萌芽 Ⅰ

 濡れた囁き声が黄金の髪がかかる耳殻を撫でる。 

「……か、殿下」

 呆れの内に確かな親しみが込められた友人のものではありえぬ甘い響きに反射的にこみ上げるのは、漠然とした疑問だった。

 気怠さが残る肢体を起こす。長い睫毛に囲まれた貴石の瞳に飛び込んだのは、朧ながらも憶えがある面立ちをした女の裸体だった。

「殿下」

 ほころびかけた大輪の薔薇を連想させる婀娜な美貌を艶めかせた女が、若々しく引き締まった胸にしなだれかかる。数瞬前に身を起こした寝台に再び擦りつけられた背をくすぐるのは、あらぬ体液を啜り不快に湿った敷布だった。

 顔は知れども名は知らぬ女の正体など問い質すまでもない。大方、昨夜オーラントと酒を酌み交わした後に自ら寝室に誘った女官なのだろう。水晶か氷さながらに澄み切った硝子を通して差し込む朝日に浮かびあがる肉体は、はちきれんばかりに豊満で瑞々しい。

 旬の、嗜好に適う果実を差し出されては、齧って賞味せずにはいられないのが男という生き物だ。全ての男がそうかと問われればそれは違うのかもしれないが、少なくともエルゼイアルは。

 求めに応じて色艶良い双の実りの片方に指を食い込ませ、もう片方の頂を舌で突く。しどけなく開いた厚い唇から漏れる嬌声は淫蕩なまでに甲高く、いっそ耳障りですらある。

 聞くに堪えぬけものの呻きを封じる何よりの手段は、接吻でも行為の中断でもなかった。固く尖った桜桃に歯を立てる。愛撫とするにはあまりに強烈な、紅が滲むまでの痛みに硬直した肉体と己の上下を入れ替えると、女の潤んだ瞳は驚愕と不安の翳りを帯びて。

 窓の向こうから覗く空からは、既に夜闇の名残りすらも取り払われている。「今」が女と睦み合うどころか、褥に横たわる怠惰に耽るには相応しからぬ刻であるのだと歴然と示されていた。そろそろ友人が小うるさい忠告や大事も小事も様々な報告を携え、朝の支度の手伝いに訪れる頃合いだが、けれどもしばらくは愉しめるだろう。

 上体を起こし飛び散っていた寝衣を羽織る。

「お、お待ちになってくださいませ、殿下。今一度わたしにご慈悲を、」

 女は己の脚に圧し掛かり、筋肉の畝で盛り上がった腹部に頬を擦りつけている。癖のない真っ直ぐな髪に覆われた後頭部に置いた手に力を込めると、ふやけて滑らかな粘膜に切先が包まれた。

 暗黙の裡に下された命を悟ってか、大きく口を開けて侵入者を咥えこんだ女の喉奥を肉の剣で抉る。息苦しさのためにか浮かんだ涙で汚れた引き攣った面に喚起されるのは、嗜虐であり快感であり、喪った少女の魂に焼き付いた面影でもあった。

『あにうえ』

 ふっくらとした唇を除けば、顔かたちは似ても似つかない。肌の色も髪の色も全く異なる。だが、滝のごとく真っ直ぐに流れる髪質だけは――指に絡めればしなやかに撥ねた妹の腰のあるそれと、細く柔らかな猫毛はやはりかけ離れているが――僅かながらに似通っていた。

 女の口内から溢れんばかりに膨れ上がった肉を生温かな室から引きずり出す。

「舌を使え」

 おずおずと、躊躇いながらも天を剥いた蛇に絡んだ桃色が、肉厚の唇の合間をちろちろと彷徨う様は喩えようもなく淫猥だった。

 上目遣いに己を見上げる潤んだ瞳が宿す色彩はもういない妹の漆黒ではない。エルゼイアルが真実望んでいるのは、己の脚の間に顔を埋める女ではないのに、血の巡りに乗って下腹に集まった熱は軟な口腔に放出される。喉の滑らかな曲線をこくりと動かし、淫蕩に口角を吊り上げた女の細い指が、舌が赤黒い刀身に潜む悦楽を呼び覚ました。

 猫の仔が皿に注がれた乳を舐め取る音と密やかな息遣いは、甘酸っぱく澱んだ空気を掻き乱す。再び鎌首を擡げた昂ぶりは熱く解れた果肉を割った。己に抱き付く女は体重を支えんと繋がり合わせた部位に力を籠める。凄まじいまでの締め付けはなよやかな項や耳を舐ると、より一層大きくなった。

