息吹 Ⅲ

 固い床に打ち付けられた後頭部と背筋が悲鳴を上げていた。苦痛はずきり、ずきりと疼き、不快な熱をも帯びた箇所から全身に染み渡る。瞠った漆黒からは熱い滴が伝い落ち、乱れた黒髪を艶めかせた。

 いかにも憎々しげに、宿った生命を握りつぶさんとするがごとき力で折れんばかりに細い腹部を掴む白い手に、己の褐色の手を重ねる。すると、口元に刷かれた酷薄と冷淡ゆえに一層魅惑的な薄い唇に尖った真珠が突きたてられた。淡く血の色を纏ってはいるものの、技芸の神が刻んだ大理石彫刻のそれめいているがゆえに、ぬくもりを感じさせない兄の唇。それが冷ややかな石ではなく、柔らかさと温かさを備えた人間の一部であるのだと、ダーシアは知っていた。

 耳も、項も、乳房とその頂も。腿とさらにその奥も、エルゼイアルの舌が触れていない部位など己の身体には数えるほどしかないだろう。自分の肉体に穿たれているのに、ダーシア自身では決して入り込めない隘路を幾度となく暴いた舌は柔軟に蠢く蛇である。

「お前は私の言葉を忘れたのか?」

 しかし己の一部など比較にならぬほどに愛おしい器官は、もはや研ぎ澄まされた断罪の刃と化してしまっていた。

「お前の全ては私の物だ。お前には自死の自由も与えてはおらぬのに、子を産むだと?」

 怖れ、慄きながらも仰いだ翠緑玉の双眸では憤怒の炎が渦巻き、磨き抜かれた至上の貴石を一層、溜息を催させるまでに美しく煌めかせている。子の誕生を知らされる以前のダーシアならば、長い純金の糸に飾られた宝玉の輝きに魅入られ、身も心も兄に差し出していただろう。己の全てを贄として、己の怒れる神に捧げる。さすれば神はやがて怒りの矛を収め、褐色の肢体に恵みを齎してくれる。ほんの数刻前までは、兄と共に分かち合う甘露こそが脆弱な魂を養う唯一の糧であった。しかし、ダーシアには子供がいる。

「出産には危険が付きまとう。お前は覚えてはおらぬだろうが、父上の母は三番目の子を難産の末に死産し、自身も命を落としたのだ」

 諦めろ。巻貝の耳に垂らされたのは鳥兜にも勝る猛毒であり、脳髄から精神にまで染み渡って全身をひりつかせる。とりわけ酷く軋むのは豊満な胸の奥に潜む臓器であったが、子を想えば涙をあふれさせる鈍痛も耐えられた。

「……でも、母上は、私とヴィードを一度に産んだけど、その後もちゃんと……」

 強張り、縺れる舌の音を叱咤し、ありったけの思いを告げる。確かに新たな命をこの世に誕生させるという偉業には困難が付きまとい、その過程で負った傷のために倒れる女たちはいるのかもしれない。だが、自分たちの祖母がそうだったとしても、ダーシアまでもが死すとは言い切れないだろう。

「お前はあの女の娘だが、あの女自身ではない。あの女に耐えられた苦痛でも、お前には耐えられぬだろう」

「……だったら、私は母上ではないように、私は父上の母上ではありません」

 両の手を頭上に捻り上げられる衝撃を噛みしめながら吐き出したのは、最奥からせり上がってきたのは紛れもない真意であり熱情であった。

「兄上がこの子を要らないとおっしゃるのなら、」

 魂から噴き出した、どろどろと粘ついた溶岩は畏れをも焼き尽くし、爛れた焼け地からは神に立ち向かう無謀を行う勇気が滲み出る。

「この子を殺すなら私ごと、私も一緒に死なせてください」

 兄の憎悪に貫かれ、罪悪感に首を絞められ悶絶しながら生きていかねばならないのなら、子と共に死んでしまいたい。それが兄の意志に反するとしても、子を諦めてまで生きていたくはない。

 零れ落ちた激情はなよやかな肩を震わせ、くぐもった嗚咽でもって兄と妹の間に立ちはだかる静寂を掻き乱し、凍てつかせる。既に暮れも過ぎ去ったとはいえ真夏であるというのに、肌寒さすら覚えるほどの冷気は、割かれた絹が奔らせる絶叫はどこから漂っているのだろう。

「あに、うえ?」

 澱んだ夜気に曝け出されたふくらみを掴まれると、細い喉は壊れた笛になった。たわわな果実を胸部からもぎ取らんとするばかりの力で揉みしだかれる恐怖に身を捩らせても、手首は裂かれ憐れな一片とかした紺の布で縛められている。せめてと肉付き良い両の腿を半ば反射的にすり寄せ、そのあわいで佇む蕾を閉ざしても、片方の脚を掴まれ持ち上げられてしまっては致し方ない。

 蕩け、蜜を滴らせてもいない亀裂に節くれだった指をねじ込まれる苦痛には慣れてはいたが、半ば忘れかけていた。怯えに歪んだ口元か、歓喜の喘ぎとともに溢れるまで味わわされた甘味の後の苦杯は、一層受け入れがたい。まして、指など比較にならぬほどに膨張した肉で狭隘な道をこじ開けられてしまっては。

 蜜を塗り込まれ、すっかり快癒していたはずの傷口を抉られる激痛は、ダーシアの乏しい語彙では表しえないが、そもこの辛苦に当てはまる語句など地上には存在しないのではないだろうか。

