愚者 Ⅱ

 王太子の婚約と同時に公示された王妃の懐妊の結末は、王太子の結末をも暗示していた。

 立太子され、父の共同統治者に指名されて以来、婚約者に会いに行くという名目で頻繁に城を開けるようになった兄。寝台に横たわり退屈をかこつグィドバールにしばしの別れへの挨拶を告げる彼の面からは、かつての快活が跡形もなく拭い去られていた。愛しい未来の妻と逢瀬を交わしに行くにしては暗鬱とした双眸は、しかし鋭い光を宿している。

 磨き抜かれた刃の、鋭利な煌めきは危機と破滅の予兆であったのだと、十を五つ越えたばかりだったグィドバールは感づけなかった。

「行ってらっしゃいませ、兄上」

 父が兄の妻として、次代の王妃として選んだ令嬢はまったくもって平凡な娘だった。他より抜きんでているものと言えば気位と家柄の高さぐらいの、美貌にも人徳にもさして恵まれぬ女。

 宮中の数多の洗練された貴婦人や女官たちを知る・・兄が、なぜ取り立てた美点を備えぬつまらぬ娘に拘泥しているのだろう。徐々にではあるが、寝台に拘束される責苦から解放されつつあった少年は、独力ではその答えを得られない。けれども沼地から立ち昇る瘴気のごとく城内の空気を澱ませ、人々の顔を歪めさせる焦燥から察することはできた。

 兄は、婚約者の父の助力を頼みに謀反を起こすつもりなのだ。凋落著しいかつての大帝国との一つ二つの小競り合いの指揮を任されたにすぎぬ若輩者が、勇猛名高い王を相手に自ら兵を動かし、勝利を勝ち取らんとするなど無謀にすぎるのに。

 年若い王子は、兄が辿るであろう処刑台への道の険しさに身を震わせる。闇色の裳裾を掴む甥の頭を撫でる修道女が柔和な眉を顰めるのは、彼女の直ぐ上の兄の末路を思ってのことだった。

「このままでは、あの子は下のお兄さまの二の舞になってしまうわ」

 分け与えられていた領地では飽き足らず、新王たる兄が坐す玉座をも己がものとせんとし破れた反逆者。建国王の第三子にして第二王子である叔父はグィドバールが生まれ落ちた頃には既に――どころか、父が母を妃に迎える以前に不相応な野心の代償を贖っていた。嫡出も庶出も出生順も関わりなく、王の息子に表向きは平等に王位継承を赦した古来の法。自身の即位を可能にした慣習を廃止した建国王が存続を認めた刑罰は残忍極まりない。

「お父さまは、どうしてあれを廃止なさらなかったのかしら」

 交戦は避けられぬとして兵を募る父とは対照的に、若さゆえの血気に逸る若者に和解を促す文を認める叔母の徒労は、結局のところ徒花となって散っていった。

 大敗と撤退を重ね、ついに婚約者の父の居城に追い詰められた王太子は袋の鼠。食糧が乏しくなった巣を猫の群れに包囲されれば降伏せざるを得ない。飢え、乾き、まさしく骨と皮だけになった亡骸が折り重なる中庭で捕らえられた兄は、見世物の獣として王都に帰還した。

 歴代の主の血と垢と排泄物の悪臭が湿った石壁にすら染みついた地下牢。その虜囚となった王子とその婚約者の一家の処遇は既に決定されていて、決して覆らない。

「なにも命まで取らずとも、王位継承権を剥奪した上での生涯幽閉でもようございませんか」

 叔母の涙ながらの嘆願すらも一蹴し、我が子を屠るための支度を整える父の口元には酷薄な笑みがあった。気まぐれに鼠を甚振る猫でも、狐を巣穴に追い詰めた猟犬でもない残酷に彩られた嘲笑は、あえて喩えるならば神のものに似ていた。南方より伝来した唯一神の光輝に本性を暴かれた古の偽りの神々に。人身供犠を求める、冷酷なる日輪に。

