愚者 Ⅰ
白磁の肌は盃を重ねてもなお真白のまま。端整な面差しを縁どる、少しばかり癖のある毛髪はまさしく黄金のよう。干した杯を置く手はかつての繊細さを失って久しいが、やはり作り物じみている。磨き整えられた貝の代わりに人魚の胸元を飾るに値する爪から、指の長さや太さ、関節の大きさまでもが完璧だった。
満たされた酒杯を一口舐めたままの器の縁を手慰みになぞるグィドバールを訝しんでか、典雅を形にしたかのごとき眉が顰められる。
「如何なさいましたか? 父上」
冷笑とも嘲笑ともつかない感情がしばし乗せられた面は、いつ見ても、何度見ても麗しい、生命を吹き込まれた彫像のそれだった。父であるグィドバールにとっても息子の美貌は信じがたいものなのだ。まして女ならば、この魅惑には抗えまい。
もはや亡い娘に始まり、己の最も新しい愛人に終わる数多の宮中の女を堕落させた麗容に堕ちぬのは、ザーナリアンとアマルティナだけだろう。エルゼイアルと匹敵する、あるいは並び称されるには及ばずとも近しい美を有する者だけが、惑わずにいられるのだ。
ならば、己はどうなのだろう。濃い靄に覆われた脳裏にふと浮かんだ問いかけは鋭い錐であり、自ら封をして奥底に鎮めたはずの禁断の小箱を穿つ。薄っぺらな板を貫き、最も直視しがたい記憶の澱を放出させた。激痛からの逃避を可能にする慰めに縋らんとすれば、己が掌中に在るのは紅蓮を湛えた杯のみで。
理解している。この葡萄酒が人間の鮮血であるはずはないのだと。現に、先ほど乾いた口内を湿らせた際に感じとったのは、芳醇な甘味と重厚な苦味と渋みの快い調和だったではないか。なのに何故、縺れる舌は鉄錆の風味を拒絶し縮こまるのか。
「お気に召されぬのなら、別の産地の物を用意させましょう。――オーラント」
グィドバールの異変に感づいた息子の指示を受けた青年が新たな器に注ぎ献じたのは、先ほどのものよりも昏い――古び黒ずんだ生命の紅だった。
「一昨年のオベルトワの葡萄酒は“当たり”だったとか。私も既に賞味しましたが噂に恥じぬ味わいでございました。父上もお気に召されることでしょう」
しずしずと差し出された液体を嚥下すると、嗤う彫像が歪んだ。水面さながらに揺らめく青年の美は、恐ろしくも慕わしい男の威厳になる。
父上。
とうに身罷ったはずの男に向けた呼び声への応えはない。けれども二十に逼迫する歳月を容易に飛び越え蘇ったのは、父の残酷でしかありえなかった。
片手の指の数を越えたばかりの齢の幼児であった頃のグィドバールにとっては、父は純粋な敬慕と憧憬の象徴であった。
「ほら、あなたのお父様が御帰還なさいましたよ」
王妃たる母が父の戦勝を枕元で囁けば、発熱を堪えてでも母の陰に隠れて将兵たちを労う宴を開く父を見つめる。
病弱な己とは似ても似つかぬ力強い――事実グィドバールは、若かりし頃の父そのものだと囁かれる兄とは対照的に、母の特徴を濃く引き継いでいた――支配者は、気まぐれに妃の裳裾にしがみ付く幼児を振り返る。
「グィドバール」
叱責の調子は帯びぬが愛情の影すらも窺わせない、ただその名を確かめるためだけに紡がれたかのような冷厳な響きは、いつも幼い王子の身を竦ませた。「おかえりをお待ちしていました」も「ごぶゆうをお祈りしていました」も、父に捧げるつもりで練り上げてきた一切が厳めしい眼差しに砕け散らされてしまう。
「ちちうえ」
勇気を振り絞って伸ばした手は、畏怖と憧憬の的に触れる寸前で制された。
「失礼しますわ、陛下。この子はずっと熱を出していましたの」
だから戦地の汚れに塗れた身で息子に近づいてくれるな。
夫を暗に牽制する王妃の華やかな顔は引き攣っていた。