 尖った楔を、あるいは研ぎ澄まされた剣を身体の中心に突きたてられるにも似た苦悶は、悲鳴を上げることすら赦さなかった。数か月前の、自分たちが真の禁断の淵に踏み込んだ夜には得られた破瓜の血のぬめりもないまま繰り返される反復は、視界に厚い靄をかけた。血そのもののように紅く、鉄錆の臭気を放つ覆いは、柔な奥が憤怒で抉られるたびに重ねられてゆく。

 射し込まれた柄は苗床たる胎を掘り起こし、若芽を根ごと引き抜かんとするばかりで。霞みゆく視界に映る青年の面差しはやはり真冬の太陽を、日輪を司る古の青年神を思い起こさせた。人身供犠を求める残忍なる神を。

 兄は、ダーシアと身体を重ねることで子供を潰す・・つもりなのだ。自らの一部でもって新たな生命が潜る寝台を突き上げ、微睡む命を落下させ、儚くも砕け散らせんとしている――だったら、今すぐやめてもらわなければならない。

「……おねがい、しま、す」

 苦悶の喘ぎとも恍惚の嬌声ともつかない哀訴を搾りだしても、兄と妹の腰は密着したまま。淫靡に滴る濁った白は満足には香油の代わりを果たさず、兄に跨る格好での交合を強いられれば、より深く異物を咥えこまざるを得なくなる。

 こんなにも乱暴に褥を荒らされては、子供もきっと怯えているだろう。ダーシアだって、安らかに寝入っている最中に上掛けを剥ぎ取られれば、何事かと身を縮めてしまう。ならば自我すら確立していないだろう萌芽は、どんなにか恐ろしく思っているのか。

「こどもを産んだら、あにうえが満足なさるまで、」

 がんばりますから。

 その一言は激高を吐き出し萎えた肉を引き出される愉悦と、再び鎌首を擡げた蛇に一息に胎内に潜り込まれる煩悶に蹴散らされる。尾骶骨を痺れさせる衝撃は背骨を伝って脳髄までにも広がり、張りつめていた緊張の糸を断ち切る。四肢の強張りは痙攣となって末端までにも伝わり、春の陽気を吸い取った牛酪さながらに蕩けた肉体に潜む心を悶えさせる。子供にとっては拷問に比せられるであろう行為で悦びを得、あまつさえその頂に登りさえした自分がおぞましかった。

 どうして私はこんなに弱いんだろう。

 自身を苛め、糾弾し、悔恨に咽び泣いていてもなお、責苦の勢いはいや増すばかり。まだ平らな腹部や胸元、髪までにも飛び散った精は肉の器からも流れ落ち、無残に引き裂かれた衣服に染みを作っている。遠く南方に聳える峻厳なる峰からの雪解け水であってもそそげぬであろう穢れに塗れているのは、衣装や肉体だけではなかった。


 兄と妹の体液の臭気は、早朝の清冽な大気であっても清められはしない。冷ややかな灰色の上で蹲りながら、長く血流が滞っていたために痺れた指先でぬるついた下腹を撫でても、命の証たる音は轟くはずはない。子の心音を感じ取れるようになる時期はまだ先なのだと産婆は呟いていたが、そうせずにはいられなかった。

 ――弱い母親でごめんね。私なんかより、あなたの方が苦しかったでしょう。

 慟哭しながら縒り合わせどうにか形にした謝意に応ずる囁きも、赦しも返されるはずはないとは分かり切っているのに。

「……ごめんね。わたしのせいで、あなたは兄上に……あなたの父上に殺されそうになったの」

 狂気を来したがゆえに無垢な母を守らんと欲し、愚かなダーシアにも目をかけてくれたエルゼイアルは、本来は慈悲深い人間なのだ。たとえダーシアが渇望するほどには子を望んでいなかったとしても、六年前の兄ならば、子が生まれれば慈しんでくれただろう。優しく抱き上げ、よく生まれてくれたと目を細めながら赤子の肌理細やかな頬を突いてくれただろう。あまりにも執拗に名づけを迫るダーシアを煩わしいと追い払いながらも、子に由緒正しい名を授けてくれもしただろう。

 子が独り歩きを覚えれば親子で連れだって庭園の散策に赴く。息子が言葉を解する齢になれば、教師をつけ……。子の頭上に降り注ぐはずだった父からの祝福の一切をダーシアは取り上げてしまった。エルゼイアルからザーナリアンを奪っただけではなく、何よりも愛おしい我が子から、父の愛情を。

「……ぜんぶ、ぜんぶ、わたしが悪いの。あにうえは悪くないの……」

 噛みしめすぎたためにぷつりと破け赤い珠に彩られた花弁を震わせた独白は、胎内の子に言い聞かせるためのものなのか。あるいは自分自身を罰するためのものなのか。どちらともつかぬ懺悔は涙が枯れ果てても執拗に張った胸を締め付ける。

 日ごとにその身を太らせ、あるいはやせ衰えさせる白銀が闇の帳を青く染める刻が訪れるたびに始まるのは嵐に他ならなかった。吹き荒ぶ強風に翻弄される一葉に過ぎないダーシアは、ただただ終わりを願うことしかできない。

「なおも流れぬとはな」

 僅かながらに膨らんだ腹の上に置かれた白い手の片割れは、脚の付け根に挿しこまれている。ばらばらに動く三本をもってすれば、並みの果実ならばとうに掻きだされてしまっていたかもしれない。だが、ダーシアの子は頑強だった。

「お前に似たのか私に似たのかは知らぬが、随分としぶとい子供だな」

 背筋が凍るまでに麗しい冷笑が近づく。拒絶を訴える間もなく始められた饗宴の幕が引いた後も、子は己の中で微睡んでくれているだろう。

 数多の試練に晒されてなお、子は無事に育っている。それだけが深淵を照らす一条の光であった。

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