息吹 Ⅱ
温かな、孕み女の胎内に広がる海にも似た喜びの波が引く。舌を切り取られたがゆえに罵声を発しえぬ老婆は、失った器官の代役を老いた猛禽を思わせる双眸に任せていた。
嘲りの眼差しは、忙しなく脈打つ心臓に直視しがたい、けれども受け止めねばならない真実を突き刺し苛む。お前は腹違いの兄との禁忌に溺れ、あまつさえ禁忌の子を宿した怪物であるのだと。
罪深い己が糾弾されるのは構わない。ダーシアは自ら望んで唯一神に背き、異母兄を求めたのだから。自らの怯懦が招いたとはいえ、誰よりも愛おしい存在に憎悪されるという苦痛を和らげるために、彼に与えられる甘やかな罰に縋ったのだから。だがそれはダーシア一人だけが背負うべき罪科であって、己に宿った生命は一点の穢れもない無垢であり、足跡のない雪原にも勝る純白なのだ。
なのに、ダーシアのみならず、腹の子すらも化物として蔑むなんて。誕生したばかりの我が子が自我を備えているかは分からないが、自らを卑しむべきものと見做す目に気づけばきっと嘆くだろう。己の世界を照らす太陽に見出される前の、薄暗い部屋の片隅で女官たちの口から垂らされる毒に怯え泣きじゃくっていたダーシアのように。
子を槍めいていて邪な視線から守るべく、畳まれ寝台の隅に置かれていた上掛けで腹部を覆う。更にその上に自らの腕を置くと、幽かな安堵の溜息が漏れた。不甲斐ない自分が胎内の息吹のためにできるのは、こんな些細なことだけ。だが、罪深い己を母として選んでくれた優しい赤子のためならば、ダーシアは脳裏に焼き付いたあの処刑台に登り、呻る獣たちと対峙することすら躊躇わないだろう。
――私と兄上の子供。私の可愛い赤ちゃん。
愛情は清らかな泉さながらに滾々と沸き起こり、枯れ果てる気配はない。月満ちて勇ましい産声を世に轟かせるまでは子の性別は判然としないが、胎内の命は男児であるような気がした。
いつか思い描いた通りの、兄によく似て輝かんばかりに美しく利発な息子。彼を健やかに、一切の不自由なく育むには、己は何をすればよいのだろうか。
「あの……」
水晶か真珠のごとく煌めく雫に濡れ艶めいた黒曜の睫毛を震わせ、感激に浸る己を侮りもせず、ただひたすらに口元に微笑を湛えていた老婆の袖を掴む。深い皺に埋もれた笑みは祝福とするには仄暗いが、この老婆はダーシアや腹の子を世話役の者たちほどには疎んじていないはずだ。自分と亡き双子の弟を生み出す母の介添えもしたらしき彼女を除いては、こと出産に関しては唯一神にすら縋れない。なぜならこの世の全てを創造した彼は男であり、産みの苦しみから遠く隔てられているから。
漆黒の瞳を潤ませた王の愛妾の望みを悟ってか、産婆は色褪せくすんだ唇を蠢かせる。
「とにかく安静にしてなきゃならないよ。この時期の子は流れやすい。あんたにはほんのちょっとの衝撃でも、赤子にとっちゃあ柔らかな下腹を踏みつぶされるようなもんなのさ」
――あのタリーヒだって、妊娠が分かると閨に上がらなくなったんだからね。
嗄れ霞んだ独白は明瞭とはかけ離れているのに、奇妙に鮮やかに脆弱な精神に刻まれた。ダーシアにとっては何より甘美な美酒でも、赤子にとっては毒となるのなら。夜毎貪ってきた禁断の果実も絶たなくてはならないだろう。兄との淫欲は脳裏を蝕むおぞましい断末魔が齎す懊悩を癒すための唯一の薬ではあるけれども、何より優先すべきなのは腹の子の安全なのだ。第一、ダーシアにはこの子がいてくれるではないか。
