嗤笑 Ⅳ
闇よりも昏い、地獄で燃え盛る炎を宿した漆黒が、怯え濡れた黒曜石に近づく。圧し掛かる母は柔らかでしなやかであるが、重かった。兄が教えてくれたティーラ帝国最盛期の皇帝の誕生祝いの宴の催しとして、遠い遠い――彷徨う者たちの故地より闘技場に運ばれた豹に貪られた罪人の恐れを、ダーシアは理解させられた。
赤い口が開き、白い歯が零れると身が竦む。形作られているのが笑顔であるからこそ、背筋が戦慄く。肌が粟立つ。萎えた手足は砂が詰まった袋のようで、指一本すらも己の意志を拒絶する。
冷たい手によって裾を陰部が露わになるまでたくし上げられ、淡い翳りを凍てついた月光の下に曝け出されているのに。
「ああ、まだ膜はあるのね」
女は吐き捨てた。ほころびかけた蕾が、内部に虚ろに蟻と小虫と蛆を潜ませた無花果であるかのように。
タリーヒは、こんなものを目にしたくはなかったのだと、全身で訴える。突然の暴挙に怯え震える娘を、拒絶する。
「……こっちはまだ使っていないのなら、」
慈愛ではなく、ただおぞましい物体を己から遠ざけるためだけに。路傍の犬の亡骸に襤褸切れをかける通行人の仕草で、乱れた裾は直された。
「お前はそのだらしなく開いた口でお兄さまを咥えたの? お兄さまのお味はどうだった?」
嫣然とした笑みは艶やかな花弁の影に鋭い棘を隠す大輪の薔薇だった。薔薇と母の違いは、タリーヒはその鋭利な武器を隠そうとしていないことだけ。
「え? ……くわ、え……?」
惑う少女にとっては、母の詰りはもはや異国の言語だった。なぜこれほどまでに嘲られているのか、全く理解できない。確かにダーシアは剣技によって傷つき皮が捲れた兄の指を、喉奥まで使って労わり癒した経験は何度もある。しかしそれのどこに問題があるのだろう。
「……あにうえを“くわえる”のって悪いことなんですか?」
たったの一息でかき消される、燃え尽きる寸前の燭台に灯った炎。あるいは厚い雲間から瞬く小さな星を胸に抱き、少女は己を燃え上がらせた。一切の光を飲みこむ暗澹に立ち向かうために。
「とってもたのしいのに。きもちいいこと、たくさんしてもらえるのに」
気弱で意気地のない娘に反論されるとは考えてすらいなかったのだろう。互いの息がかかる程近くで眺める母の面は、醜く引き攣っている。
本来は妖艶で、驕慢を感じさせるまでに豪奢な美を歪める感情の種類までは判然としなかった。月の光は冴え冴えと対峙する母と娘を照らしているが、恍惚に頬を赤らめる少女は目前の女ではなく焦がれる少年の幻想を見つめていたから。
異母兄は――ダーシアにとっての神は、教えてくれていた。兄と妹が今よりももっと幼かった頃に。紅い滴を滲ませる褐色の膝を舐り、
「わたしは兄上のことが大好きです。兄上も、わたしのことが、好きだって。――だったら、それでいいんでしょう?」
不快であろう鉄錆の臭気を、ダーシアの舌に絡めながら。これは己一人では抱えきれない熱を、相手と分かち合い共に支えるための尊い行為なのだと。
実のところダーシアを最も喜ばせるのは、項や耳に吹き付ける快い吐息でも、青い果実や木苺に与えられる刺激でもない。
――ダーシア。僕の可愛い妹。
その一言だけで、微笑みだけで、魂までもが甘く痺れる。牛酪さながらにぐずぐずに蕩けて、とても立っていられなくなる。母や女官の眼差しによって暗く冷たく凝らされていた身体の芯は、太陽の光を浴びて初めて温められるのだ。
眩い黄金の光さえあれば、ダーシアの世界は完成している。その他は何もいらない。
「……わたし、ちゃんと母上が言う通りに“いい子”にしてきました。これからも、そうします。だから、」
お願いだからわたしに関わらないでください。
解放を願って連ねた願望は哄笑によって遮られる。
「――馬鹿もここまでくると病気ね。熱病なんかより、ずっと手におえないわ」
