回帰 Ⅰ

 母の胎内を満たす始原の潮――羊水にも似た闇は優しく、快い。心身を千々に引き裂かれる苦痛も、魂が凍る憎悪もない世界は満ち足りてはいるが、そこにダーシアが求める者のぬくもりはなく、どこか肌寒かった。とめどなく流れ落ちる血と、言語を忘却させる激痛と引きかえに産んだ愛しい我が子も。子の父親であり、己の卑小な世界を統べる太陽たる異母兄も。

 生命を生み落とすという苦難に押しつぶされ、暗澹に呑まれる最中、暴風に弄ばれる一葉同然となった意識は確かに弾ける産声を捕らえたのに。指一本にすら己の意志を伝えきれぬまでに消耗したはずの肉体の、羽のような軽さが不意に恐ろしくなった。

 あまりの苦悶に食物など摂取できるはずもなく、産婆に流し込まれる水の殆ども吐き出しながら挑んだ出産にどれ程の時を要したのかは分からない。ただ、生まれ落ちた我が子を掻き抱いて滑らかな頬に接吻するという大事を果たすには、己の四肢は全ての気力を搾り尽くしきってしまっていたはず。

 ダーシアは産婆の枯れ枝めいた腕に抱かれ、濃霧に覆われ往く視界から消えていった我が子の性別すらも教えられていない。その子を返して、わたしに抱かせてと叫びたくとも、長きに渡り酷使続けた喉は掠れひび割れた、壊れた笛めいた憐れな音を漏らすのみで。

 母である自分の傍らにいないのであれば、子は父である兄の許に居るのだろうか。こみ上げる不安によって目蓋に重くのしかかる疲弊に抗うのは決して容易ではなく、むしろ英雄が剣を片手に悪しき竜を挑むにも似た難行であったが、子への愛が可能にさせる。

 技芸の神の手による彫像の美貌に、彼らしからぬ動揺と焦燥のみならず、恐慌の徴すら滲ませながら、寝台に横たわる己を掻き抱いた兄は、赤子を連れていなかった。

「あか、ちゃん……は?」

 あの子はどこにいるのか。魂の奥底からせり上がってきた問いかけが、実際に紡がれたのかは定かではない。なぜなら、兄の応えを待たずして鮮血の霧は徐々にその色合いを深め、ついに月も星もない夜そのものとなったからで――

 月の障りなど比べ物にならぬ苦患を味わわされた身体と魂が分離したのでなければ、この安楽は理解しがたかった。守り、育むべき赤子の許に戻りたくとも、帰路どころか前と後ろすらも判然としないのでは。

 右と左の区別さえ蕩けた闇は戦慄を呼び起こす。

「……どこ?」

 私の赤ちゃん。私の声が聞こえているのなら返事をして。声を聞かせて。

 使い物にならぬはずの喉を震わせ、我が子を探し求めても、渇望する応えはついぞなく。

 子が叫びに応えてくれぬのが、母の胎から這い出るという大事を果たした我が身を眠りによって慈しんでいるためならばよい。しかし、この泥じみた緻密な静寂が、子に襲い掛かる何らかの危機を示していたのならば……。

 どうにか己一人のものとなった重みを支える膝が崩れ落ち、打ちひしがれた女は嗚咽を漏らしながら崩れ落ちた。天と地の隔たりさえない世界で蹲る違和感すらも遮断し、ただひたすらに涙を流し続ける女の、慄く肩にか細い指がそっと触れる。