 震えるふくらみをその頂きごと掌で包みくすぐると、華奢な背がびくりと跳ねる。臀部にまわしていた手で蜜が滴る花弁を掻き分け、女の悦びの源泉を捻ると、戦慄きは更に激しさを増して。

 乳房と秘所への責苦を加えていると、断末魔のものかと錯覚してしまうまでの咆哮が轟いた。甲高い声にはよく慣れ親しんだ足音が混じっている。

「――殿下!」

 老爺や修道士でもあるまいに日の出と共に背伸びする、本人曰く「規則正しい」生活で己を律する友の絶叫が、開け放たれた扉の隙間から外界に飛び出すまでに大した時間は要されなかった。

「貴方は、なぜ、僕が昨日この部屋を後にした時の方とは別の女性を相手に励んでおられるのですか!?」


 一日に三度以上の食事は獣の生活、という言葉がある。いかにも節制を尊ぶ聖職者らしい文句は無論「放埓も甚だしい」己の行いへの苦言と共に幾度となく唱えられてきたが、エルゼイアルはそれを受け入れるつもりはなかった。昼と夕の食事だけで女を抱いた後の気怠さは満たしきれるものか。

 麺麭パンと兎肉が浮いた汁は厨房と己の居室を隔てる距離ゆえに、運ばれた時点で既に生ぬるくなってしまっていて。それでも嚥下すれば確かな活力が沸き起こった。

 最後の芳しい欠片を飴色の液体で流し込めば、食事のために中断されていた追求が再開される。

「僕は何回も言ってるじゃないですか。殿下は決してお酒に弱い体質ではありませんが深酒は慎んでください、と」

「……すまなかった」

「口先だけでは何とでも繕えますからね……って、ああ、また変なの付いてる! 一体、昨夜“何”をなされたんですか!?」

 折角の綺麗な髪をこんなに汚して、と口先を尖らせつつエルゼイアルの毛髪を梳る友人の手つきはあくまで優しい。が、目覚めた当初は濃い靄に覆われて判然としなかった、過ぎ去った饗宴の催しを正直に吐露するのは愚か者のやることだ。

 谷間を器にして葡萄酒を注いだら、ふとした折に飲み干しきれなかった雫を頭から被ってしまった。また、それをやるために最初の相手よりも胸が大きな女を居室に連れ込んだなどと打ち明ければ。どんな説教が返ってくるのかなど分かり切っている。

「……まさかまた、乳房の間に酒を入れて飲む、なんて馬鹿げた真似を? 失敗した際に敷布を取り換えて洗う女官が哀れでならないから控えてください、と僕は以前あれほど申しましたのに……」

 物陰に隠れて一部始終を観察していた訳でもあるまいに、まるでその場にいたかのごとく酒の過ちの仔細を言い当てる友人の洞察の鋭さに息が詰まった。

「そんな“まさか、見ていたのか”なんて顔して驚かないでくださいよ。僕が何年殿下のお側にいると思ってるんですか?」

 首筋にかかる吐息は温かく、また己を見つめる草色の双眸もまた温かな光を宿している。振り返って確かめずとも、共にした月日がそれを教えるのだ。

「もう六年ですよ、六年! 父さん母さんどころか、兄さんたちよりもずっと長く殿下の側にいたんですから、殿下が今何を考えてらっしゃるかぐらい推察できて当然でしょう?」

 妹を喪ってから程なくして、王都と戦地を行き来する生活を強いられてきたエルゼイアルの最も近くに居た者はオーラントに他ならない。

 同じ血など一切分かち合わぬ臣下・・に抱く感情は、エルゼイアルの心臓を脈打たせるものの中では最も肉親に与えるに似つかわしいものだった。父への軽蔑や母への憧憬ではない、ましてや異母妹に捧げる肉欲めいた親愛とも違う、もっと穏やかな信頼はどのような呼称で喩えれば良いのだろうか。

「殿下」

「何だ」

「その、何ですか。僕は、半年だけとはいえ殿下より先に生まれたんです。だから……」

 はにかむ気配に招かれ振り返ると、想像通りの穏やかな笑みがあった。長身のエルゼイアルと中背のオーラントでは、背丈では己に分がある。身に秘めた力とて同様であるのに、頭頂に乗せられた手は振り払えなかった。