たとえ神に呪われているのだとしても、母である自分だけはこの子を慈しもう。己の胎を苗床として芽吹いたのが悪魔の子であったとしても、大切に育てる。
「とにかく、身体を冷やさないように、大事にすることだね。だけど……」
あんたの王は、その子供を認めるのかね。
目配せによって暗示されたのは、ダーシアが最も恐れる可能性であった。エルゼイアルは妹との、己が母を非業の死に追いやった咎人との間の子の誕生を、喜んでくれるのだろうか。
六年前の、ダーシアの女としての門出を言祝いでくれた心優しい少年の笑みは眩いばかりに麗しいが、翠緑玉の双眸には色濃い影が落ちていた。いつか子ができた時のために、とまだ見ぬ自分たちの子の名づけをダーシアがせがめば、兄はいつも苦笑していたものだった。
『随分と気が早いんだな』
そして不満に尖った肉厚の薔薇の花弁のあわいに桃色の蛇を潜り込ませ、まろやかな曲線を描くふくらみや臀部を翻弄する少年は、本当に子を望んでいたのだろうか。子供にはいい名前を付けてやりたいとダーシアが頑強に主張すれば、エルゼイアルは己も連なる系譜に縁のある名を呟いてくれはしたが……。
兄は時折、子の名は父が決定するものとの伝統を疎んじていた素振りすら見せていた。祖父に名を与えられたためにか、父との関係が険悪なものとなった己を兄は憂いているのだ。ダーシアはエルゼイアルの不精を彼の不遇と結び付け兄を憐れみ、けれどもいつか子ができればと期待していたのだが、真実は違っていたのかもしれない。
兄はそもそも最初から、己との子など欲していなかったのではないか。
辿りついた仮定は音もなく足元に忍び寄り、跟に毒の牙を突きたてるくちなわそのもので。憂慮は払えども払えども、足首に絡み這い上る。一刻も早く兄に会いたいのに、彼の絶世の美を仰ぐ瞬間が恐ろしい。相反する感情のうねりに翻弄され、襲い来る睡魔に沈み見たのは地獄をも超越する悪夢でしかなかった。
しなやかな筋肉を纏う少年の肢体に抱き付き、黄金の髪を掻き分けるのは在りし日の、幸福であった時分のダーシアであった。
兄上の赤ちゃんができたんです、と褒美と称賛を期待しながら囁いた少女を、少年は突き飛ばし柔らかな若草の褥に縫い止める。そして彼は研ぎ澄まされた刃物じみた笑みを浮かべ……。
「そうか。だったら始末しないとな」
やめてと懇願するダーシアの腹を踏み潰し、長ずれば健やかな若木となったはずの若芽を引き抜いた。奔る激痛と、月の障りでもあるまいに股に流れる滑りに迸らせたはずの絶叫は、在り得る惨劇に怯えた女のものでもあって。
「……あにうえ」
これは夢だと理解しているのに、冷たい汗で濡れた背筋の戦慄きは止まらない。身体の芯が氷とすり替えられたのかと危惧してしまうほどの悪寒は、己が裡からこみ上げる、逃れられぬものであった。己の卑小な世界を照らす太陽の慈愛を浴びぬ限りは。
この子のことを喜んでくれなくても構わない。だけど……。
壊れた鐘と化した頭を狂った鐘撞きが打ち鳴らす。脳髄を蝕む頭痛は堪えがたいが、脳裏にちらついた一抹の危惧を蹴散らしてくれたのはありがたい。
採光窓から射し込む夕映えは吹き出す血潮めいていて、その深い、黒ずんだ赤は不吉ですらあった。鮮血に浸された絹布の空で、一番星が瞬けば、程なく兄が訪れるだろう。ならば、いい加減に兄を出迎えるに相応しく身なりを整えなければ。
眠気と疲労で縛められ鈍重な四肢を叱咤し、絹の肌着に、ゆったりとした紺の衣装に袖を通す。世話役の老婆たちはダーシアが手負いの猛獣であるかのごとく、遠巻きに様子を窺うのみだから、長い髪は己だけで纏めなければならない。
