瘢痕 Ⅳ
「さ、この売女をさっさと捕まえて」
嫣然とした笑みは死の匂いで噎せ返る薄闇の暗さを一層引き立たせる。馴染みのある掌が肩に置かれ、憶えのある体温が誰のものであるかを半ば悟りながら振り返ると、眼に飛び込んできたのは良く知っているはずなのに知らない男であって。
一族が所有する幌馬車の中でも、とりわけ小さくみすぼらしいものにタリーヒを押し込んだのは、いつかの月夜に身体を交えた青年だった。
「お前……一体どういうつもり?」
己に恋い焦がれ、己に恋の熱狂を帯びた眼差しを注ぎ続けていたはずの男の面からは、一切の感情が抜け落ちていた。けれども暗澹とした瞳では路傍に転がる犬の糞どころか、烏に突かれ腸がはみ出した亡骸への忌避が燃え立っている。彼の全身を震わせているのは、焦がれる女の肌に触れることへの悦びと緊張ではない。
何故かは分からないが、自分はこの男に憎まれている。
惑う女に真実を悟らせたのは、頬に打ち付けられた一撃の衝撃だった。
傾ぎ、固い床に叩き付けられた左半身は、熱せられた油を浴びたかのように疼いている。堪えられぬ苦悶を切れ鮮血が滴る口の端から漏らしても、聴衆は喘ぐ女を遠巻きに見つめるばかりで、救済の手を差し伸べるどころか近づこうともしない。
誰ぞから渡された荒縄を片手にタリーヒに圧し掛かる男はまさしく飢えた狼だった。強靭な四肢で野を駆ける獣の残忍な牙と爪は備えぬが、迸る怨嗟と狡知を武器とし獲物を追い詰める。
もがく手足を無理やりに押さえつけられ、捻り上げられる。
「この女はあなたの本当の想い人を――エーメラお姉さまを非業の死に追いやったばかりか、赤毛猿呼ばわりした女よ。遠慮なんていらないわ。きつくきつく、縄が肌どころか骨に食い込むまで、縛りあげてちょうだい」
鬱屈していながらも晴れやかな歓喜に潜む悲哀を聞き取った数瞬の後。縛められた女は、鳩尾に振り下ろされた成人した男の重みと激情によって意識を刈り取られ暗黒に堕ちた。
襤褸布一枚敷かれぬむき出しの板の上に転がされた肢体は節々から強張る。瓦礫に躓いたのか、はたまた小さな穴に蹄を引っかけたのか。シーラーンたちの住まいを牽く馬が驚き撥ねれば、縛められた肢体は樽のごとく転がり、時に柱の角に腕や脛を抉られる。反射的に鈍間な馬と不遜な同族への非難の叫びを上げれば強かに舌を噛み――溢れる鉄錆に窒息し絶命すらしかけたのは一度や二度では済まなかった。
太陽と月が二、三回入れ替わったにすぎぬ短い合間であったとしても、タリーヒには永劫と感じられた責苦は、地獄の入り口に過ぎなかった。
「久しぶりにお日様を見せてあげる。眩しいけれど、綺麗でしょう?」
絢爛たる薔薇の蕾のほころびの笑みに覚えるのは、もはや屈辱ではなく恐怖である。
「ほら。お姉さま、お喜びになって。私、お姉さまが大好きなものを沢山準備して差し上げたのよ」
夫の逞しい肩にもたれかかり、機嫌よく鼻歌を――エーメラが生前好んでいた歌を唄う妹のしなやかな指は、豚の群れを指し示していた。戦乱と略奪の爪痕がまざまざと残るうらぶれた路地を寝床とする浮浪者たちは、いずれもやせ衰え大きくなった双眸をぎらつかせながらタリーヒを見つめている。ある者はほうぼうに伸びた無精ひげに覆われた頬を野卑に緩ませ、またある者は垢と汚物が沁みつき元が何色かも判然とせぬ脚衣の前を解きながら。
どの豚が一番に己を味わうかを巡る諍いから発せられた怒号があちらこちらで発せられていても、妹の歌声は掻き消されなかった。部族の女が泣きわめく赤子やむずがる幼児のために歌う、柔らかだがもの悲しい音色が途絶えたのはただ一度きり。
「……エーメラお姉さま」
亡き異母姉を悼み降ろされた娘の目蓋からは、一筋の透明な嘆きが沁みだす。ゆるりと持ち上げられた琥珀の瞳に宿る炎の糧は、凝った復讐の念だった。