形良い頤を天井に向け、長い髪を滝のように振り乱して嗤う女の有様は常軌を逸していた。
「……はは、うえ?」
少女を怖気づかせる狂態を唯一神の徒は悪魔憑きと呼び畏れるが、不毛の沙漠そのものの褐色の肌と、闇を映した髪と瞳の民が住まう地では、はてさてどのような蔑称が与えられていたのだろう。
『あなたはこの愚か者みたいに死にたくはないでしょう? だったら、ここでいい子に眠っていなさい』
母には愚昧だと言い切られた彼を、ダーシアは好ましく思っていた。彼の恋は叶わず、愛しの美女ともついに引き離され失意の内に絶命してしまったが、彼の想いは本物だったから。
秘匿せざるを得なかった恋慕の発露として呈される狂態は憐憫と讃嘆の溜息を誘う。しかし吐息が乱れるまでに嗤い続ける女はただただ醜かった。
「誰でも、犬猫だって、わざわざ教えなくても理解するのに」
豊満な肢体が折れ曲がる。薔薇の花弁が三日月になる。けたたましい冷笑はいつまでも止まない。
「……念のために確認しておくけれど、お前まさかヴィードにも“いいこと”してないわよね?」
「――そ、そんなことありえません! そんな、きもちわるいこと、」
するなんてありえない。そう動かしかけた舌の根はたちまち凍り付いた。
ダーシアはエルゼイアルを兄として愛している。エルゼイアルはダーシアの母親違いの兄で、ヴィードは同じ腹から同じ日に生まれた弟だ。異母兄よりも己に近しい、完全なきょうだい。しかしダーシアの心臓は、本来ならば兄よりも愛すべき存在であるはずの弟と向かい合っていても微動だにしない。エルゼイアルと共にいる時は、壊れて破けてしまうのではないかと危惧してしまうほどに忙しなく動くのに。
双子の弟との接吻など考えるのもおぞましい。ましてや身体を重ねるなど。それをするよりかは、腐乱し膨張した肌から濁った体液を沁みださせる亡骸と抱き合った方がまだましだ。
――わたしは、おかしい。
「やっと分かったの? まあ、お前の働きが悪い頭じゃあ無理のないことだけれど」
自らの罪と禁忌を自覚して項垂れる少女に叩き付けられる侮蔑は棘を生やしたいばらの鞭だった。
「たとえ腹違いでも、きょうだいは触れ合ってはいけないなんて、誰でも知っているのよ。お前とお前のお兄さま以外は、誰でも」
振り下ろされる嘲謔は研ぎ澄まされた刃となって脆い心を切り刻み、苦痛を迸らせる。
「お前はともかく、王子さまもそんな簡単なことが分からなかったなんて。救いようがない馬鹿なのね」
「……ちがい、ます。兄上は……」
しゃくりあげながらも切れ切れに紡いだ反駁は、冷然と佇む女には届かなかった。
激しくなるばかりの下腹部の痛み。耳元で割れ鐘が打ち鳴らされているのかと叫び出したくなる眩暈。堪えがたい嘔吐感。それらの苦痛にも勝る痛罵は鞭の撓りすら凌駕する。
自らを取り巻く全てに苛まれた少女が暗黒に堕ちる前に聞いたのは、脆弱な魂に突きたてられたどんな棘よりも鋭い、偽らざる真意だった。
「ヴィードのおまけとはいえ、どうしてこんなのを産んでしまったのかしら。腹を痛めただけ無駄だったわ」
母の体温が、足音が遠ざかる。待ち焦がれた孤独は優しく薄い目蓋を下ろし、少女を眠りの世界に誘った。下肢の付け根から流れた紅の粘りが真白の敷布を穢す前に。
◆
ほんの些細な悪戯心と憧憬に駆られ、父のみに赦されるはずの場所に座した瞬間を亡き兄に見咎められた幼き日は既に数十の歳月に隔てられている。けれども執務を担う王を支えるはずの腰かけには、父が崩御してもなおグィドバールが拒まれているかのように馴染めなかった。
英雄の槍に貫かれた悪しき竜が今にも崩れ落ちんとする情景は、樫に彫り込まれていてもなおどこか生々しい。精緻な浮彫が施された象牙の板を張った椅子に坐していると、胸が騒いで仕方なかった。
――父上にばれたら、お前も叔父上みたいに殺されてしまうかもしれないぞ?
