萌芽 Ⅱ

 明り取りのための窓から差し込む光はさながら絹。染色も漂白もされぬ、生のままの糸のごとき淡い蜜色の筋は褥に散らばる漆黒を柔らかに艶めかせる。

 母の胎内で安らぐ胎児を真似てか、胎児であった頃に還ってか。娘は豊かな肢体を丸めて眠っていた。麻の寝衣の裾は捲れ上がりむっちりとした太腿を曝け出し、大きく開いた襟からははちきれんばかりに瑞々しいふくらみが零れ落ちている。蠱惑的なまでにふっくらとした紅唇から漏れるのは規則的な吐息であり、滑らかな褐色の頬には健康そのものの血色が滲んでいた。この一室の主は病人であるはずなのに。

 長く濃い睫毛が震える。薄い目蓋が持ち上がり、一対の黒曜石が朝の眩さに細められた。磨き抜かれた黒玉のしっとりと繊細な艶でぬらつく瞳は、睫毛の影すら飲み込むまでに暗澹としている。

 どうして目覚めてしまったのだろう。落胆の吐息は冷ややかなまでに清冽な春の日の始まりにはそぐわなかった。遙かな高みから覗く空はダーシアの心情を嘲笑うかのごとき全くの快晴である。燃える日輪が雲に覆い隠されていれば、今しばらくは甘い夢に浸っていられたかもしれない。例え幻であっても、兄の腕の中にいられたかもしれないのに。

 六年前にもぎ取られて以来、渇望しながらも賞味することはできなかった禁断の果実の欠片に潤む脚の付け根から、粘ついた何かがとろりと垂れた。月の障りは終わったばかりなのに。

 少女から娘になった自分と同様に成長し少年から青年になった、ダーシアだけの兄は、いつも優しくダーシアに触れてくれた。怖がることなど何もないのだと耳元で囁きながら、羞恥と喜悦の予感に悶える娘の衣服を剥ぎ取る。露わにされた肌を少しでも隠そうと、反射的な恥じらいで強張った項を這う舌はやがて鎖骨の窪みを、更にその下のたわわなふくらみの曲線を辿って……。

 禁忌の交わりの細部は、夜ごと日ごと繰り返されるたびに僅かながら変化する。けれども念願叶ってついに一つになった際にかけられる言葉は決まっていた。

 愛している、ダーシア。

 狂おしいまでに慕わしい、かけがえのない響きこそダーシアの世界に降り注ぐ福音であり、どんな楽よりも喜ばしい祝福の鐘の音であった。けれども現実に轟くのは、荒々しい足音と扉の不快な軋みだけで。

「少し早いけれど昼食を頂きましょうね、ヴィード」

 麝香の気怠さを纏う声が加わると、元来清しいとは言い難い室内の空気が更に澱んだように感じられる。病床に就く息子を案じる母を演ずるタリーヒが携え訪れるのは、いつもほとんど味のしない麺麭粥のみ。これでは食欲など沸き起こるはずがない。

 ――だからさっさと起きなさい、この愚図。

 暗黙の許に下された母の命など聞こえぬ振りをし、頑なに目を閉ざしていると腿に鋭い衝撃が奔った。尖った爪先に柔な肉や脆い骨を圧迫される苦痛に耐えかね夜具を跳ね除ける。

「ちゃんと食べないと、病は治らないわ。分かっているでしょう?」

 目前の我が子ではなく扉の後ろに控えているだろう女官たちに届けるために張り上げられた慈愛に喚起されるのは、鬱屈とした感情だった。もはや亡い双子の弟は、毎日このような責苦に独りで立ち向かっていたのだろうか。味方など誰もいない孤独と死の恐怖に怯えながら、たった独りで。

 かつてのダーシアにはエルゼイアルが、誰よりも愛おしい異母兄がいた。しかし現実の・・・彼がダーシアを忘れていないなんてどうして断言できる。あの美しく優秀な少年が、何らの才にも恵まれぬつまらぬ腹違いの妹に変わらずに拘泥しているなど、夢物語もいいところだ。