グィドバールの祖父である先代の王が滅ぼし吸収した六の王国の一つの支配者の流れを汲む高貴な女。世が世ならば彼女自身が王女として傅かれていたやもしれぬ女を醜くさせるのは、故郷を貶めた男の血統への恨みではなかった。結婚前の母には密かに将来を誓い合った身分が低い恋人がいたという醜聞と、その恋人が他ならぬ父の命によって闇に葬られた悲劇は、宮中の皆が共有する暗黙の了解であった。
「そうか」
鬱屈した怨嗟を常に向けられる男は、妃に幾ばくの関心も寄せていなかった。父が母を己が妃として選んだのは、王国内で己と身分と血筋でもっとも釣り合いのとれる適齢期の娘が母だったからで、彼女の容貌に心惹かれてでは断じてない。母の恋人を抹殺したのも、将来妻の腹から這い出る男児の出生への疑惑をあらかじめ晴らしておくためだけだったのだ。
――そなたは余に二人の息子を授け、そなたの任は終わった。これからは好きな男で無聊を慰めるがよい。ただし子は孕まぬように。
父は、生まれたばかりのグィドバールを腕に抱く母に平然と言い放ったらしい。未だ宮中の雀たちが好んで囀っているのだから自然グィドバールの耳にも入る。
思うに、そも父は「女」という生き物を好んではいなかったのだろう。父が欲するのは切断された人体と砂塵と絶叫が飛び交う戦場だけだったのだろう。
――陛下の最愛は、お妃さまでも王子様方でもない。陛下が真に愛するのは、戦のみ。
女盛りにして空閨をかこつ母への見せかけの憐憫を囁き合う女官たちは、父がいない宮中で密やかに笑いあっていた。
「陛下がまた
「さあ? でも、王妃さまは本当にお可哀そうよねえ。ご自身は恋人を奪われたのに、
誰が言いだしたのかは定かではないが、よく言ったものだと感心してしまう。戦地に赴くための準備や軍略に励む父の熱意は、まさしく妻の監視の目を盗んで秘密の恋人の許に赴かんとする男のものだった。
「……私からあの人を奪っておきながら、よくも……。あんな男、誰ぞの刃にかかって死んでしまえばいい!」
幼い息子が陰で立ちすくんでいるとは想像しようともせずに、寝室で溜めに溜めた怨嗟を吐き出す女はまさしく悪鬼であり、ゆえにグィドバールは母をあまり好いてはいなかった。無垢で傷つきやすい幼子にとっては、きらやかな貌の下に魔の形相を潜ませた実母よりも、一点の翳りもない慈愛をその双眸に宿した叔母こそがよほど恋い慕うに値する
「寂しいでしょうけれど、我慢してちょうだいね。お兄さまはお忙しいからあなたに構ってあげられないだけで、いつも心の中ではあなたのことを気にかけていらっしゃるのよ」
「ほんとうですか、ドリスおばさま」
「ええ」
寂しげに、申し訳なさげに口元を緩めながら、黒い面紗で豊かな栗色の巻き毛を隠した女が寝台に横たわる幼児にありもしない咎を詫びる。
母よりも幾分か年嵩の叔母は、容姿では母に劣っていた。けれども質素な修道服を纏った身の裡から滲み出る気品と学識では、彼女に並ぶ者などグィドバールが把握している限りではこの世界にはいなかった。叔母を凌ぐ神性を備えた者がいるとすれば、それは唯一神が坐す天上でしかありえなかった。
先の国王の愛娘であり、現王の信頼も篤い王妹である修道女が手ずから調合した薬湯だけは、毒見なしに口に含むことを赦されていた。それも、父によって直々に。
「でも、どうしても耐えられなくなったときはわたしが何とかしてあげるわ。だから、」
不調に喘ぐ幼児が寝付くまでのせめてもの慰みにと聖歌を唄い、赤らんだ頬を撫でる女の指を止めたのは、他らなぬ王その人だった。
「まあ、お兄さま」
おっとりと優雅に紡がれた歓待の言葉は、叱責の調子を帯びていても優しく響く。
「戦も結構でございますが、この子や、お義姉さまのことも顧みてくださいませ。こんなに小さな息子がお兄さまの帰りを待ちわび、病の身で出迎えをなさったのに、労いの言葉一つかけられないだなんて……」
