胎動 Ⅰ

 すらと締まっていた腹部がまろみを帯びるごとに、ダーシアの希望も膨らむ。子供が寒くないように、と下腹部を薄布で覆うと、柔らかな曲線に沿ってできる優雅な襞が嬉しかった。

 子の成長と共に大きさを増している胸は常に張り、時には毛羽だった毛織物で擦られたかのような痒みが生じる。とりわけ敏感な頂きは絹の肌着が擦れただけでも針で突かれたのかと錯覚してしまう。まして、剣で鍛えられ硬い指の腹で嬲られてしまったら。ダーシアは悦楽とない交ぜになった苦痛に呻き、全身を震わせながら兄を求めるだけのけだものと化してしまうのだ。

 胎内に子が宿っているのだと知らされた一月前頃には、執拗かつ陰湿に胃の腑を苛め喉を灼いていた嘔吐感のほとんどは既に治まっている。

 兄以外の全てに関心を持たなかったダーシアは、むろん食事にもさしたる興味を持たず、身体が欲する最低限の糧しか欲してこなかった。それは、時折兄に遣わされて兄と妹が禁忌を重ねる部屋に訪れる老婆が「悪阻」と呼んでいた責苦が終わっても変わりない。むしろ、今なお残る特定の食物の臭いへの忌避感は凄まじく、ダーシアの舌は既に肉の味を忘れてしまっていた。

 身籠る以前ならば数切れは平らげられたはずの獣の肉体が濃密に漂わせる生臭さは耐えがたい。表面は香ばしく炙られてはいるものの、切り分ければ赤い中身を曝け出す塊など、視界に入れただけで嘔吐してしまった。

 二つの生命の棲み処となった身体が疎んじる食物は他にもある。葡萄酒に乾酪チーズ。はたまた焼きたての麺麭まで……。兄との性行為によって気力を搾り尽くされた翌朝などは、ただの果実水ですら戻してしまう。

 疎ましさゆえに食を絶ったこともあるが、その後に襲い来たのは言語を絶する吐き気であった。満腹になっても空腹になっても悪心を催してしまうのだから、どんなに忌んでいても食物を口に入れなければならない。嘔気を和らげるための最良の薬としてダーシアが行き着いたのは、乾燥させた果物と木の実だった。

 地平線に沈みゆく太陽さながらの熟れた橙色の干し杏の酸味は爽やかで好ましい。食めば口内で種がぷちりと弾ける無花果ならば、日に二度の食事に欠かさず添えられても、飽きはしないだろう。また、巴旦杏アーモンドと胡桃の芳しさならば、違和感なく賞味できた。

「これぐらい子が育ったら、普通はもっといろいろと食べられるようになるはずなんだけどね」

 栗鼠でもあるまいに木の実のみを咀嚼するダーシアに、産婆はそのあるかないかの薄い眉を顰めた。乳房や腿、更には腹部にまで散らばる咬傷や鬱血の痕には、さも汚らわしいと吐き捨てんばかりに口元を歪めるだけだったのに。

「まあ、こればっかりは仕方がないさ。悪阻はもしかしたら子を産むまで続くかもしれないけど、それならそれで上手く付き合っていけばいいんだよ」

 ――くれぐれも励みすぎないように。

 彼女自身言い添えても無駄なのだと悟っているだろう忠告を残して、産婆は扉の向こうに控えていた老婆と入れ替わった。

「……主よ、」

 己の世話を担う唖の老婆たちには、発語が全く困難な者がほとんどだが、聞き取りづらくとも理解にさして障りのない音を紡ぐ者もいる。その数少ない例外である老婆は、ダーシアの姿を見ると常に怯え、神に救済を希う祈りを捧げていた。

「あくまだ。あくまの、子が……」

 嗄れ掠れた声は奇妙に甲高く、壊れた鐘めいた侮蔑は脆弱な魂を揺さぶり、ついには黙殺しがたい異変を生じさせる。だが、夜毎繰り返し強いられる情交にも関わらず子が無事に育っている証でもあるのなら、この不調でさえも愛おしい。

 日増しに重く気怠くなる腰も、蟀谷を疼かせる頭痛も。これらを自分に与えているのが息子であるがゆえに、ダーシアはその全てを微笑みながら受け止めることができた。

 産婆の見立てによれば、子は翌年の春に生まれるらしい。峻烈にして苛酷な死の季節を経るがゆえに、生命の目覚めと謳歌の刻たる春の到来は喜ばしいのだ。子供は、建国祭の頃には生まれているのだろうか。

 今年の建国祭は前王の崩御やその後の混乱ゆえに、ついに行われなかったと聞く。兄が王位を奪還し玉座に坐した後も、亡き前王とその妃の喪に服すために、取りやめになったのだ。そもヴィードを支持した北部貴族の懲罰に赴かねばならなかったエルゼイアルには、祝祭を執り行う暇などありはしなかったのだろう。

 母の欲望が、己の怯懦が奪ったのは貴き人命のみではない。祝賀を心待ちに日々の労働に励む人々の心をも、ダーシアは踏みにじってしまったのだ。

 生まれる子供をこの宮から出してくれとは、ごく普通の王の子として扱ってくれなどとは願わない。

 前王グィドバールの庶出の娘にして、不当なる簒奪者ヴィードの双子の姉であるダーシアは、六年前に死んでしまっている。若く美しくあらゆる才に恵まれた新王の心を射止め、その胤の苗床となる幸運に恵まれたのはあくまでマーリカという娘でしかない。が、けれどもマーリカは前王殺しにも加担し、王妃の暴行をも黙認した咎人であるから、どうあっても子は母の身分ゆえに貶められるだろう。