 遍く生命の行く末を司る支配者からせめてもの容赦を引きずり出さんとしてか。叔母は謁見の間の片隅で呆然と立ちすくむグィドバールの許に駆け寄り、今にも崩れ落ちそうに萎えた四肢を抱きしめてくれた。

「……ならば、せめて、この子は。まだ幼いグィドバールは、兄の処刑の衝撃には、」

 少年に似つかわしいまろやかな曲線を描きつつあった頬に降り注ぐ雫は温かい。神に己を捧げた身に相応しく節制を旨としていながら、叔母の身体にはが息づいていた。修道服に隠された魅惑の弧が、豊かな乳房が、少年の意識を飲みこむ。底無しの泥濘は跟から踝のみならず、臍を、更には顎をも呑みこんで……。

 自らを包む刺激に打ち負かされ、ぐらりと傾いだ少年の肢体を嘆く女が抱き留める。柔らかな腿に金色の頭を乗せて。大丈夫よ、叔母さまが何とかしてあげるわと、ふっくらとした唇を震わせて……。

 後頭部を掠める誘惑を退けるには、少年はあらゆる意味で惰弱だった。

 もっと、この大いなる存在を感じたい。華奢な背に腕を回し、なだらかな下腹に額を擦りつけると、湿って穏やかな香りが麻薬さながらに疲弊した心身に染み入って。

 乳飲み子が母の乳房にそうするように、二つの丘のあわいに顔を埋める。この世のどんな男も――あるいは神と預言者すらも触れることを赦されぬ禁域はひたすらに慈悲深かった。

「グィドバール」

 父や自らと同じ淡青の双眸が瞬く。引き結ばれた小作りな口は木苺さながらに瑞々しい艶を放っていて魅惑的だった。世に二つとない希少な果実が、粘ついた汗が滲む額に押し付けられる。迸る歓喜と緊張には一抹の落胆が潜んでいた。

「わたしは、あなたが、」

 紅い果実の狭間から垣間見える真珠の粒の清しい純白が、ちらと覗く舌の桃色が、千々に乱れる脳裏に焼き付く。

 密かに蓄え続けたへの思慕ごと、叔母の一部になってしまいたい。自らと叔母、どちらのものともつかない悲哀に湿ったふくらみを引き寄せ、己が胸板で押しつぶす。視界の端でちらつく唇は変わらずに己が滑らかさを主張していたが、グィドバールはそれを確かめることはできなかった。グィドバールを掻き抱く女は、血を分けた肉親であったために。

「修道女たる身でと抱き合うとは。お前らしからぬ行いだな、我が妹よ」

「……叔母が甥を慈しむのに、一体どのような不都合が?」

 片方の口の端を吊り上げた父の命を受けた衛兵によって、慕わしいぬくもりと引き離されたために。

「下のお兄さまをも処刑なさったあなたの心にも、慈悲はあるのだとわたしは信じたいのです、お兄さま!」

 面紗から零れた巻き毛を振り乱していてもなお優雅な叔母の悲痛な叫びに応える声はない。

 いかにも申し訳なさげに佇む衛兵に後ろ手に腕を捻られた女は、真っ直ぐに己が兄を見据えていた。

「さて、我が息子よ」

 その懇願すらも背で跳ね除け、父はグィドバールの眼前に立ちはだかる。

「余の後継者たるお前には、果たさねばならぬ責務がある。今からそれを教えてやろう」

 先程の叔母同様に拘束されれば――否、拘束などされておらずとも――グィドバールにはなすすべはなく、父に従う他はない。半ば引きずられながら進む回廊は慣れ親しんだ城の一部であるはずなのに、神話の迷宮のごとく感ぜられたのは歩を進めるごとにいや増す薄暗さと異臭のためだろうか。

