呪詛 Ⅰ

 遙か高みから射す白金の光が射干玉ぬばたまの黒を艶めかせる。少女自ら香油を塗り込み梳って絹と紛うばかりに滑らかに保つ毛髪は、夜の河のように手足に絡んでいた。

 深い琥珀色の四肢の末端には、それぞれ五つの薔薇の花弁が張り付いている。指先に咲く淡紅のそれよりも色濃い、ふっくらと肉厚な蕾は、昨夜の恐慌の痕跡を留めていた。叩かれたために切れた口の端が緩み、泣き腫らしたために赤らんだ眦が開かれる。

 片方は蒼ざめ、もう片方は僅かながらも痛々しく腫れあがった頬に憂愁の翳りを落とす睫毛に護られた双眸は、夜の暗黒を映した泉だった。留めようとしてもとめどなく水滴が零れ落ちる。

 ――お腹が、いたい。

 三日月の弧を描く眉が顰められる。目覚めてすぐに少女が感じ取ったのは、朝日の眩さでも空腹でもなく下腹部の変調だった。鈍重でありながら苛烈な疼きは一呼吸ごとに激しさを増す。耐えがたい鈍痛に襲われた肢体を丸めると、生温かく粘った液体が太腿を濡らした。

 粗相ではない。少女が羞恥に顔を赤らめるではなく蒼ざめさせたのは、噎せ返る鉄錆の臭気のため。悪質な疼きを堪え身を起こし、寝衣の裾を持ち上げる。

 惑い濡れた双眸に飛び込んできたのは、どろり、ぽたりと滴り落ちるのは葡萄酒の雫か紅薔薇の花弁さながらの紅蓮。そして染み一つなく清潔だったはずの敷布を穢す、黒ずんだ赤の斑点だった。

「あ、あ……」

 声にならない、ほとんど吐息同然の悲鳴が異臭が混じる空気を揺らす。 

 昨晩母の冷徹な眼差しと冷ややかな月光に晒された亀裂からの出血は、ダーシアの乏しい語彙では到底表せぬ恐怖を生み出した。禁忌を自覚しひび割れた心の代わりに、貶められたそこが嘆いているかのような痛みは終わらない。

 甘酸っぱく饐えた臭気は酒精めいていて少女を酔わせる。増幅する蟀谷の疼痛は胃の腑を刺激した。喉元までせり上がってきた酸い熱の塊をどうにか嚥下すると、嘔吐への希求はついに抑えきれぬものとなってしまって。

 これならば、素直に吐いてしまえば良かった。数瞬前の自身の行いを悔やんでも渦巻く不快感は治まらない。鳩尾で蟠るむかつきを柔肌を凝らせ引き裂く木枯らしとすれば、先程の悪心など微風だった。疎ましいはずのえずきに愛おしさを覚えさせるまえの苦悶に苛まれた肢体を、もう一度寝台に横たえる。