 ダーシアが亡き王妃ほどではなくとも、相応の地位と家柄に恵まれた貴族の娘であったら。貴族の娘でなくとも、この大陸中部北方の本来の居住者である、純粋なルースの民であったら。もしくは数百年前の覇者たる旧帝国領の民であったら。そうすれば、子は玉座を得ることができたのかもしれないのに。異母兄の子として相応しく遇され、あらゆる教養を授けられもしただろうに。

 ダーシアが子に差し出せるのは愛情のみだ。だが、不甲斐ない母の愛だけでは世に蔓延する試練に打ち勝つのは難しいだろう。まして、腹の子は周囲の者のそれなど及びもつかぬ困難に見舞われるのだと、既に定められているのだから。

「ほんとに、ごめんね」

 夏の熱気も徐々に鳴りを潜め、更にせり出してきた腹を撫でながら独り言ちる。

 正嫡と庶子の間に歴然と横たわる絶壁は深く険しいもので、並外れた手腕を神により恵まれた一握りの天才のみが超えることができるのだ。例えばこの王国を建てた初代の王。ルオーゼ王国の前身にあたる古王国の王の庶子として誕生した王子などはその好例であろう。だがダーシアたちの曽祖父には、最愛の愛妾との息子であり己の末子たる彼を溺愛していた老王や、当時北部に存在していた他の王国の正統な姫君であった妃の助けがあったのだ。生まれ落ちる以前に父親の憎悪の的となってしまった息子とは、何もかもが違いすぎる。

「わたしは、あなたのために何もできない」

 せめて迸る愛とぬくもりが伝わればいいと下腹部に手を添えると、思いがけない衝撃が内側から轟いた。とん、とん、と力強く胎を揺るがしているのは――

「私に、応えてくれたの?」

 魂はあれどいまだ自我は備えていない筈の我が子に他ならない。

 凍り付いた怒りに捕らえられ、貫かれて以来、ダーシアを励ましてくれたのは胎内の子が初めてだった。

 感涙に咽び、しゃくりあげながら、腹を叩き返す。

 先程の動きは胎動でも何でもなく、単なる腹部の臓器の蠕動から己の弱さが作り上げた都合の良い幻かもしれない。

 救いの光に見放される不安への怯えと、紅薔薇の影で兄を待ちわびていた時分に、己の胸を疼かせた甘やかさに似た焦燥に悶えながら、掌に全ての意識を集中させる。

 泣きじゃくるばかりの母親を気遣ってか、腹部に奔った喜びは一度目よりも控えめであった。

「ああ、」

 漣のごとく広がる歓喜に啼泣しながらも、赤子との戯れを繰り返すと、徐々に反応は弱くなり、ついに止まってしまった。

 もしや、自分のせいで腹の子が何らかの異変に見舞われたのだろうか。自分のせいで子供が死んでしまったら――拭い去りがたい危惧は杞憂であったのだと懊悩する女に教えたのは、丸い腹を蹴り上げる脚の力強さだった。

「……良かった」

 安堵の溜息を吐くと、強烈な一撃が振るわれて。

 もしも胎内の子が口を利けるのなら、なにを心配しているの、と唇を尖らせているのだろう。恐らくは赤子はほんの少し休憩を取ったか微睡んだだけなのに、要らぬ心配をしてしまって申し訳なかった。

「ごめんね」

 先ほどの、心臓を握りつぶされる罪悪感とはまるで異なる、むず痒い謝意に頬を緩める。するともう一度愛おしい振動が奔った。いいよ、と言わんばかりの優しい返事が。

 手探りで夜闇に覆われた獣道を歩むにも等しい日々を照らす光たる赤子は、しかし偉大なる天体にはなれなかった。ダーシアなどよりもか弱い、守るべき彼は、さながら月か星。魂に染み入るまでに怨嗟を浴びせかけられても、ダーシアにとっての太陽はエルゼイアルのみで、何人たりとも彼に成り替わることはできない。

「お前は一体何をしている?」

 真の、燃え盛る黄金の円盤が地平線に沈んだ後に来る神は、食事も中断して腹を指で突く女に冷ややかな一瞥を投げかける。

 まだ見ぬ我が子とのやり取りで、ダーシアはある決まりに感づいていた。

 胃に食物を入れた後は、とりわけ胎児は活発になる。何故かは分からないが、そうと気づけば貴重な交流の機会を逃す手はない。だからこそ食欲を刺激するどころか減退させる肉汁を啜ったのだが、今宵の努力は徒花となってしまった。

 日中に遊び回ったせいか熟睡しきっているらしき赤子は、ダーシアの呼びかけに応えてくれなかった。だが、むしろそれで良かったのかもしれない。今から始まるのは、我が子には決して見せたくない饗宴なのだから。

 固く、逞しい手が細く嫋やかな手首を掴む。骨が軋む苦痛を噛みしめながら歩まされたのは、寝台に他ならない。

 背に垂らしたままの髪が引かれ、後頭部を押されて重ねられるのは、薄く整った唇ではなく赤黒い肉でしかなく。喉の奥深くまでを穿たれる苦悶から逃れるために舌を絡ませれば、口内の異物はますます大きく猛った。腹を潰さんとしてかうつ伏せに抑え込まれ、膨張した杭で身体を暴かれれば、漆黒の双眸は潤む。眦から零れ落ちた嘆きは、我が子にも伝わるのだろうか。ただそれだけが気がかりで仕方なかった。

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