籠ったんだよ」

 自分の胎内に、兄の子種が宿った。誰よりも愛おしい青年の分身が、エルゼイアルとダーシアが混ざり合って誕生した、新たな生命が。

『わたし、いっぱい欲しいです。兄上に似た綺麗で賢い赤ちゃんを、たくさん!』

 初潮が始まった十一の秋から片時も頭から離れなかった願いが、叶う日がくるなんて。兄の憎悪に貫かれた夜からは、罪深い自分が望むことすらおこがましいと諦めてすらいたのに。

 ひたひたと押し寄せ、喉元にまでせり上がった喜びは、戦慄く唇からは嗚咽として、垂れ下がった眦からは温かな雫となって零れ落ちる。

「わたしの、あかちゃん」

 感涙に咽びながら腹を撫で、芽吹いたばかりの命を慈しむ。

 うれしい。わたしのところに来てくれてありがとう。

 届かぬと承知ながらも豊満な胸を締め付ける愛おしさは抑えきれず、胎内の我が子に語りかける。

 ――どうか元気に生まれてきて。

 まだ平らな腹部を抱きしめると、部屋の片隅で沈黙を守っていた世話役の老婆の面が歪んだ。この上なく醜悪に、化物よりも凄まじく。

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