「おじさんの厭らしーい視線に晒されるのは厭でたまらないでしょうが謁見には出ないといけない。だけど、その後の愚痴ぐらい付き合いますから。流石に寝所まではお伴できませんけど、酒の相手なら夜明けまで」

 自ら整えた髪を乱してどうする。

 引き結ばれていた涼しい口元を仄かに緩めた照れ隠しは、軽やかな笑い声に包まれた。――だったら、再び整えればいい。

 どちらからともなく破顔し合った二人の青年。交錯する二つの緑は、一方は至上の翠緑玉と讃えられる類まれな、もう片方は萌え出でる若草のようで瑞々しいがありふれた色彩だったが、相通じる思いの波で揺らいでいた。

「さあ、母君のためにも頑張ってくださいませ!」

 精緻な透かし彫りが施された扉を潜る己の背にかけられた激励に微笑が零れる。

 母ザーナリアンを、奪い取られた故郷を狂うまでに恋い慕う少女を、彼女が愛する故郷に戻す。彼の地に既に母が愛し母を愛した人物のほとんどが既におらずとも、それが彼女の望みだろうから。

 旧ティーラ帝国領の民に対する人質でもある王妃を、彼の地に帰還させるなど正気の沙汰ではない。一部の高官に泡を吹かんばかりの勢いで捲し立てられた非難の煩わしさも、母を想えば無いものと見做せる。もう、一度だけでも自分の名を呼んでくれたら、などとは欲しない。母が心穏やかに暮らし、微笑んでくれさえすれば――

 いつか己の力で実現させると誓った未来の幻想は、厳めしい一声に破られる。

「陛下のおなり!」

 衛兵を後ろに従え入城した父の顔色は随分と悪かった。季節の変わり目の風邪は数日前に快癒に向かったとの報を受けていたはずなのだが。

 ――体調が優れぬのなら、黙って寝台に潜り込んでおけば良いものを。こみ上げる苛立ちを廷臣が居並ぶ議場で面に表す愚挙は犯さない。

 こと母に関する議題においては、父はエルゼイアルの意見に表立っては異論を唱えず、むしろ内心では母との「別居」を歓迎している節すら見せていた。けれどもそれ以外となると、父はエルゼイアルの政敵・・と評するに値する所見を述べてばかりで。

 老朽化が目立つ城壁を打ち壊し、現在の十分の一にも満たない領土の小国の都であった時分から規模の変わらぬ王都を拡張してはとエルゼイアルが問えば、父は否と断言する。ならばせめて、曽祖父たる初代国王の御代に設けられた城壁に修繕を施なければと主張すれば、要らぬと首を振るばかり。

「騒乱は武勇で鎮めればよい。そのための国軍であり、軍備だ」

 後に続くのは、戦場に立つどころか甲冑を纏った経験すらない男の口から出るにしては、あまりに軽薄な戯言だった。

 もはや父は、祖父や曽祖父の功績に焦がれているのだろうか。このまま徒に時を浪費してはならぬ、とエルゼイアルが独断で王都の城壁の腐朽の具合を調査させたと発覚した際の、気に入りの玩具を取り上げられた幼児じみた眼差しは全く愉快だった。これで己の即位後速やかに建設に取り掛かれるように、と密かに建築学者を集めて議論させていると知られたら、さぞかし滑稽な喜劇が繰り広げられるのだろう。

 万が一の事態が生じても致し方なし。父などの排除のために兵を費やすのは惜しいが、エルゼイアルが玉座を得ねばこの国に待ち受けるのは破滅だ。病弱ゆえに教育すらも受けられず、国政に携わる機会にも恵まれなかった異母弟には罪はなかろうが、王の位はヴィードには重すぎる。あるいは、父にとっても。

 華美な礼服に身を包んだ厳めしい面立ちが並ぶ戦場の剣は己が舌。ならば敵の刃から身を守る盾となるのは、己が容姿であり立ち居振る舞いであろう。そしてエルゼイアルは、この場の誰よりも優れた防具・・を母より譲られている。

 己にとっては路傍の石同然に価値のない容貌も、他者の目には世に二つとない宝玉と映る。ならば神からの不要な・・・贈り物を利用しない手はあるまい。

 王太子は秀麗な貌の裏に思惑を隠し、父たる国王を見据える。加齢と病状のためにか老け込んだ面は、突然に議場に割り込んだ兵によって奉られた驚愕に引き攣らされた。

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