愚者 Ⅲ

 黒髪に映える銀梅花の冠を被り、代々の皇后の婚礼衣装でもあった金糸と真珠その他様々な宝玉が縫い止められた礼服を纏った少女は、地上に舞い降りた女神だった。大理石の肌は野暮な白粉を必要とせず、血の唇は紅の力を借りずとも常に鮮やか。

「なんてお美しい」

「さすが、あの大帝国の皇女であった御方だ」

 列席した貴族たちは、口々に花嫁の麗しさと高貴な血統を祝福する。建国からこの瞬間まで、異民族に嫁したことのなかった皇女が、「東の蛮族」の王妃となった偉業に酔いしれる貴賓たち。彼らが憧憬と畏怖を捧げるのは無論グィドバールではなかった。既に凋落していたとはいえ、かつては世界最大の版図を誇ったティーラ帝国を攻め落とした王。彼こそが数多が詰めかけた王室礼拝堂で執り行われた婚礼の真の主役であり、花嫁の隣で歩むべき人物だったのだ。

 父が皇女を娶っていたならば、彼は皇帝のみに許された礼服を纏っていたのだろう。あの父ならば、グィドバールは背負えなかった金の毛並みが目も眩まんばかりの有翼獅子どころか、皇女の絶世の美貌でさえ容易に従えられたのだろう。

 王太子は、ぎこちないながらも動き微笑む女神の彫像の隣で狂喜する民衆に手を振りながら、生涯己を苛むであろう感情を嚥下する。

 貴族も平民も、男も女も、老いも若きも、皆己など見ていない。この日に限り民衆に解放された外廷の庭園から、流麗な楽の音と弾けんばかりの歓声でさんざめく宴の間に移っても、グィドバールはやはり添え物であった。

 暇をかこつ王太子にあからさまな世辞を携えすり寄るのは、父たる王や己が妻となった幼女の側仕えとの対面に浴する名誉にあぶれた小物ばかり。

「殿下も、あのように偉大な御父君を持たれて、さぞかし誇りに思っていらっしゃるでしょう? その上お美しい妃まで手に入れられるとは……殿下は世に二人とない果報者でいらっしゃいますなあ」

 朗らかな笑顔で朗らかに紡がれた祝辞は毒だった。死に至らしめるほどの強さはない。しかし含めば舌をひりつかせ、不調を齎す雫はとめどなく降り注ぐ。

 緩やかに、だが確実に心身を蝕み磨滅させる囁きから解放されたのは、真の婚礼を行うべき刻になってからだった。花嫁の幼さゆえに、数年後に延期された初夜。その真白の床で身を丸めながら、王太子は独り唇を噛みしめる。

 ――殿下も、あのように偉大な御父君を持たれて、さぞかし誇りに思っていらっしゃるでしょう?

 脳裏に焼き付いた様々な笑みは、全て己を嗤っていた。幼時の病弱ゆえに馬を駆るどころか剣を握ることすらままならず、さりとて身体の不足を補う知慮にも恵まれぬ王太子を。武勇と聡明を共に備えていた祖父や父の血を受け継いだとは信じがたい非才を。

 だが、どうせよと言うのだ。

 荒れ狂う暴風雨で千々に乱れる脳裏で舞い踊る疑念は反発でもあり、怨嗟でもあった。グィドバールは自ら望んで王太子になったのでも、皇女の夫になったのでもない。

 もしも父が皇女を妻としていたのなら。グィドバールは喜んで与えられた座から退き、まだ生まれてもいない弟の影に隠れただろう。だが、父はグィドバールが躊躇いながらも提言した未来を切り捨てた。

 皇女の息子が玉座を得る前に父が崩御したら。国内は必ずやグィドバールと幼い王子の二派に分裂し、新たな領土となった旧帝国の民すらも巻き込んだ騒乱が生じるだろう。さすればこの若き国は再び分裂し、百年前の混沌に還ることになる。

 一瞬の躊躇いもなく断言した父は、己の息子の器量を見抜いている。グィドバールには幼い王をたすける手腕も、繁茂し深く根を張る以前に戦乱の芽を摘み取る眼力もありはしない。

 父に斬り捨てられた痛みを和らげる良薬・・がなければ、今宵は眠れそうにない。寝衣の上に肩掛けを羽織ってもなお、夜の冷ややかさには耐えられなかったが、グィドバールは既に冷えた身と心を温める術を知っている。

 己と皇女との結婚が父により定められてより数か月後のある晩。グィドバールにしなだれかかり、真の快楽とは何たるかを教えてくれたのは叔母と同じ栗色の巻き毛の、叔母と同じ年頃の貴族の夫人だった。夫に先立たれ孤閨を嘆いていた彼女は既に王都郊外の女子修道院に移ってしまっていて、もはや彼女の面影すらも朧になって久しい。けれども、彼女の手練手管は常に己の裡に息づいている。

 女の柔肌に抱かれ、豊満な肢体を貪りながら見る夢は、一たび舐れば決して忘れられない甘い蜜だ。その味わいは花ごとに趣を異にするがゆえに、魅入られてしまう。

「そこな女官」

 己が宮から抜け出し真っ先に目に留まったのは、幾度か手折った憶えのある花だった。

「殿下。……よろしいのですか?」

 今日はお妃さまとの初夜でしょうに。

 嫣然と微笑む彼女の肌は白く、滑らかだった。少なくはないと自負する数の女を賞味してきたグィドバールに、彼女に対する欲望を植え付ける程度には。

 揺らめく蜜蝋の灯火で艶めく肢体の、まろやかな曲線をそっとなぞる。己に跨った彼女が腰を振ればふると震えるふくらみは、嫋やかな手に包まれていた。しなやかな指先が小高い丘の頂に佇む薄紅を摘まむと、熱く解れた果実は己が虚ろを埋める蛇を締め付けて。堪えきれぬ悦楽を吐き出すと、細い喉から鳩の囀りが漏れた。