「……あかちゃん?」

 ああ、やっと返事をしてくれたのね。私の可愛い赤ちゃん。

 歓喜に駆られながら振り向いた先にいるのは、幾度となく思い描いた幼児ではなかった。

「久しぶりだな」

 兄の純金の髪も神の玉座を飾る翠緑玉よりも美しい双眸とも、大理石の肌ともかけ離れた、黒い髪と瞳と褐色の肌の少年。彼の面差しは、かつての自分の鏡写しでしかなくて。

「……ヴィード」

 六年前の冬の日についに彼の人生そのものを蝕み続けた病魔から解放され、ダーシアとして天上の安息の園へと旅立ったはずの弟の頬は、健康そのものの薔薇色に輝いていた。

「僕はこっちに来て、やっと楽になれたんだ」

 陽光降り注ぐ庭園で思うがままに駆けまわる自由を望みながらも、侘しい部屋から一歩も出ることを赦されぬまま死したはずの少年。闇を背にして立つ彼は、憎悪の根源でしかなかったはずの双子の姉に満面の笑みを向ける。

「だから、お前もここに来いよ」

 その笑みがあまりに無垢で、あまりに幸福そうなので、ダーシアは差し出された手に指を伸ばしかけてしまったが、そこ・・に自分の子供はいるのだろうか。そもそも「こっち」とは、どこなのか。まさか、冥府を指すのではあるまいか。

 ――この手を取っては行けない。この手を取ったらもう戻れなくなってしまう。

 天啓にも予兆が命じるままに、柔らかな指先を払いのける。微かに歪んだ弟の表情に張りつめた胸の奥は軋んだが、それは黙殺できる程度の異変であった。

「お前は会ったことない人たちがいっぱいいるんだぞ。父上の叔母だっていう人はとっても優しくて、僕をたくさん抱きしめてくれるんだ」

「……そう。でも、わたしは、」

 兄も子もいない所になんて行きたくない。

 痛切に歪むであろう弟の面から逃避すべく、薄い目蓋を降ろしながら拒絶を紡ぐと、痛みから切り離されていた全身に衝撃が奔った。

「そうかよ」

 鈍痛すらも蘇った肢体を折り曲げ悶絶していると、幼い掌の熱が、頼りない指先がまろやかな肩に食い込まされて。

「だったら、お前は堕ちればいい。ずっと“そいつら”と一緒にいて、苦しめばいい」

 上も下も混濁して混じりあった領域に「堕ちる」などいう感覚が存在するはずはない。しかしダーシアは確かに弟の怒りに突き離され、奈落の底に突き落とされた。

 一点の曇りもない純銀か水晶の鈴を振るにも似た、冷涼でありながら澄み切っていて美しい響きの源では、絶世の佳人が嘆いていた。

「あなた……」

 一切の光射さぬ暗澹の中であっても、王妃の美貌は翳りも衰えも知らず、魂が凍り付いて砕け散るまでに麗しいままだった。彼女が纏うのが金糸が織り込まれた紫の絹ではなく、けだものの体液が飛び散った、元来の豪奢さを窺えぬまでに引き裂かれた衣装であっても。優雅に波打つ黒髪からは解れ、貴石の飾りが絡まっているとしても。花よりも美しい顔を覆う指の所々は無残に欠けているとしても。白鳥を連想させるしなやかに伸びた首を飾るのが、えり抜かれ磨き抜かれた青玉と真珠ではなく、紅玉の粒が滴る生々しい亀裂であったとしても。

「あなたのおかあさまのせいなのよ。あなたのおかあさまが、こわいおとこのひとたちをたくさんつれてきて、わたくしは……」

 嘆く女は失われた指で睡蓮の蕾さながらの傷口を撫でる。絶命に至らしめることで母を救った青年のそれと全く同じ一対の宝玉から零れ落ちる雫は、先程己の眦を濡らしたものよりも熱いのだろう。

 何らの罪も犯していなかったザーナリアンは、母の命によって言語も想像も絶する責苦をその華奢な身に受けた。ダーシアとて無理やりにねじ伏せられ、体を拓かれる苦痛を知悉してはいる。だが、異母兄の母が舐めさせられた苦難と、己のそれは同じ秤に乗せるなど仮定するだけでもおこがましい。

