瘢痕 Ⅲ

 ぱきり、と乾いた音を立てて焚火が爆ぜる。温かなはずの薪の悲鳴が冷え冷えと耳に轟いたのは、それが凍った路地を蹴る馬の脚が奏でる冬の音色に似ていたからでなければならない。

 紺の夜空の一端を朱に染める焔を囲んでいても、背後や左方から吹き付ける寒風は如何ともしがたかった。粗末な手彫りの木の器はたちまち温められた葡萄酒からぬくもりを奪い取ってしまうばかり。

『これはこれは、お美しい姉君とお可愛らしい妹君ですね』

 偶然に同じ田舎町の付近で出会った、同じ部族の別の氏族の隊列を率いる長老の若き弟――いずれタリーヒが婿に迎えるであろう男は、父をも交えて何事かを談義していた。

 凝った夜の湖面のごとく静謐な黒を湛えた双眸は、舞い散る火花を映してか絢爛たる輝きを振りまいている。タリーヒがいずれ夫とするであろう青年を注視せずにいられないのは、炎より生まれ出でし魔神ジンもかくやの漆黒の瞳の魔力のためなのかもしれない。老人たちが炉端やむずがる幼児の枕元で謳っていたお伽噺では、その呪力を用いて様々に変身する妖魔は、今宵は精悍な青年の貌で現れたのだ。

 ――わたくしがこんなに見ているのに、気づきもしないなんて。

 まろやかな弧を描く唇に押し当てられた犬歯が柔らかな皮膚を破るに至ったのは、せり上がる怒りのためだった。

 近いうちに己のものとなるはずの青年の傍らには、マーリカがいる。女、それもまだ子供でしかない女である身を弁えずに、あの妹はいっぱしに父や青年や青年の兄の論議に加わっているつもりなのだ。

「……ですから、私たちは、」

 さんざめく歌声と笑い声に遮られタリーヒの許にはほとんど届かぬ熱弁を振るっていた妹が口を閉ざすと、青年と青年の兄はほうと驚嘆を漏らす。

「愛らしいだけでなく聡明な娘御をお持ちの貴方は果報者だ」

 酒に呑まれた誰ぞが狼を真似た咆哮を上げたというに、妹を見つめる青年の囁きと表情は鮮烈にタリーヒの胸に焼き付いた。

 火影を照り返す少女の頬が艶やかに紅潮しているのは、波打つ髪に絡んだ長くしなやかな、けれども節くれだった指のためだろう。

「貴女の琥珀の瞳は叡智と聡明を宿している。まるで星のようだ」

 縮れ毛の、黄色い目をした猿の分際で。胸も膨らまず月のものも始まらぬおぼこの癖に、妹はタリーヒを嗤っていた。炎をも越えて己に突き付けられた鋭い視線の矢は、紛れもなく妹が放ったものだった。

 木枯らしに洗われ一層けざやかに瞬く金銀の光を映した紅い水面に落としていた視線を上げると、男の思わせぶりな目配せにかち合った。何度か寝てやったこともある同じ氏族の男は、身の程知らずにもタリーヒの隣に坐す。

「何よ」

 男の厚い掌が、眉尻を跳ね上げた娘の臀部を覆う。豊満な丸みを確かめる節くれだった指が肉付きのよい太腿を、その最奥に潜む亀裂を掠めると、堪えがたい寒さが幾分か和らいだ。

「……ここじゃ、流石に、まずいわ」 

 二人して喧騒渦巻く環から離れる。煌々と夜闇を暴く月の光は白々と霜に覆われた地面を輝かせていて、その上に伸びる己の影の濃さに何故だかぞっとした。

 男の擦り切れ破れた外套を敷いた大地に横たわり、裳裾をたくし上げて足を開く。成熟した亀裂が露わになると、ごくりと唾を呑む気配がした。己の脚衣の前からはちきれんばかりの屹立を取り出した男は、鼻息も荒くタリーヒの脚の合間に身を鎮めようとするが、