 なのにダーシアは、夢幻の他には糧とすべき甘露を知らない。吐き気を覚えるまでに濃密な乳の風味を拒絶し縮こまる桃色の肉が真に欲するのは、異母兄の舌と体液のみ。仄かに甘い唾液も、塩辛い汗も、エルゼイアルから生じたものであるならば極上の美味となる。

 せめてもの味付けのためにか添えられた発酵乳酪バターと岩塩の粒を掬ってしまうと、起きながら見る夢に逃避している間にすっかり冷めきった粥は吐瀉物と変わりない代物となった。

「最初からそうしていれば要らない痛みを味わわずに済んだのにね。お前の愚かしさは全く手の施しようがないわ」

 猛獣の唸りめいた低音で形に成された呪詛は、謡うように軽やかでもあった。

 母に、何か良い事があったのだろうか。

 不吉な予感に駆られ、どろりと濁った白を手慰みにかき混ぜる匙を止める。琺瑯エナメルでもって種々雑多な花が描かれた水差しに蓄えられた液体で湿らせたはずの口内はたちまち乾き、すっかり干上がってしまった。まろやかな口元からだらしなく垂れる雫は細い顎を伝って胸元に滴り、深い谷間を流れ落ちて縦長の臍に吸い込まれる。布地でも、異母兄の皮膚でもない物体に素肌を暴かれるおぞましさに戦慄いた背筋は、やがて告げられた衝撃によって硬直した。

「お前の愛しいお兄さま、」

「――え?」

 自分のそれと全く同じ、あるいは二十数年後の自分そのものである母の面は陰惨な快楽を湛えている。丹念な化粧でさえも隠し切れぬ衰えは、麗らかであるはずなのに冷厳な太陽によって暴かれていて、薄闇に覆われていてもなおまざまざと娘に迫った。

 濃艶な紅い花弁が吊り上げられて三日月になると、口元に刻まれた微細な傷の思いがけぬ大きさと深さが明るみに引きずり出される。

「明日にでも宮殿から発って、再び南の国境に戻るそうよ。なんでも、結構な規模の戦闘が起こったんですって。お前がぐっすり眠っている間に、あの怪物が教えてくれたわ」

 にこやかに微笑む母はダーシアにとってはもはや人間ではなかった。唯一神に背いた罰で天から堕とされたかつての天使よりももっと恐ろしい、古の死の女神が嗤う。

「残念ね、お前の生きがいはお兄さまだけなのに」

 幽かな希望の灯火を残忍なる悪魔に吹き消された娘は、呆然と哄笑を上げる女の退出を見守ることしかできなかった。

 兄がいない王城など、己にとっては朽ちかけた豚小屋と同じ。あるいは、荒れ果てた雨漏りがする廃屋であっても、兄さえいればダーシアにとっては宮殿どころか神が坐す天上の楽園になる。それなのに、ダーシアは再び兄と離れ離れになってしまうのだ。まだ再会してすらいないのに。

 粗野な騒音の余韻が消え去った後、娘は衝撃のあまりその場に崩れ落ちて嘆き続けた。食事すら投げ出して悲哀で眦を濡らす娘の啜り泣きは、彼女の疲弊した心身が安楽の翼に抱かれるまで止まらなかった。


 ◆


「再び国境の治安維持に向かいますか」

「ああ。そなたには関心のない話題であろうが、一応は知らせておこうと思い参った」

 久方ぶりに言葉を交わした母の側仕えには、流れた月日の面影が明白に表れていた。隙なく結い上げられた髪にはすっかり霜が舞い降りてしまっている。首筋や目尻からは若かりし頃の高雅な美の名残りの一切がこそぎ落とされ、刃物じみて鋭いものとなっている。けれども鋼のごとく真っ直ぐに伸びた背筋や、怜悧な声の冷ややかな張りは弛みなかった。