「殿下」

 裸の背に汗に濡れた乳房が押し付けられる。

「また、私をお召しになってくださいますか?」

 耳をくすぐる呼気も、不遜ともとれる申し出も、退けようとすれば退けられたはずだった。けれども己を見つめる潤んだ湖水の双眸が、嘆きの翳りによってその薄青を濁らされるのは許容しがたかった。

 幼い妻は未だ女にはならず、父もグィドバールの遊び・・には口を出さない。

「貴様! よくも浅ましい雌猫の体臭に塗れたまま殿下の御前に顔を出そうなどと不敬を考えられたものだな」

 最低でも七日に一度は、と命ぜられた妻との面会に赴けば必ず浴びせかけられる痛罵をも、「彼女」との愉悦は忘れさせてくれた。

「どうしたの、おかあさま。……そのひと、だあれ? おとななのになきそうなかおしてるのね。へんなの」

 幾度顔を合わせても夫を認識しようともしない妻の口ぶりは、幼さと無邪気によって研ぎ澄まされた刃であった。

「あら、もしかしてこのひと、おとうさまに“ほどこし”をもらいにきた“ひんみん”のかたなのかしら?」

 翠緑玉の眼差しは実態など備えぬはずなのに、猛毒を塗られた鏃となってグィドバールの胸に突き刺さり、苛める。

 この世で最も美しく、また最も尊い血を持つ幼女からすれば、己以外の全ては卑賎であり下賤であり愚劣であろう。だが、ともすれば高慢ともとれる物言いはともかく心根は純真な皇女は、決して徒に他を貶めはしない。どころか、然るべき人物には畏敬らしきものをその幼いながらも完璧な美を湛えた面に滲ませて接する。例えば父が皇女の許に足を運んだ折は、母の役目を与えた人形――亡き皇后の従妹にあたる女官アマルティナの後ろに隠れて、ついに出てこなかったらしい。

 幼児にさえも父は畏れられ、自分は嘲られる。歴然と示された差異から逃れたくとも、何故だか足が萎えて動かなかった。

「わたくししってるわ! めぐまれないひとたちにじひをくれてあげるのも“こうぞくのつとめ”なんでしょう?」

「ザーナリアン殿下は賢く、またお優しくていらっしゃいますなあ」

 母の牙城であった時から言い知れぬ近寄りがたさでもってグィドバールを威圧していた王妃の間は、もはや堅牢な城壁を備えた砦となっている。容姿に相応しい澄み切った声で歌いながら、奥深くに秘め隠して然るべき宝の箱を差し出す妻の笑顔は輝かんばかりに麗しいがゆえに恐ろしい。

「はい、ひんみんさん。これがあればたべものやきるものがたくさんかえるわ。だけどひとりじめはしちゃいけないわ。みんなでわけあってちょうだいね」

 亡き皇后の、娘には及ばずとも類まれとの称賛を冠するには十分であったと聞く美貌を飾っていた数々の宝飾品。中でもとりわけ豪奢な青玉と真珠の首飾りを一切の躊躇いなく差し出す少女は、なるほど慈悲深くはあるのかもしれない。だが発するべき言葉を見失い項垂れる男にとっては皇女の慈愛は毒液を滴らせる刃であり、その責苦から逃避せずにはいられなかった。

「退出の暇すら願わぬとは。宮廷儀礼を十分に躾けられなかったと見えるが、此度ばかりは寛大に許してやろうではないか」

 衝動に突き動かされ犯した無様の惨めさに追い打ちをかける冷笑が、駆けるそばから追いかけて来る。

 ようよう辿りついた自室では、夜が明けるまで肉体を交えていた女が眠っていた。主の訪れにも関わらず目蓋を開く気配すらない彼女は、容貌ではザーナリアンと比べるべくもなく劣っている。だが一糸纏わぬ裸体は瑞々しい弧で構成されていて、魅惑的だった。齧り、咀嚼したばかりなのに歯を立てずにはいられない。

 芳しい双の実りを揉みしだく。目を覚ました女は、肉感的な唇を吊り上げグィドバールを迎え入れた。仰向けに眺める乳房が揺れ動く様は、男の欲を刺激してやまない。

 下腹に集まった熱を柔らかな洞に放出し、気怠い疲労が圧し掛かる肢体を寝台に投げ出す。女の身体に穿たれた虚ろから溢れ、肉が詰まった腿を伝って零れ落ちた白濁を、いずれあの妻にも注がねばならぬのだと思うと気が滅入ってならなかった。 

 あの、身も心も稚い幼女を組み伏せ穿つなど正気の沙汰ではないが、いつかは果たさなくてはならない責務なのだ。ザーナリアンを孕ませる。それこそが己に課せられた唯一の使命であるのだから。

 父は、子を儲けぬことを条件にグィドバールの逃避・・を赦していた。正嫡を優先すべしと改められた王位継承法は、裏を返せば庶出の王の即位を認めたものであるがゆえに。要らぬ争いの胤はあらかじめ潰す。それが父のやり方であった。だから――

「ここに、殿下の子がおりますの」

 ザーナリアンではない女の腹に己の子が宿ったのだと詰め寄られた瞬間、蟀谷こめかみに奔った鈍痛に呻かずにはいられなかった。

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