嘔吐感をこみ上げらせる悪臭を漂わせる蛇に、己の内側を食い荒らされる激痛を絶叫で和らげようと口を開けば、たちまち別の蛇に塞がれる。蛆のごとく湧く豚たちはいずれも女という至上の美味に飢えており、空腹を満たすためにタリーヒを貪った。
満足を知った豚たちは、塵溜めから腐りかけた果物や塩漬け肉を漁り饗宴を始める。誰ぞが見つけ出した葡萄酒は既に酸化し酢と化していたようだが、浅ましい豚は酒精の残り香だけでも十分に酔えるらしい。もう何匹目かも分からぬけものに揺さぶられていると、本物の獣の唸りが夕闇を切り裂いた。
前足を縛られ棒に括りつけられた犬は、毛並みは艶やかで丸々と肥っていた。きっと、新たな支配者に巧みに侍り安泰を勝ち取った富豪や貴族の屋敷から彷徨い出て、不運にも捕らえられてしまったのだろう。
腹からぶら下がる肉を太い指に撫でられると、犬はむき出しにしていた黄ばんだ歯を収める。
「こいつから皮を剥いでぶった切って、火で炙って被りつく前に、少しぐらいいい思いをさせてやろうじゃないか」
「そりゃあいい。俺たちはこいつで舌と腹を愉しませてもらうんだから、俺たちもこいつを愉しませてやるべきだ」
けものの荒い息と下卑た歓声が割れんばかりになった瞬間、彼らのものよりももっとおぞましい哄笑が轟く。しかし、やがて体内に押し入った屈辱に唇を噛みしめる女からは自らを取り巻く一切が遠のいた。己に汚泥を啜らせた女以外は、全て。
「――傑作だわ!」
堪えきれぬとばかりに手を叩き唇を吊り上げる妹の面では、悲しみと口惜しさが渦巻いている。
「エーメラお姉さまを猿だなんて呼んで貶めた女が、犬と、だなんて! ……ああ、なんて、」
引き締まった腹部を折り曲げ、波打つ髪を振り乱す女の嗤いはやがて悲痛な嗚咽になった。
「……どうして亡くなられてしまったの、お姉さま。お姉さまを裏切るような男なんて、喜んでこの犬にも腰を振る売女にくれてやれば良かったのに。私に相談してくれれば良かったのに。どうして……」
啜り泣きと二種のけものの唸りが織りなすのは、醜悪な楽の音だった。夜明けと共に終焉を向かえた狂乱から解放されたタリーヒには、骨の髄まで染みついたかのような汚濁を丹念に雪ぐ暇など与えられなかった。代わりに味わわされたのは、身の毛もよだつ宴の再現だけで。
「御機嫌いかが、お姉さま」
氷柱のごとく凍てついていて鋭い、けれども確かな愉悦を滲ませて甘い声と共に叩き付けられたのは、数日振りに味わう水だった。
本来は艶やかで滑らかな黒髪は、長く梳ることができなかったためにおどろに縺れてしまっている。そのべたついた糸くずの塊ごと頭を鷲掴まれ、疲弊し泥と化した身体を持ち上げられると、股の間からごぼりと溢れ出るものがあった。
濁った白に混じる赤褐色が流されたのは、不当に強いられた苦難のゆえ。擦り切れた虚ろから粘ついた痕跡を掻きだす細い指は、細やかな刺繍で彩られた黒い袖から伸びる腕に、豊満でありながらしなやかな猫の肢体に繋がっている。
「今日はとってもいいお知らせがあるのよ、お姉さま」
鬱血と噛み痕に蝕まれた褐色の皮膚に香油を塗り込む手は、気まぐれに蒼黒い手形が散らばる乳房の頂を掠める。数多の男の舌と歯に痛めつけられたそこを慈しむような愛撫はほとんど忘れかけていた――繰り返される責苦のために遠いものとなっていた悦楽と恥辱を被ることへの憤りだった。
性を、父母を同じくする生き物によって快楽を感じ取るなど、あってはならない。頭では理解しているのに、苦杯ばかりを舐めさせられていた身体は主の意のままにはならなかった。
「脚を広げて」
己に巻き付くぬくもりは、武骨な男でも、硬い毛を生やした獣のものでもない。ただそれだけで身体の芯はぐずぐずに蕩けて流れだす。
「いいのよ、声を上げても」
淡雪のごとく、羽毛のごとくタリーヒをなぞりくすぐる指先が触れると肌が燃える。女の弱い部分を執拗に攻め、弄ぶマーリカは既に