「しかし、殿下の父君も困ったものですな。己は先代や先々代ほどの軍才を持たぬのだと弁えるのは宜しい。けれども己が器量の不足を殿下の功績で補うばかりでは、殿下は御身を労わる暇すらも得られぬでしょう?」

 一介の女官にしては辛辣にすぎる物言いや、それが手向けられた対象を侮蔑しているのだとまざまざと物語る冷笑は、エルゼイアルの奥底に沈む懐旧を朧ながらに呼び覚ます。

「忌憚のない讒言も、相手を選ばぬと余計な恨みを買うぞ」

「ご心配召されますな。わたくしは、あの王の閨に乗り込み、上に乗っていた売女を引き剥がして浅ましい愉しみを中断させた女ですので。買える恨みなどとうの昔に全て買っております」

 壮年と称するに足る齢を迎えたアマルティナだが、薄い、けれども紅い口元をほころばせると往時の絢爛たる華やぎの残滓が蘇る。彼女はザーナリアンの母たる帝国最後の皇后の親族である貴族の子女であり、その高貴な面差しにはどこか母のものと通ずる趣がある。それはつまり、エルゼイアルとアマルティナもまた似通っているという事実を示してもいた。

 皇后の従妹という身の上と、絶世と称するには及ばずとも稀なる美貌。アマルティナは、彼女に授けられた天賦の宝をもってすれば、国が滅びようとも容易に幸福を掴めたのだ。だのに本来掌中に収められたはずの輝かしい未来を投げ打ってまで、アマルティナが幼かった母に付き従ってこの王城に赴いた理由は察っせられない。だが彼女が、帝国の民の認識からすれば蛮族のねぐらに過ぎぬだろう王城の女官となる凋落を善としたのは、ひとえにザーナリアンへの愛情によるものであるはずだ。

 母が愛する唯一の生者はエルゼイアルではない。己の眼前で不遜ともとれる笑みを口の端に刷く女こそ、母を守る最後の砦であり騎士なのだ。

 随分と細腕の騎士は、短剣ならばともかく長剣は持ち上げることすら困難であろう。しかし気迫だけは数々の死線を潜り抜けた兵にすらも匹敵する。

「以前そなたにも話した母上の“療養”の件だが――」

 歓喜と警戒がせめぎ合う双眸は海そのもので、青く、荒れ狂っていた。

「私が戦死しても、つつがなく事を勧めるように取り計らっておく。ゆえにそなたは支度を整えておけ」

「御意。聡明なる君に伺候する幸福、とても言葉では言い表せませぬが――」

 水が高きから低きに流れるがとく膝を折った女の乾きかさついてもなお嫋やかな手が、青年の固く節くれだった指を掴む。

「たとえ万の兵が死すとも、殿下はどうかこの宮に戻って来てくださいませ。わたくしは戴冠なさった貴方様の輝く御姿を土産として携え、亡き両陛下の御霊前に参りとうございます」

 淡雪よりも儚く消え去った接吻を己が指先に落とした女は、それきり口を貝にして頑なに閉ざしてしまった。仕方なしに母の居室のほど近くで佇む栗毛の許に歩むと、友人は相好を崩してエルゼイアルを迎える。

「殿下」

 元来が柔和な作りをした造作は、その眉が気づかわしげに顰められていてもどこか和やかだった。

「実は、僕が殿下を待っている間に、陛下からの言づけを預けられて……」

 今年も建国祭の愉しみを味わえぬ王太子への、せめてもの慰めとして宴を開く。

 父たる国王ではなく王の側近のいずれかによって提言されたのだと容易に察せられる持て成しは、誘いの皮を被った命令であり、親切で飾り立てられた煩事であった。

 父王と酒を酌み交わす。己に一切の利益も歓楽も生じさせない催しではあるが、エルゼイアルのための宴への招待を跳ね除け、王と王太子の不仲を公式に認める愚挙など犯せるはずはない。

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