 犯した罪と怯懦の代償をダーシアに下したのは、子を除けばこの世の誰よりも愛おしい兄ただ一人である。翻ってザーナリアンは、彼女は顔どころか彼らがこの世で闊歩していることすら把握してはいなかっただろう見ず知らずのけものたちに、その身と誇りを代わる代わる、絶え間なく貪られたのだから。

「ひどいわ。ひどい。わたくし、あなたにもあなたのおかあさまにも、なんにもひどいことしてないのにこんなことするなんて、にんげんじゃあないわ。そうでしょう?」

 生前の彼女の無邪気で穢れない微笑とはかけ離れた冷笑は、ダーシアの奥底に焼き付き決して癒えぬ傷となった、彼女の息子のものと酷似していて酷薄ですらあった。

「だから、あなたのおかあさまはこうなったのよ」

 自らに捧げられた他者の苦悩への陶酔の紅が叩かれた頬は、魂が凍り砕け散るまでに艶めかしく、血の唇の赤さはどこまでも不吉であって。馥郁たる葡萄酒の香気さながらの狂気から逃れるべく濃い睫毛に覆われた黒曜石を伏せれば、殴打と陵辱の痕跡が散らばる腿までが露わにされた白い脚が踏みしめる者の、凄まじい醜悪さが視界に突き刺さる。

 技芸の神が丹念に研磨したであろうまろい跟は、海に住まう女精が競って求めるであろう薄紅の珊瑚のひらが置かれた爪先は、焼き爛れ糜爛した褐色の肌を踏みしめていた。

 鼻を袖で覆わずにはいられぬ悪臭と蛆と血膿の巣窟と化した肉塊は、しかし物体ではない。その証拠に、女の証たる長い髪を刈り取られた頭を擡げた女は、赤黒い洞の入り口に張り付いた乾き色褪せた花弁を蠢かせすらしたのだ。母の片目は溶かした金属によって焼き尽くされ、砕かれ頭からは脳髄を、腹部からはぬらついた臓物を垂らしているのに、どうして喋れるのだろう。

「わたくしはこんな風にされたのに、お前は相変わらずお兄さまに可愛がられているなんて。全く羨ましいわねえ」

 漂う色香だけは在りし日のままの侮蔑から、あるべき五本の枝をもがれ砕かれ切り落とされ丸くなった先端から逃れたくとも、蟀谷から粘ついた汗を滴らせる苦悶は四肢を重く縛める。ずる、ずる、と叢を這う蛇が奏でるにも、水死体を畔で引きずるにも近しい不快は、緩やかにではあるが確実に近づいて来るのだ。

「お前とお前の愛しいお兄さまの――わたくしをこんな姿にした男の子供、どうなったと思う?」

 ついに腑抜けた足首を捕らえられ、腐乱の象徴のおぞましい蠢きを己が肌で感じ取った瞬間。絹を裂く嫌悪と忌避の悲鳴が深淵を揺るがした。

「やめて! はなしてください!」

 もはや母と呼ぶことすら耐えがたい化物の、ひしゃげた頭部に跟を振り下ろしたくとも、両の足首は峻烈な棘を生やしたいばらによって闇に縫い止められてしまっていて。

「……たすけてあにうえ! あにうえ! あにうえ!」

 罪深い己に救済の手が差し伸べられるはずなどないのだと唇を噛みしめながらも欲した、己だけの神への懇願が届いたのだろうか。蜂蜜じみた密度すら感じられる闇は真冬の雪原が反射する黄金の光芒に切り裂かれる。

「……ダーシア!」

 虚実にしては鮮明に過ぎた悪夢からうつつへの己を導いた呼び声に応ずるべく重い目蓋をどうにかこじ開ければ、陽光のごとき金髪の眩さが眼裏に突き刺さって。

「あ……にう、え?」

 憔悴した面持ちの兄は薄く整った唇を引き結び、涼しげに切れ上がった目で咎めるように寝台に埋もれたダーシアを見下ろしていた。

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