瘢痕 Ⅱ

 撥弦楽器ウード竪琴リラその他様々な楽器の調べは、個々で味わえば麗しいはずなのに、折り重なるともはや騒音でしかないのは何故だろう。

 娘の蟀谷に青筋を走らせる苛立ちに追い打ちをかけるのは、部族の老婆や老爺たちのさんざめく笑い声。そして賑やかと称すれば聞こえは良いが、実際は騒々しいだけの鼻歌だった。

 かつては己のもののように黒々としていただろう毛髪どころか突き出た腹まで揺らし、楽しげに謳う老婆。その傍らで、彼女の夫である老爺は太鼓ダルブッカを打ち鳴らしていた。恰幅の良い妻とは対照的に、干からびた蚯蚓さながらにやせ衰えた、しかし幸福そうに頬を緩める老人の膝の上には、ふくよかな頬をした幼児が乗せられている。

「山羊みたいね」

 幼児は老人の長い顎髭を掻き乱しては笑い転げている。無邪気な歓声に目を細めるのは、少女を膝の上に乗せた老人だけではなかった。タリーヒから数えて五代前までの父祖を共有する者たちは、氏族で最も新たな生命を溺愛している。遠い古に勃発した戦乱のために去らざるを得なかった遙かなる故地――砂の赤と空の青の、鮮烈にして苛烈な二つの色彩と苛酷な自然に支配される砂漠の言葉で、「女王」を意味するマーリカと名付けるまで。

「おお、おお。可愛い子だ」

 マーリカは――年老いた母が愚かにも命と引き換えにしてまで生み落とした妹は、タリーヒの目にとっては愛らしくはなかった。

 真っ直ぐな髪を有する者が多い部族の中では、友好の証として他族から嫁した母に似た波打つ髪は蔑みの的となるだろう。加えて、父譲りの色が薄い瞳はどうだ。笑えば腹が揺れるまでにでっぷりとした脂肪を全身に蓄える現在の姿からは想像もできない、鷹とまで讃えられた父の若かりし頃の端整な容貌の唯一の欠点――部族の者らしくない琥珀の虹彩は、彼が長老シェイフの地位を得るに当たっての最大の障壁だったと聞く。

 幸いにして自分は父からは癖のない髪質と優れた容貌、母からは黒々と艶めく射干玉の瞳を受け継いでいる。息子を儲けられぬまま妻たちに先立たれた父の後を継ぐ婿を迎える娘として、これ以上はないほど相応しい容姿は、タリーヒの何よりの誇りであり宝であった。

 自分は美しい。誰よりも、部族どころかこの世のどんな者よりも。

 容姿に恵まれぬ妹のこの先を思うと愉快でならない。老人どもが妹を可愛がるのも、大方マーリカを哀れんでのことだろう。

 娘は愉悦に唇の端を吊り上げ、耳を劈かんばかりの喧騒にも拘わらず眠り続ける妹に視線を落とす。幼子の滑らかな肌に接吻していた老婆は、ひっきりなしに揺れ動く幌馬車の隅で佇むタリーヒに気づいてか、皺が刻まれた額に張り付いた二匹の白い毛虫を引き攣らせた。今は馬を操り目的のない旅の行き先に一向を牽引している彼らの息子の縁談が破談となった経緯のためだろうか。


 父母に似て面白みなど皆無に等しく、閨の技量も凡庸な男と寝たのは、気まぐれによるものだった。父が第二夫人との間に設けた娘、マーリカ以上に醜い赤い髪をした同い年の妹は、姉と恋人の裏切りを知ると涙を流してタリーヒに詰め寄った。

「お前のような赤毛猿を本気で愛する男なんかいるわけないでしょう? それをわざわざ行動で教えてあげたんだから、感謝して欲しいぐらいだわ」

 泣きじゃくりながら隠し持っていた短剣を闇雲に振りかざしていた妹の歌声は、三か月前にこの隊列から永遠に消えてしまっている。傷心の故か長老たる父や、部族の古老の言いつけ――白豚・・たちには女だけでは近づくな、という誓いを破ってしまったために。大地と天空の間に生まれた兄弟の一人であると老婆どもが謡う月が空を支配する刻になっても、停留した街の外れに儲けた目印の焚火の許に参じぬ妹。亡き恋人譲りの赤毛の娘を案じた父が遣わした男たちが発見したのは、腐りかけた食べ残しや犬の汚物が積み上がってできた塵の山に放られた妹の亡骸だった。

 色が薄い褐色の肌には、見るも無残な暴行の痕が刻まれていた。か細い太腿にこびり付いた一筋の血の汚らしさははっきりと覚えている。怒り狂う父によって氏族の女ではタリーヒただ独りが汚泥に塗れた亡骸を清め屍衣を着せる役目を命じられたのだから。

「どうして、わたくしが? そのようなことは長の娘の仕事ではなく、下々の仕事でしょう?」

 このあかぎれ一つない指に傷でもついたらどうするのか。拒絶したタリーヒの横顔を父は拳で殴った。

「……長老。なんておいたわしいこと」

「長老は、マーリカさまの次にエーメラさまを気にかけていらっしゃったから、」

 騒ぎを聞きつけてか駆け寄ってきた部族の者たちは、部族を率いる権勢に盾突くことを恐れる意気地なしばかりで、誰も父を制止しない。

 ――痴れ者どもが。わたくしの顔に痕ができたらどうしてくれる。

 叫んで助けを命じたくとも、父の巨体に圧し掛かられる衝撃は喉をも狭めてしまって声もでない。滲む悲嘆ゆえに爛々と輝く明るい黄褐色の双眸は狼のそれのようで、このまま嬲り殺されてしまうのではと本気で畏れたが、このまま犬死するなど育んできた誇りが赦さない。

