瘢痕 Ⅰ
「あ、母う……タリーヒさま」
王との謁見を終えた愛妾を出迎えたのは、マーリカの――ダーシアの今にも消え入りそうな問いかけだった。
「何よ? それにしても、お前は相変わらず物覚えが悪いわね」
万が一聞かれた場合に備えて、例え自室にいる際にも自分のことは「タリーヒさま」と呼び女主人として接するようにと言い聞かせていただろうに。
「……あの、兄上はお元気そうでしたか?」
タリーヒが娘の愚かしさに覚える怒りは底無し沼さながらに暗澹としていた。潤んだ瞳と濡れた唇での哀願は、女を好む男にならば妖艶と讃えられもするだろう。けれども女であるタリーヒにとっては、激高の炎を徒に煽る強風に他ならなかった。
これは異母兄に媚びて誘惑することしか能がない愚かな娘なのに、どうして肉体だけは一人前以上に成長したのだろう。紅の力を借りなお一層艶やかな花弁が吐き出したのは、熱せられた鉄か溶岩さながらの激情だった。苛立ちと侮蔑の影に隠れた嫉妬と焦燥が、我ながら腹立たしく、認めがたい。
なぜわたくしがこれを羨まなければならないの。
密やかに自問しても、欲した応えは得られなかった。否、本当はタリーヒは既に答えを知っている。であるが故に、愚かな娘に対して雪さながらに募る想いは決して融け消えず、踏み固められて氷となるのだ。
「ははうえ。一言だけでもいいんです」
手負いの子犬の眼差しで同情を引き出そうとしていた深淵の瞳から、清らかな雫が流れ出た。大きく開いた襟ぐりからは絹の光沢を放つ肌と深い谷間が垣間見えている。上半身にぴったりと張り付き、豊満な曲線を露わにする意匠の胴着にも、それを選んだ娘にも仄暗い衝動が芽生えた。
この部屋には男はいない。娘はもう最愛の兄には会えない。なのになぜ、そのような服を着る。誘惑する相手もいないのに、そんな服を着てなんになる。
「はは、うえ……?」
いつの間にか娘の胸倉を掴んで引き寄せていたのだと気づいたのは、かつての己そのものの造作が間近に迫ったからだった。
三日月型の眉の下の黒い双眸の眦は婀娜っぽく下がり、ぽってりとした唇は蠱惑的なまでに紅い。娘の乳房は身じろぎすれば揺れるまでにたわわでありながら、つんと上を向いている。服を剥いで確かめずとも襟ぐりの隙間から僅かに覗く桜桃からも察せられた。
娘は美しかった。ザーナリアンが産んだエルゼイアルには及ばぬもののくっきりと整った容貌は、女として成熟し花開いた肉体は、十分に人目を惹きつける。ダーシアには、タリーヒが失いかけている――あるいは既に手放してしまった――そして二度と手に入らない、花の盛りの美しさと旬の果実の瑞々しさがあった。
「お前、この期に及んでもまだお兄さまのことを気にしているの?」
反射的にこみ上げた憎悪が命じるままに、自身からはもぎ取られたものを拒絶する。掌に焼き付いたふくらみの柔らかさと若々しい弾力が呪わしくてならず、唇を噛みしめずにはいられなかった。
ろくに受け身も取れずに左半身を強かに床に打ち付けた娘は、それでもなお瞳に宿った燈火を絶やさない。らしくなく灯った幽き光芒を、吹き消したくて仕方なかった。足蹴にし、踏みにじって、完膚なきまでに破壊したかった。
「だ、だって。……私がきちんとヴィードのふりをして、母上に従っていれば、兄上に、って」
母の思惑を察しようともせぬ愚かな娘は、なおも甘く掠れた囁きで懇願する。
これの頭の中身はどうなっているのだろう。叩き割ったら桃色の脳漿ではなくて白く濁った蛆が飛び出るのではないだろうか。