「だから、参ったのだ」
父が、宴席の場から抜け出してまで自分の許に来てくれた。不甲斐ないグィドバールを慈しむためだけに。
高熱を啜ってすっかり生ぬるくなった布が乗せられた額から幼児特有のまろやかな頬を撫でる指先は温かい。
「ちちうえ」
染み入る体温を逃すまいとばかりに鷲掴む。太く、長い指を覆う皮膚は固く乾いていた。
「私が居らぬ間、城内は変わりなかったか?」
「はい」
「お前の容体は? 少しは快方に向かっておるのか?」
「……はい」
喜びを顔中で表現する叔母に見守られながら父と言葉を重ねていると、身体が天に舞い上がったのかと錯覚してしまう。この大いなる者の心を損ねてはならないと途切れ途切れに形にした喜びは、きちんと父に伝わっているだろうか。生理的な涙で潤む視界に映る父の双眸は氷の刃じみていて、ひたと見つめられていると全身が震慄する。処刑台に牽かれる罪人の恐怖を理解させられてしまう。
「真か? 顔色が随分と蒼ざめているように見受けられるが」
父に虚実を吐いた罪への追求を恐れ、震える幼子にかけられたのは慈悲深い苦笑だった。
「久々に長く起きていたから、疲れてしまったのでしょう。この子は大丈夫ですわ、お兄さま。クィニアお姉さまのように血を吐いてもいないし……。今は臥せってばかりでも、成長すればきっと、」
永久に誰かの母とはならぬ叔母に理想の母を重ねて慕うのは、グィドバールばかりではなかった。
「お前ばかり叔母上を独占するなんて、羨ましいぞグィドバール!」
陽気で闊達な少年が穏やかな寝室に割り込む。
「あら。丁度あなたの所に行こうと思っていたところだから、こうして来てくれるとありがたいわね」
くすくすと、小鳥の羽ばたきを連想させる軽やかな笑い声を響かせる喉の、滑らかな白さが眩かった。子を産まぬ叔母は母よりも年上であるのに、時折母よりも余程若く見えるのは、彼女の華奢な肢体が少女じみた若々しさを醸し出すからなのだろうか。
既にほとんど目線の変わらぬ少年に手向けられる女の笑顔は、やはり少女めいている。
「……おめでとう。これであなたも……」
床に臥す幼児には届かなかった祝福の詳細は、程なくして城下にも公示された。
世継ぎの王子の婚約と、王妃の五年振りの懐妊。王と王妃の不仲を知らぬ民草はそのどちらをも屈託のない歓声でもって受け入れた。事情を知悉する城内の者も、頬を強張らせながらも。
王は義務として、あるいは妻の実家に配慮してか、時折は王妃と夜を共にしていたのだから、ありえぬことではない。まして、あの王の妃に触れる勇気を備えた男など、国にいるはずがないのだから。どんな愚か者とて、自身の命と泡沫の快楽を引きかえにはしないだろう。
隠そうにも隠し切れぬ驚愕を避けるためにか、母はいつしか王妃の宮に籠るようになっていた。
「母上は随分お加減が悪いらしい。なんでも、悪阻が重いんだと」
兄は眉を寄せ不安を訴えるが、医師でも神でもない少年たちでは子を宿した女の苦しみを和らげることはできない。
それでも産み月を数か月後に控え、あとは然るべき時を待つばかりだと城内の皆が安堵に胸をなでおろしていたある日。グィドバールはあえかな絶叫に午睡を妨げられた。
「まさか……」
膝の上の聖典を放りださんばかりの勢いで立ち上がった叔母の後を追いたくとも、ぶり返した病に苛まれる身では叶えられない。
「ネファルが死んだ。“ダーシア”も共にな」
グィドバールに母と妹の死を教える父の面は全くの平静であり、妻と娘を同時に喪ってもなお揺るがぬ冷徹は、幼子の胸に苦痛と懐疑を植え付けた。父にとっての自分は、母や妹と変わりない、喪失しても悲しみを齎さぬ存在なのではないか、と。
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