咲き誇る種々の草花が彫り込まれた象牙でくすぐり、薔薇の芳香漂う香油を塗り込むと、漆黒の髪や夜闇に勝る艶を帯びる。癖のない毛先を磨かれた珊瑚が張り付いた嫋やかな指に巻きつけると、豊かな胸の奥が不意に疼いた。
子供は、兄のやや癖があるがゆえに男性的な色香を放つ毛髪と、自分の真っ直ぐな髪のどちらを受け継いでいるのだろう。欲を言えば、ダーシアは兄と同じ髪質の息子の頭に鼻を埋め、幼児特有の穏やかな乳の香りを想うがままに堪能したい。けれども、無事に生まれてくれさえすれば、どちらでも構わないのだ。
「ダーシア」
冷え冷えと凍てついた美声が、甘やかな夢想を打ち砕く。一体どれほど未来の幻想に魅入られていたのか。昨日までは僅かにでも轟けば下肢の付け根がぐずぐずに蕩けた足音が、全く聞こえなかった。
「孕んだそうだな」
らしくなく涼しげに切れ上がった双眸を瞠る異母兄の面は、やはり神々しいまでに端整であり、氷の彫像じみていた。
「……はい」
「堕ろせ」
整った薄い唇を割って出た単語の意味は解し得ないが、肯定や祝福ではないことは響きと語調から察せられる。
――兄上は、やっぱりこの子を認めてくれなかった。
視界を朧にする悲嘆を堪えるために目を伏せれば、淵から溢れた熱が眦から零れ落ちる。たわわに盛り上がったふくらみに降り注ぐ絶望は生温かで、生きとし生けるもの全てが持つぬくもりに満ちている。
ダーシアは己の涙などよりも温かであろう赤子の頬にくちづけたかった。たとえそれが、己を統べる麗しき神に逆らうことであったとしても。
緩やかに、少しずつ。だが確かに頭を振ると、至上の緑は驚愕に色味を深める。
「……いや、です」
「私とお前の、兄と妹の間にできた子供だぞ」
まろやかな肩を掴み骨を軋ませる白い手は、鋼鉄の剣を振るう男のものであり、加えられる力はか弱い女の身を容易に屈服させる。だが脆弱な肉に包まれた魂は、どんな苦痛をも受け止められた。他ならぬ我が子のためならば。
「――そんなの、わかってます」
蒼ざめ、亡骸のそれ同然になった頬に丹念に梳ったはずの一房を張りつかせながらも、引き締まった胸板を押す。
「ならば、」
「それでも、私はこの子を産みたいんです!」
憶えがある限り、ダーシアが兄に逆らったのはこれが初めてだった。己にとっては唯一神をも凌駕する太陽に比すれば、己など庭園の隅で這いつくばる地虫か蟻に過ぎない。けれども、小虫にも貫かねばならない意志はあるのだ。
なけなしの気力を搾り尽くした肢体は、肩で荒い息を吐きながら手入れされた花崗岩の床に崩れ落ちる。
「この子はここで、兄上の迷惑にならないように育てますから……」
「――世迷い事を。お前一人で子を育てるなど、」
不可能だ。お前にできるはずがない。
吐き捨てられた否定の文句は剣となって重石となって嘆く女に圧し掛かる。
「……おねがいします。私はもう、この子がいないと生きていけないんです」
断末魔の絶叫とも、愉悦の喘ぎともつかない懇願が飛び出すと、兄と妹の間に沈痛な静寂が蟠った。あ、と驚嘆する暇もなくなよやかな背を堅い床に押し付けられる。互いの吐息が互いの髪をそよがせるほど近くで仰ぐ面には、違えようのない焦燥と激怒が湛えられていた。
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