適当に考えた出まかせを、疑りもせずにそのまま信じているなど。外観はかつての自分そのままであるため、余計に気味が悪い。弱々しく懇願することしか知らぬ愚かさと意気地のなさが。
これ以上娘の前にいると、本当に息の根を止めてしまいかねない。
「……ははうえ」
踵を返し大股で歩んでもなお己を追いかける囁きから逃れるために、己に与えられた部屋に駆け込む。寝台に手足を投げ出すとようやく満足に息ができるようになった。
グィドバールとの謁見の間中、屈辱の姿勢を強いられた四肢は固く強張っている。
なぜ、わたくしがあの男との顔合わせでこうまでしなきゃならなかったの。
とめどなく生まれ落ち溢れ出る憤懣は、己だけで慰めなければならない。金糸や銀糸の花こそ咲いてはいないが豪奢な衣服の前と裳裾を己が手で乱す。柔らかではあるが張りを失い下を向いた乳房の頂をそっと摘まむと、下腹に痺れが奔った。ずくずくと疼く口は潮の香りがする唾液を垂らし、己を満たす者の到来を待ち焦がれていた。細くしなやかな二本を、貪婪な入り口に宛がう。
――わたくしが欲しいのは「これ」じゃない。
快楽に融かされた脳裏で渦巻く違和感からは、どんなに逃れようとしても逃れられない。グィドバールのみならず、以前のよりさらに逞しい男たちですら埋められなかった空虚をタリーヒに穿ったのは、彼らでも己でもないから。
「誰か」
衣服を整え、扉の向こうに控えているであろう女官を呼びつける。
「……お呼びでございましょうか」
地味な造作を隠すつもりもない恐れで歪めながらも入室してきたのは、まだ若い娘だった。ダーシアよりも二歳ほど年下だろう、出仕したばかりと思しき少女は、顔立ちや身体つきは凡庸そのもの。しかし白く滑らかな――夜闇に浮かぶ茉莉花のような手をしていた。
「ええ」
しどけなく寝台に横たわったまま、怯える娘の小さな顎に指を絡める。己が強いられた際は不服極まりなかった服従の証も、他者がするものであればこの上なく愉快だった。
あらかじめ命じて焚き染めらせていた麝香に紛れた甘やかな匂いは、この娘のものだ。本人は気付いていないだろうが、その匂いを噎せ返るまでに漂わせているダーシアのものには及ばないが、確かな誘いの香りが憎らしい。
「……っ」
ふっくらとした頬に爪を立てると、円らな瞳は零れ落ちんばかりに瞠られた。鋭利な桜貝の先端が白桃の表皮を破れば、滲むのは透明な果汁ではなく紅い粘りである。爪の先に僅かに付着した血液は鮮やかで、花の手の肌理細やかな白に良く映えた。
「柔らかな、綺麗な手ね」
「……お、恐れ、いります」
仄かな薔薇色の指先を己の褐色のそれで搦め取る。そしてそのまま温かな掌を、掌の先の肉体を己が沈む床に引きずり込む。
「あ、も、申し訳――」
タリーヒにのしかかる格好で倒れ込んだ娘は、気難しい愛妾に働いた
娘の波打つ髪は、ルオーゼ人にしては希少なまでに濃い――暗がりの下では漆黒と見紛う暗褐色だった。王国西部、特に旧ティーラ帝国との国境付近に住まうルオーゼ人は時折、ティーラ人そのものの色彩を纏って生まれる。この娘も、恐らく西部の出身なのだろう。
「お前、恋人はいるの?」
くるりと巻いた毛先に指を絡める。陸に打ち上げられた魚同然に震え、ぱくぱくと口を開く娘は、それでもなお首を横に振ってタリーヒに応えた。細い項からは僅かに乳の香りが漂っている。成熟しきらぬ肢体は少女というよりかは少年のように肉が薄い。
涙を含んだ緑の虹彩で蜜蝋の火影が揺らめくと、宝石に似た煌めきが放たれる。女官のお仕着せの前を乱し、青い果実を曝け出すと、噛みしめられていた口元から苦悶と恐怖の喘ぎが漏れた。