「お前がこの先に足を踏み入れるのは初となる――のでもないようだな。半ばまで進みながら怖じ気づき引き返すなど、愚かしいにも程がある」

 ぎしり、ぎしりと耳障りに軋むのはいかにも鈍重な扉だけではなかった。王の来訪に歓待の意を示しているつもりなのか、煌々と暗澹を照らす松明が憎らしい。通気のために穿たれた窪みは怠慢そのもので、与えられた役割のほとんどを放棄していた。鼻の曲がる悪臭は衣服どころか毛穴にすらも纏わりついているが、身を清めたいなどとふぬけた願望は思いつけもしなかった。

 暗闇で、何かが蠢いている。何かが飛び交う音がする。これ以上はもうこの地獄には耐えられぬ、と固く閉ざした目は武骨な指によってこじ開けられた。

「見よ」

 己が子から瞬きする自由すらも取り上げた男の指の先に在ったもの・・は……。

「軟弱なものだな。ドリスが甘やかしすぎたのやもしれぬ」

 その全貌を受け止める前に、グィドバールの意識は闇に堕ちた。けれども首から下を桶に埋めた娘の、苦悶そのものを表した顔のおぞましさは魂に焼き付いてしまって。生きながら蛆と蝿に貪られていた肉塊は、兄の――ああ、もう何も思い出したくはない。

 少年は胃の腑からせり上がり、堰切って溢れだした嫌悪に窒息しながら倒れ伏す。むき出しの石材には、生々しい飛沫が飛び散っていた。

 言語に尽くしがたい陰惨を突き付けられてから一月後に訪れた運命の日。すっかり痩せ衰え垢に塗れ、俄かには兄と認められなくなった兄の終焉の場となった処刑場も。

 断末魔の絶叫が轟く最中、肉と骨が噛み砕かれ、臓物が食い荒らされる。刑の執行当初は勇ましく跳ね、苦痛を訴えていた肉体はやがてぴくりとも動かなくなった。

「王に刃を向けた愚者の末路、しかと己が目に焼き付けておけ」

 口元を覆う指の隙間から濁った胃液を滴らせながらも、グィドバールは幾度となく頷いた。何度も何度も。目の前のの機嫌を取るために。視界の端を蝕む不可解なざらつきに全ての気力をこそぎ落とされるまで、ずっと。

 それから自分がどれ程久方ぶりの高熱に魘されていたのかは定かではない。一晩とも一月とも、はたまた一年ともつかないのだ。

 懐かしさすら覚える陽光に招かれ目蓋を持ち上げる。真っ先に飛び込んできた、女官でも叔母でもない、この世でもっとも恐ろしい男の姿に身が竦んだ。

「ようやく目覚めたか」

 不甲斐ない息子への叱責とも取れる文句とは裏腹に、父の面は愉しげに歪められている。

「喜べ、グィドバール」

「何を、ですか……?」 

 不吉な予兆に縮こまった背に添えられた掌は厚く、硬い。命を下すまでもなく、自ら振るう剣でもって数多の頸から鮮血を迸らせた手が、少年の細い頸に伸びる。

「お前の妃が生まれた・・・・

 はっきりと突き出た突起を反論は赦さぬとばかりに弄られると、喉が狭まり言葉で痞えた。息苦しさに喘ぎ、身を折り曲げて咳き込む息子を見下ろす男の薄青の虹彩は、変わらずに氷じみていて。

「ティーラ帝国皇女ザーナリアン。お前の妃となる帝国最後・・・・の皇女だ」

 明示された父の野望は、彼の力量に比すれば壮大と称するには足らぬ代物であった。水のように定まらぬはずの未来は冷気に捕らえられて凍りつき、ついに不変の現実となる。

 王太子は戦地に赴いた国王の代理として、王国を統治する任をつつがなく果たした。満足の笑みを浮かべる父がグィドバールに与えた褒美は、齢十にも満たぬ幼女との婚礼であった。

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