どこかから兄の苦笑が響いてきそうで。グィドバールが最後に耳にした兄の声は、哀れにひび割れ掠れた、獣の唸りめいた絶叫であったが。
固く閉ざした目蓋の裏で嗤うのは、この世で最も残忍に屠られた兄でも、それを命じた父でもなかった。
――父上自ら私の許に足を運ばれるとは。
古い神話の技芸の神の手による至高の彫像。唯一神がこの世に賜った奇跡と讃えられる息子の貌は嘲りに歪められてもなお、むしろそれゆえに見る者の息を奪うまでに美しかった。
仄かに血の色を透かせた薄い唇も、高く狂いなく通った鼻梁も、涼しげに切れ上がった双眸も。グィドバールが息子に叩き付けるつもりで用意してきた叱責を、忘却の淵まで押し流すほどに、ザーナリアンに似ていた。しかし、エルゼイアルは幼さゆえに男女の区別が曖昧な時期から脱却しつつある。伸びやかな若木の四肢は筋肉で引き締まって、顔立ちにも男ならではの精悍さが現れていた。髪を伸ばし女の衣服を纏わせれば母君に勝るとも劣らぬ美姫と謳われるでしょう、と女官たちが影ながら賛美していた少年はもうじきどこにもいなくなるのだ。
初めて直視した息子の成長は、グィドバールの呼吸を僅かながらに容易にした。鈍重な疲弊に弛まされた目蓋を持ち上げる。薄青の虹彩に突き刺さった、鏡さながらに磨かれた大理石に恨めしさを覚えなかったのは、ザーナリアンと臥所を共にした晩から無かったことだった。彼女の染み一つない肌の硬質な白さは大理石そのものだ。
頭は変わらずに大杯を干してもいないのに割れんばかりに軋んでいる。けれども、蟀谷に脂汗を滴らせる苦痛の根源からは少女の澄んだ悲鳴は轟いていなかった。黄金の髪に隠れた耳が捉えるのは、控えめな足音だけで。
「陛下」
足取り同様に慎ましやかな声が入室の許可を求める。
「入れ」
簡明な、それでいて礼儀を失さぬ応えを返した男の容貌は、我が子の足元にも及ばなかった。背の半ばまで伸ばし、一つに括った毛髪はごく一般的な明るい茶色。息子の教育係の監督者として任命したこの中年の男が凡庸なのは、髪の色だけではない。穏やかな人となりが滲み出た顔立ちは好ましくはあるが、ただそれだけでもあった。中肉中背の体つきもまた、取り立てて賞賛すべき美点からも指さして嘲弄すべき欠点からも程遠い。
隙なく洗練された所作と身なりを除けば、たちまち市井に埋没してしまいそうな容姿を前にすると、グィドバールの喉は幻の少年の腕から解放される。
「陛下におかれましてはご機嫌麗しゅう。……して、私をお召しになるとは。いったい、何用で御座いますか?」
息子の教育係が微笑むと同時に彼の目の端に寄った細かな皺に、グィドバールは幾度となく励まされていた。エルゼイアルにこの野心も欲望も備えぬ男を付けた己の決定に間違いはなかったのだと確信できるから。
だが、グィドバールを安らがせる安穏は、息子と娘の過ちによって崩されようとしている。
「お前を召し上げて訊ねることなどただ一つに決まっているだろう。――あれの、エルゼイアルの教育はつつがなく進んでいるか?」
「ええ。教師たちもいずれも“覚えも理解も早い”と殿下を称賛していらっしゃいます」
「そうか。しかし……」
――あれは妹と通じておるぞ。
目の当たりにした真実は舌に乗せるのも厭わしく、家臣に届いたのかは定かではない。真に発したのかさえ。
乾いた口内は一杯に砂を詰めたかのごとくざらつき、呼吸すらままらなくなる。兄の死のために、廷臣たちの面前で王太子に任命された折と全く同じ緊張が、王の背を震慄させた。禁忌の毒に焼かれた喉はひりつくばかりで、グィドバールの一部であるのに己の意に従わない。
「……お前たちは、あれの何を見ていたのだ?」
絞り出したのは、王の威厳には程遠い、誹りと称するには及ばぬ独白だった。父に聞きつけられれば抜き身の剣よりも鋭利な眼差しで糾弾されることだろう。
「……申し訳ございません」
叱責を受け力なく頭を垂れる男の頸を落としたところで、過去は、ましてや現在すらも変えられない。だが、未来ならば。
「――良い。頭を上げよ。あれはそなたらではなく、父たる私の責任なのだから。だが、」
生前の父を真似て下した命に、蒼ざめていた男の頬は血色を取り戻す。
「……陛下のご期待を裏切った非才なる臣に、このような大任をくださるとは」
王は口内に滲む酸味を嚥下し、跪いた家臣の提言に耳を傾けた。
エルゼイアルが成人し国議に席を置く身になれば、どんなに疎んじていても必ずあの顔を突き付けられる。まして息子には虚弱な己に代わり、国軍を率いてもらわねばならないのだ。成長したエルゼイアルに国軍を任せるのは良い。だが謀反を起こされでもしたら、敗北するのは己だろう。そして待っているのは……。
堪えがたい嘔吐感をせり上げさせる終焉から逃れるためならば、息子と娘の畜生にも劣る関係も目こぼしできた。
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