三日月型に歪められた唇から這い出た紅い蔓が、褐色の丘を這う。鬱蒼とした繁みをかき分ける二本は、隠れていた悦びを探り当て、捏ねくりまわした。びくり、びくりとしなる腰は既に蜜に塗れている。
未知の雷に貫かれた肉体は爪先までが痙攣し、歓喜の余韻は全身を萎えさせた。耐えがたい苛めに翻弄され気だるい四肢を投げ出すタリーヒとは対照的に、マーリカは事は済んだとばかりに軽快に身を起こす。
幌馬車の入り口が乾いた音を立てたのは、妹が身支度を終えた直後だった。
「いいわ、入っていらして。もう準備は終わったから」
妹の応えを待たずして澱んだ空気が垂れ込める空間に足を踏み入れたのは、狒々と豚。正しく表現すれば乾き切って縮んでいて狒々めいた体躯の老人と、豚よりも肥え太った男だった。
「実はね、お姉さま。この方々がお姉さまの評判を聞いて、お姉さまを妾として迎え入れたいとおっしゃってくださったのよ」
豚がもがくタリーヒを押さえつけ、狒々は干物じみた矮躯で香油を塗り込まれ艶やかな裸体に跳びかかる。
「この御二人は親子なのだけれど、共有の妾としてお姉さまを迎え入れる前に、“味見”をなさりたいとおっしゃられて」
――だから、私が
マーリカが小首をかしげると、返事とばかりに猿は激しく腰を上下させる。
「まあ、それは何よりですわ」
交渉成立ですわね。それがタリーヒが最後に耳にした妹の声だった。
露悪的に飾り立てられた屋敷でけだものの父子や彼らの客人、さらには余興のために下男まで相手にさせられる日々での唯一の安らぎは、己の肉体を愛おしむ夜のみ。けれど、粗末な寝具に包まりひそやかな慰みに耽るがままで朽ち果てるには、無理やりに口内に押し込まれついに肉体の一部となった炎の勢いは激しすぎる。
わたくしはこんなところでは終わらない。いつかきっと、ここから抜け出し、あの女をも上回る地位を得てやる。燻る怨嗟は幾度となく汚辱を啜らされ、誇りを踏みにじられても消えなかった。
漆黒の焔は、偶然に御幸に赴いた若き王との出会いにより更に勢いを増す。グィドバールが既に王妃との間に世嗣の王子を儲けていようが構わない。往く手を阻む小石など蹴飛ばしてしまえばいいのだから。
そうして上になって下になって搾り取った胤を宿し丸くなった腹をそっと撫でた一時は、タリーヒは幸福だったはずだった。ザーナリアンと出会うまでは。
陽光では情交の残滓で甘酸っぱい空気は清められない。心胆を寒からしめる冷えに身を震わせた女はその線が崩れかけた肢体を素早く衣服で覆い、未だ寝台に横たわる娘を見やった。涙で乱れた平凡な顔も、白金の光を弾く濃褐色の毛髪も、誰よりもタリーヒを苦しめた女のものとはかけ離れていて、たちまち苛立ちがこみ上げた。
「……っ」
薄い頬に掌を打ち付けると、乾いた音と同時にくぐもった咽び泣きが響き渡って。
「や、」
白昼に幽霊と出くわしたと言わんばかりに目を見開く娘の腕を捻り、一糸纏わぬ裸体を引きずり既に控えていた他の女官の前まで引きずる。
「早く衛兵を呼びなさい」
他者の目から己が肌を少しでも隠そうと身を丸める娘も、他の娘も、何事かと狼狽えるばかりで俄かには動こうとはしない。
「これは昨日、わたくしの部屋に忍び込んで指輪を盗み出そうとしたのよ。物音で目を覚まし、問い詰め、素直に返したら罪を赦すと説き伏せても無駄だったわ。仕方なく服を剥いて盗まれたものを取り戻そうとしても――だって、わたくしの持ち物は全て愛しい陛下から賜った大切な物ですもの――徒労に終わってしまって。……だからもう、この賤しい盗人は神の裁きの間に引きずり出すしかないのよ」
居並ぶ女官たちのうち、まだしも頭の働く誰ぞが慌てふためいて愛妾の間から飛び出す。
自らに待ち受ける運命を悟ってか、裸の娘は貧相な身体を一層大きく震慄させて。円らな目から涙を溢れさせ、慈悲を乞う彼女はたまらなく滑稽だった。
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