「朝の身支度のお手伝いを……」

 耳慣れた女官のどころか自身の声ですら、死肉に集る烏の囀りに聞こえた。

「――い、いりません!」

「姫様?」

「……今日はなんだか気分が悪いから、いいの。母上にも、そう伝えて、」

 煩悶を招く音色へのむかつきを抑え紡いだ応えは、どうにか扉の向こうの女に伝わったようだった。

「――承知いたしました」

 なぜ、貴種に連なる自分が王の血を引くとはいえ、賤民の娘などに服従しなければならないのか。

 女官は厚い木の板で隔てられていても伝わる鬱屈を滲ませた応えを残して去っていく。微かに届く彼女の足音は優雅なまでに軽やかで、母のものとはまるで異なっていた。

 淑やかな足取りが遠ざかり、反響すらも消え去ってしまえば、澱んだ室内は静寂に返る。待ち焦がれたはずの孤独は、しかし少女を安らがせはしない。

 この異変は、一体どうして起こったのだろう。

 女官が運ぶ盥に張られた清冽な水で顔を洗い心身を引き締めていれば、感じることなどなかっただろう疑問が奥底から這い上がる。

 それは罪を犯したからだ。神に背く想いを兄に抱いたから、罰が下ったのだ。

 何かが浮かぶたびに引き裂かれる思考は、何故だか少女が恐ろしい答えを導きだした時ばかりは妨げられなかった。 

 ――神はお前を赦しはしない。

 震える少女の耳元をくすぐるのは、母の麝香漂う甘い声。神の糾弾も眼差しから隠れるために夜具を被ると、陽光に駆逐されたはずの暗闇が蘇った。

 幻の唇は闇のさなかにあってもけざやかに紅い。朧ながらも自ら発光する月の――残忍な三日月のように。獲物の喉に鋭い牙を食い込ませた女豹の、鮮血滴る口元のように。

 残酷なる獣の、無慈悲な牙が脆い魂に食い込む。生きながら貪られる激痛はやはり言語に尽くしがたい。どころか、ただ一つを除いては言葉なるものをダーシアに忘れさせた。

「う、」

 途切れ途切れの喘ぎを漏らすだけの哀れなる手負いの小動物となった少女にできるのは、ただひび割れた叫びを吐き出すことだけ。

「あにうえ」

 滲む汗と涙でべたついた頬では熾火が燃えているのに、四肢の末端は木の葉や迷い込んだ動物の死骸が蕩けて濁った沼に沈んでいる。伝説上の祖が斃した竜が吐く瘴気によって汚され、白い腹を浮かせた魚の死骸と、毒に殺された魚を啄んだ鳥の躯とそれらに群がる蝿に埋め尽くされるばかりとなった泉はもうないのに。英雄とその妻となった生贄の姫君の祈りに応えた女神の恩寵により、水晶さながらに澄み切った青を取り戻したはずなのに。兄が、そんなものは今はありはしないのだと震えるダーシアに教えてくれたのに。

 腐臭漂う生温かな口を開けてダーシアを飲みこまんとする泥濘から逃れたいのに、手足はもうぴくりとも動かない。そしてぬるついた水はとうとう淡く開いた唇の合間から侵食し……。

 たった一度でもいい。神さまの罰を受けて死ぬ前に、もう一度兄上に会いたい。

 悪夢に沈みゆく少女の意識を掬ったのは、偽りの闇の中には射さぬはずの金色の幻想だった。幽き光芒に縋ると、痛みの波は僅かながらに引いてゆく。

 脆く崩れやすい淵に引き上げられ、冷たく凝った絶望から逃れた少女は、荒い息を吐きながら湿った褥から這い出た。こんなものを被っているから悪夢などを見てしまうのだ。

 汗と涙が絡む睫毛に縁どられた黒曜石で高みを仰ぐ。輝かしい日輪は既に採光窓に区切られた蒼穹には無かった。

 もうすぐ、エルゼイアルとの約束の刻が訪れる。ならばダーシアがすべきことはただ一つだ。

 鉛の重石が付けられた枷を嵌められたのかと錯覚してしまうほどで、萎えた足を寝台から降ろすのも一苦労だった。脚の間は一歩、二歩と歩むごとに疼くが、待ち受ける喜びが疲弊した肢体に羽を生やす。

 禁忌と知らされてなお、ダーシアはエルゼイアルを愛している。異母兄がいない、彼と触れ合うことのできない世界など、ダーシアにとっては地獄でしかない。

 砂が播かれた視界に移る庭園で唯一鮮明なのは、

「ダーシア?」

 薔薇の下で佇む少年が纏う黄金と緑だけだった。ざらついた世界にあって唯一美しいのは異母兄だけ。大帝国の栄華の名残を宿す眩いばかりに端整な面立ちが、砂塵でけぶった世界を輝かせる。母譲りの絶世の美貌を男性的な魅力で磨き上げ始めた少年の腕の中に飛び込むと、安堵の雫が溢れた。

「あにうえ! あにうえ、あにうえ……」

 すんと鼻を啜り、剣技の後らしく色濃く放たれる大好きな匂いを胸いっぱいに吸い込むと、己の下腹部からの異臭はしばし薄らぐ。引き締まった胸に額を擦りつけていると、強張っていた身体は牛酪になった。陽光を浴びればたちまち融かされる、柔らかな脂肪の塊に。