「お、おやめください……このような、神に背く、恐ろしい……」
膨らみきれぬ硬さの合間に潜むまろみを引き出さんと揉みしだくと、陸の魚は生きながら網に乗せられ火で炙られる魚になった。恐慌もあからさまに撥ねる肢体はじっとりと汗ばみ、浮き出た鎖骨や肋の窪みを舌でなぞると仄かな塩の味がして。
大きく開かせた脚の合間で佇むのはほころぶ寸前の蕾であるが、用を果たしはするだろう。久方ぶりに賞味した潮の味わいに目を細めると、娘の嗚咽は耐えがたいものになった。
「煩いわね」
ぎゃあぎゃあと耳障りに甲高い声を迸らせる桃色の一片に己が唇を重ねると、強張っていた若い肉体からついに力が抜けた。ついに死した魚となった少女の手を掴み、己が乳房に押し付ける。しなやかな指先が褐色の丘の頂を掠めると、下腹部の奥に熾火が灯った。小さな小さな炎は一呼吸ごとに激しさを増し、ついに劫火となって身体中の血を沸騰させる。ふつり、ふつりと温まる血潮が集まる場所を娘のそれに擦りつけると、なよやかな背に痺れが奔った。毒物など食してはいないはずなのに、甘い慄きはいつまでも治まらない。
立ち込める扇情の香りは濃い靄となった脳裏を覆い、善悪と正常の、そして過去と現在の境を曖昧にする。命じて噎せ返るまでに芳しく焚き染めさせていたはずの香はいつの間にか失せてしまっているが、麝香のように芳しい幻の声が享楽に耽る女を包み込んだ。
「だったら、こんなのがお好みなのかしら?」
出産と時の流れによって衰え弛み始めた肉体ではなく、往時のタリーヒを嘲弄するのは、懐かしく――そして誰よりも憎らしい妹マーリカだった。
――おねえさま。おねえさま。
むっちりと肉が付いた二本の腿の合間に顔を埋め、仮初の主人の悦びへの奉仕を余儀なくされている娘の肌は、いつしか白から己と同じ褐色に変じている。紛れもない漆黒に染まった豊かな髪は、より大きく波打っていて。ゆったりと上げられた、タリーヒと似通った面に張り付いた双眸もまた、琥珀色に変じていて。
マーリカ。久方ぶりに紡いだ末の妹の名と彼女の吐息は、どんな毒よりも甘やかにタリーヒを蝕んだ。
「おねえさまは、ここをこうされるのがお好きだものね」
己の片方の乳房の先端を抓り、転がしているのが己の指であるか妹のものであるのかも判然としない。だがもう片方を包む軟でぬらついたぬくもりは他者の口腔でしかありえず、歓喜と恥辱の咆哮を抑えることはできなかった。
数多の男に貫かれても忘れ得なかった恍惚が、幾度となく忘却の淵に放り投げても浮かびあがってきた至福が、決して注げぬ雪辱が蘇る。皮膚と皮膚の境が溶け合い、ついに一つになってしまうような法悦は、グィドバールやそれ以前の男達を相手にしていても決して得られなかったうねりだった。子を育む臓器から広がった漣は、血の巡りによって善心に行き着く。真白に焼き尽くされた脳は然るべき指令を下す責務をしばし放棄し、長い手足は乱れた敷布に投げ出されるが、飢えた身体はこれだけでは満たされなかった。
ぐずぐずに蕩けた花は蜜を滴らせ、一切の抵抗なく侵入者を受け入れる。二度、三度と到来した波を受け止めきれず、痙攣した肢体は様々な体液に塗れた。
潮の香りが入り混じった麝香の残滓が封を解く。自ら鍵を掛け、他者の目の届かぬ暗澹に放り込み、けれども稀に開錠しては手に乗せて慈しんでいた愉悦と離れたくなかった。
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