「お前が先に愉しもうなんて、一体どういうつもりなの?」

 タリーヒが整えた爪先で股間を突くと、彼は――いや、犬は己が成すべきことを思い出したようだった。

「舐めなさい。わたくしが満足するまでね」

 けものの乱れた息が蜜を滲ませる花をくすぐり、滑らかな舌が花弁を割る。

 悦びは背筋を駆けのぼるが、決して脳には届かない。どんな男に貫かれ、身をくねらせていても、タリーヒは己を忘れることは決してなかった。瞠られた黒曜の双眸は身を焦がす快楽に濡れはせず、砂のごとく乾いてゆくばかり。

 どうして、どの男もこうなのだろう。

 男に戻った犬に己の中心を穿たれた瞬間、ふととりとめもない疑念が生じた。どうしてどの男も、がつがつとみっともなく腰を打ち付けるだけで頂きに登れるのか。なぜ男は己が組み敷く女が上げた声は退屈を一刻も早く終わらせるための偽りだと考えもせず、身体を離したのちにもあれこれと要らぬことを尋ねてくるのか。

「……俺は貴女を満足させられたでしょうか」

 ――お前の粗末なもので、満足なんてできるわけないじゃない。お前と寝るよりかは、犬と寝た方が幾分かましかもしれないわ。

 気怠い倦怠の奥に潜む憤懣をぶちまければ、目の前の己より年嵩の男はどのように顔を歪めるのだろう。彼はあわよくばタリーヒの夫の座を得れるやもしれぬと友人たち相手に零していたそうだが、その腹立たしい己惚れを壊してやるのも悪くない。悪くないどころか、先ほどこの男を迎え入れた瞬間を遙かに凌駕する恍惚がこみ上げる。しかし、この気の小さい男に真実を突き付けて、泣かれでもしたら面倒だ。男の涙ほどみっともないものはない。

「タリーヒさま」

 執拗に更なるまぐわいを求める男を黙らせんと、仕方なしに様々な体液に塗れた襤褸に横たわる。男を咥えたばかりのそこは熱く解れていて、彼を再び受け入れるに苦労はしないだろう。

 諦観とも傍観ともつかない感情のうねりが異変への警戒に押し流されたのは、ふやけた果実が鋼鉄ではない剣の切先で拓かれた直後だった。いつの間にやら自分たち接近したのかは判然としないが、視界の端には薄汚れた衣に包まれた逞しい脚がある。ざっと確認できるだけでも六本。と、いうことは三人かそれ以上の男に囲まれているのに、己に乗った男は呑気に己に腰を打ち付けるばかりで。

 急に、ちらと聞きかじった父と未来の夫の会話が蘇った。

『最近は、東の方の街は物騒で。なんでも“野犬”が攻めてきている、とか』

 青年は己の肩に留まった鳩に手ずから粟を与えながら、危惧していたではないか。

 格式を重んじ外観は豪奢ながら既に基礎まで朽ち果てている豚小屋が崩壊する日はほどなく訪れる、と。

『白豚が飼い犬に噛みつかれているのか。それは愉快だ』

 東の蛮族同士の骨肉相食む戦乱の果てに建てられた若き国ルオーゼは、属領として支配された怨嗟を晴らし屈辱を注ぐために、かつての飼い主の喉笛に噛みつかんとしているのだと。

 凋落著しいティーラに残されているのは、大帝国時代の四分の一にも満たぬ版図。黄金期を過ぎて幾ばくもせぬうちに主要都市を次々に失った帝国の、最後の、最も尊い宝玉たる都を目指し進む軍勢は女に飢えた野蛮人の集まりだ。彼らはきっと、タリーヒのような若く魅惑的な娘を見れば汚らしい歓声を上げて襲い掛かってくるだろう。