「あにうえ」

 更なるぬくもりを求めて降ろした目蓋は、焦燥を秘めた問いかけにこじ開けられる。

「いくら何でもそんな恰好で出歩くのは不作法だ。いくらこの庭が普段は人払いをしているとはいえ、僕以外に見られたらどうするつもりだったんだ?」

 顰められた眉間に刻まれているのは危惧と同量の憂慮だった。

 表着ブリオーも羽織らぬ、下着姿同然で少女が一人彷徨っていては、たとえ宮中とはいえよからぬ目に遭わぬとは断言できない。生い茂る若草を掠めるまでに長い裾に付着した赤褐色を見咎めた少年は、裂けんばかりに目を瞠った。

「お前、まさか……」

 激高を露わにしていても涼しい声音に、身体の芯すらも、魂すらも融かされる。

「は、い。……朝、起きたら、血、が、」

 細かな襞が寄った裳裾を引き上げ、むっちりと健康的に肥えた腿の付け根までを曝け出す。艶めかしく輝く肌理細やかな肌に魅入られたかのように硬直する少年の目前で、新たな血潮は流された。だらだらと垂れ、庭園に敷き詰められた緑に吸い込まれた滴は研磨された紅玉にも似ていた。翼を広げてもがく鳩の脈打つ心臓から絞り出した一滴を閉じ込めた、噎せ返らんばかりに妖艶な貴石に。

「教えてください、兄上。……わたし、もしかして死んじゃうんですか?」

 唯一神に逆らったから罰を受けたのか、とは訊ねられなかった。兄に要らぬ憂慮を味わわせたくなかったし、ダーシア自身この想いを打ち捨てたくなかったから。

 自分たちは愛し合っているのに、どうして同じ血が流れるというだけで育んだ恋慕を精神ごと蔑まれ、踏みにじられなければならないのか。

 牛、人間、羊の三つの頭と毒蛇の尾を持つ、鵞鳥の脚ではなく地獄の竜に跨って闊歩する色欲の悪魔さながらに、その思慕は醜悪である。 

 けれども異形の愛を少女に捧げられ、共に分かち合う少年の口の端は安堵にほころんでいた。

「――お前も“女”になったんだな」    

「え?」 

 わたしは生まれた時からずっと女だったはずですけど……。

 理解しかねる囁きに寄せられた眉は魂までをも貫き蝕む微笑に解される。

「お前には難解な言い回しだったな。言い直す。――ダーシアは大人になったんだ。子供を産める体に」

 愛おしげに目を細めて自分を見つめる異母兄から齎されたのは福音だった。

 股からの出血は、少女の身体が未来に繋がる新たな果実を育む準備を始めた兆しである。つまり唯一神からの罰ではないのだと。

「え? ……じゃあ、わたし、兄上の赤ちゃん、産める、ように?」

 下腹部の奥からの執拗な異変も、長年の夢が現実に近づいたことを知らせる、祝福すべき印と判ずれば愛おしくなる。

「そうだ。だが、」

「うれしい!」 

 少女は萎れ色褪せた蕾から咲き誇る大輪の薔薇となった頬を緩ませた。

「わたし、いっぱい欲しいです。兄上に似た綺麗で賢い赤ちゃんを、たくさん!」 

 誰よりも愛おしい腹違いの兄との間の子が欲しい。微笑ましいが醜怪極まりない願いは、昨日からの暗澹を少女の心の隅々から追い払った。兄を想うが故に世界中の人間から非難されても、彼が自分を愛してくれればいい。

「そうすれば、兄上も……嬉しい、ですか?」

「……もちろんだ。だけどそれは僕とお前だけの秘密にしろ」

 少年は片手を妹の上気した頬に添え、もう片方の指で淡く開いた唇の曲線を確かめる。

「あ。……分かりました」

「一つ付け加えておくが、初潮が来たからといってすぐに子供を産めはしない。身体が完全に大人になるまで、三年は要する」

「……今すぐは無理なんですね」

 経血特有の甘く饐えた臭いは庭園の樹木の薫りと混ざり合い、血の粘りを連想させる香気に変質して少女と少年に付きまとう。  

「それと、男の僕には処置の仕方は見当もつかないから」

「は、い」

 疼く下腹部まで降りた白い手が、脚の付け根をゆるゆるとなぞる。なよやかな背はぞくりと粟立ち、吐息は指が動かされるたびに千々に乱れた。

 いつか、兄の子を宿した腹部をこうしてもらいたい。

「ねえ、あにうえ」

 強請って結んだ約束を了解した少年の、細められた翠緑玉の目は奇妙に痛ましげだった。

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