 エーメラが殺されたのは、エーメラ自身の愚かさに首を絞められたからに他ならない。タリーヒたちシーラーン族を「彷徨う者たち」と呼び蔑む豚たちは、自分たちを盗人と娼婦の集団だとしか見做していない。白豚はシーラーンの男を見つければ寄ってたかって制裁という大義を掲げ暴行を加え、女を見つけたら大儀も目的もない暴行を加える。実際に盗みを働き身を売るシーラーンは父祖が第二の故郷として選んだティーラ帝国ではほんの一握りであるし、困窮すれば彼らティーラ人とて窃盗と売春の道に奔るだろうに。

 古老たちが詩でもってその恐ろしさを語り継ぐ砂嵐シムーンさながらに荒れ狂う父の激怒に解放されたと悟ったのは、不意に訪れた静寂からだった。口内をぬるつかせる紅蓮を吐き捨て、赤錆に穢れた口の端を手の甲で拭う。それでもなお執拗に舌に絡む不快に咳き込む娘の全身に、生ぬるい液体が叩き付けられた。

 艶やかな黒髪が腫れた頬に、首筋に、背に張りつく。毛先から滴るのは薄汚れた雫だった。

 連ねられた銀貨と紅玉髄カーネリアンの珠がぶつかるしゃらしゃらと瀟洒だがいかにも重たげな音は、己に暴挙を働いたのが誰であるかを雄弁に物語っていた。草原と水を追い求めて家畜と共に移動する遊牧民を祖に持つシーラーンの女は、全財産を身に着ける。

「エーメラ姉さまのお清めはわたしがやったわ、おねえさま」

 幼くも傲岸な声音は、同腹の妹のものでしかありえない。十を迎えてもいない幼児を飾るには高価に過ぎる首飾りを揺らす少女は、僅かながらに手桶に残っていた死の穢れと冷笑を姉の顔面に浴びせかけた。

「……お父さまは、おっしゃっていたわ。おねえさまがエーメラ姉さまに少しでも謝意を示すのなら“追放”するのは今回ばかりは容赦するって」

 ――さあ、早く行って。形だけでも姉さまに謝ったらどう? 

 黒地に赤で意匠化された太陽が縫い取られた袖を、色彩ばかりは温かな琥珀から零れ落ちる嘆きで湿らせる妹が、この時ばかりは年相応の子供に見えた。

 幼い妹はいつも小賢しく父や老人どもの気を引き、彼らに気に入られようとする。そんなことをしても、タリーヒが父の実質上の跡目である事実は変わらず、幾つかの細い支流に分かたれたシーラーンという大河が共有する慣例もまた変化しないのに。あるいはマーリカは、純粋にエーメラを悼んでいるのだろうか。そういえば妹たちは仲が良かった。同じ黄色の目をした不器量な猿同士、互いを憐れみ互いの傷を舐め合っていただけだろうが。

 エーメラが犯された上に殺されたのは、あの愚か者に女としての魅力がなかったから。自分ならば、たとえ犯されたとしても巧く誘惑して、奴らの妾にでも納まっていたのに。

 タリーヒは怒りに駆られて渦巻く心情を考えなしに吐き出す愚か者ではない。

「……そうね、マーリカ。わたくしは、あの子に可哀そうなことをしてしまって、」

 激高する妹の目にもしおらしく映るように伏せた面に、固いものが投げつけられた。タリーヒの額を掠め、皮膚を裂いた桶はぼやけた視界の端をからからと転がる。

「可哀そう、なんてどの口が仰るのかしら。あんまりにも白々しくて、エーメラ姉さまが憐れでならないけれど、」

 握り締められた妹の小さな手は、小刻みに震えている。だがその拳がタリーヒに打ち付けられることはなかった。

「お父さまがお決めになったことに、娘のわたしが口を挟むわけにはいかないわ。お父さまが赦せとおっしゃるのなら、わたしはあなたを赦しましょう、タリーヒお姉さま」

 俯く女の手元に投げ捨てられたのは、あらぬ汚れに塗れた襤褸布だった。恐らくはエーメラの身体を洗う際に使われたものだろうが、これで顔や髪の水滴を拭きとれということだろうか。

 ――全く、馬鹿にされている。

 たちまち屈辱と憤怒が喉元までこみ上げたが、胸を灼く吐瀉物めいた感情を吐き出すのは、今ばかりは控えるべきだ。

「……ありがとう」

 感謝を述べてやったにも関わらず、妹は応えもせぬままタリーヒに背を向けて自分たちの故郷であり塒である幌馬車に向かって走り出した。まったくもって可愛げのない子供だ。

「――ねえ、お父さまに伝えてちょうだい! わたくしの最も美しい服を、エーメラに着せてあげて、と」

「……分かったわ」   

 ほんの一瞬だけ足を止めた妹は、振り返りもせずに今度こそ一目散に駆けだす。嫁の貰い手があるのかと勘ぐりたくなるほどに癪にさわる妹も、やはり子供なのだった。


 夜啼鶯ナイチンゲールさえ敵わないだろう、と礼賛されていた歌声が絶えて久しい馬車は、以前よりかは居心地が良くなった。寝静まった馬車の中、女は傍らの少女の耳に毒を垂れる。

「お前の不細工さを目立たなくさせる赤毛のお猿さんがいなくなっちゃったものね。さぞかし残念でしょうねえ」

 緩んだ口元から嘲弄が滑り出るやいなや、妹が覚醒した――と錯覚してしまったのは小さく温かな身体が寝がえりを打ったため。女は僅かながらに跳ねた心臓を宥め、自身も微睡みの世界に落ちた。

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