「怯えてるんですか?」

 最悪の前途を予感しぶるりと身を震わせた娘は、揶揄いめいた含み笑いによって思い違いを悟った。兵士が野良着同然の衣服を身に着けているはずがない。

「驚かせてすみません。こいつらは俺が呼んだんです」

 そう囁くやいなや、タリーヒを揺さぶっていた青年はぐずぐずに蕩けた果実から己を引き抜き、口元をにやついた壮年の男の後ろに下がった。

「俺一人では貴女を愉しませられるか自信がなかったから、」

 お前にしては殊勝な心掛けじゃない。

 奉仕への褒美は喉の奥で消え、発せられることはなかった。鎌首を擡げた大蛇に内臓を押し上げられ、双の乳房を揉みしだかれ、タリーヒもまた一匹のけものとなったために。

 代わる代わるに貫かれている合間に夜闇は朝日に駆逐されてようやく、娘は喜悦から解放された。太腿を伝い地面に落ちる饗宴の残滓を掻きだし、乱れた髪と服を整えて同胞の環に戻る。

 父はちらと目を動かしただけで、タリーヒが何をしていたのかを追求しようとはしなかった。黄褐色の眼差しは、太い腕の中ですらりと伸びた手足を投げ出し微睡む娘に注がれている。

 妹の寝顔をさも愛おしげに一撫でする男の横顔は、白金の光に縁どられどこか神々しい。しかし隠し切れぬ老いの兆候が明白に浮き出て醜くもあった。父が死に、己が部族を掌握する日は、どんなに長くとも三年もすれば到来するだろう。

 気怠い肢体を引きずり寝具に潜り込んだ娘の予感が成就するまでに、常に放浪を続ける民を取り巻く情勢もまた著しく変転した。

 犬はその鋭い牙でもって豚の喉を裂き、柔らかな下腹を齧り心臓を飲みこんだ。つまりティーラ帝国は滅亡した。

 あの日青年の掌を嘴で突いていた鳩が齎した知らせは、タリーヒを除く部族の面々の喉から歓喜の叫びを迸らせた。

 未だエーメラの末路への恨みを忘却しきれぬらしい父は、感涙に咽びながら記した文をくすんだ薄桃の脚に括りつける。

 灰色の翼をはためかせ蒼穹に吸い込まれていった鳥は、つつがなく飼い主の許に戻ったらしい。

 ――わたくしどもは貴国に恭順いたします。我らの営みが脅かされぬのなら、永遠に。

 父とマーリカが夜を徹して考え抜き、未来の夫たる青年の兄が代表して奏上した文面が功を奏してか、シーラーンは新政権が始まっても以前とさほど変わらぬ扱いを受けた。

 厚遇もされぬが、徒に迫害されもしない平穏な旅。その最中で、最も目覚ましい変化を遂げたのは実のところ流浪の民が生きる世界ではなく、流浪の民の一氏族の長の末の娘だった。

 初潮の訪れとともに貧相だった肢体を蠱惑的な肉で飾りはじめた妹が、憶えのある鳥に餌を食ませている光景を警戒すべきだったのだ。接吻を落とした文を携えた一羽の行く末を見守る妹は、したたかな女の顔をしていたのに、

「なんですって!? お父さま、お父さま! ――わたくしを跡目から外す、だなんてどういうこと!?」

 死の床に横たわる父が、マーリカとあの青年の婚約を沈痛な面持ちで集まった皆に告げるまで、タリーヒは気づけなかった。

 とうとう息を引き取った父の目蓋をそっと降ろし、哀悼の黙祷を捧げる妹の髪を掴み引っ張った指は、逞しい一撃によって薙ぎ払われる。

「そういうことよ、お姉さま」

 義父となる男の最期を看取るために、あらかじめ参じていたが選び守ったのは、己ではなく妹だったのだ。

「お姉さまみたいなあばずれを妻にしたがる男の人なんていないし、お姉さまみたいな性悪女の下に就きたがる人なんて誰もいないということ」

 夫の手を取り皆の前に歩み出る娘は、その名に相応しく女王のように堂々としていた。

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