荒天 Ⅲ

「――いつからだ」

 低く掠れた、ほとんど吐息同然の問いかけは、叱責の調子を帯びていて我ながら酷薄に響く。

「貴方の妹君の――真に亡くなられていたのは弟君でございましたが――葬儀の前日の夜に、叔父から教えられました。叔父は今は亡き陛下より伝えられたのでしょう」

 長くも短くもない栗色の睫毛に囲まれた薄い目蓋が緩やかに伏せられる。すると穏やかで品良くはあるが平凡の域を出ないはずの面は、預言者の像の崇高さを纏った。

 切っ掛けなどオーラントも教えられておらず、父亡き今となっては確かめようもない。だが自分たちの関係は幼少期既に把握されていて、父はただ独りの後継者たるエルゼイアルの関心を異母妹から逸らすためだけに、オーラントを王宮に召し上げた。 

 同年の少年を友として付ければ、妹を除けば親しく言葉を交わす者など存在しないがゆえの己が世継ぎの孤独は薄れるだろう。さすれば肉親への情愛と混同したこの時期の少年にありがちな女体への興味も、いずれ消え去ってしまうに違いない。恐らく父は、このように考えたのだろうか。

 あるいは、この企み・・を発案したのはオーラントの叔父であったのかもしれない。妻を娶らず、子もいなかった彼は、甥であるオーラントを我が子のように可愛がっていた。父の領地を受け継げぬ貴族の子弟が未来への路のうち、最も平坦で最も明るい道に甥を導いてやりたいと望むのは道理だろう。

 結果として亡き男の思惑は的中し、オーラントが己の許に訪れてから程なくしてダーシアが死したこともあり、エルゼイアルは確かに妹から、誰よりも愛しい少女から遠ざかった。これで日毎妹の墓所に参り花と涙を供える未練でも見せていれば、父たちもまた慌てふためいて違う手を考え出したのだろう。だが、エルゼイアルは冷ややかな墓石の下の住人となった少女を喪失した痛みを、彼女の不完全な代用品で紛らわせんとするばかり。

 異母妹ではない女との情交に励む――王室礼拝堂付きの司教が眉を顰め、苦言を呈さんとするほどに――己の振る舞いに、オーラントもその叔父も安堵した。父も、己の愛妾を息子に寝取られる屈辱を噛みしめながらも、エルゼイアルの放埓を黙認した。そしてオーラントは、エルゼイアルとダーシアが犯した禁忌を忘れてしまった。

「……あの頃の、出会ったばかりの殿下の周囲には、あのアマルティナ殿しか頼れる者がいなかった。ですがそのアマルティナ殿とて、優先するのは殿下の母君であって殿下ではない。そんな中、殿下を見つめ欲したのは、妹君だったのでしょう? だから、殿下は妹君を愛した」

 長い語りを沈鬱な吐息で締めくくり、友は慈悲深い眼差しをそっと伏せる。穏やかな唇に犬歯を突きたてさせる感情の仔細までは判ぜられない。だが、彼が神に背いた自分を忌まわしいものと見做しても、まして軽蔑もしていないことだけは、明白に伝わってきて。

「妹君の葬儀の前の夜、叔父は最後にこう語りました。――“陛下がもっと殿下を気にかけていらっしゃれば”と。王妃様の御心が時を止めてしまったのは致し方ないとしても、陛下が殿下を慈しんでさえいれば……だから、仕方のないことなのです」

 貴方の罪は貴方のものではないのだと、友は語る。生まれながらに胸に穿たれた空虚を埋めるためにエルゼイアルが妹を求めたのは必然であったのだと。独りきりで懊悩せずとも良いのだと。

「母君に関しても、です。ザーナリアン様が舐めたのは、本来味わわずとも良かった苦痛ではありましたが、全てはあの女に咎がある」

 命を賭してでも守るべき母を救えず、剣による安息しか与えられなかったエルゼイアルに、自分を責めてはならないと友は囁く。母があの女の手に落ちたのは、国境に兵を集中させるあまり城内の警備を手薄にしたエルゼイアルの責であるのに。

 父が弑された後、王都に蓄えられた糧食の枯渇を待たずとも、一刻も早く母を奪還せんとしていれば。たとえ心身に深手を負おうとも、母は未だ生きていたはずだ。傍らにアマルティナが居らずとも、狂うまでに愛し焦がれた故郷で憩っていれば、いずれ傷も癒えたのかもしれない。

 ――あなたのことすきよ。

 緩やかに閉ざした目蓋の奥でちらつく黒髪は波打っている。偽りではあるが一点の陰りもない幸福な笑みを浮かべていた少女・・はもはやこの世にはいないのに。彼女は父母と国を奪われ、ただ政略のために意に添わぬ男と娶され子を産まされ、己を襲った全ての辛苦に絶望しながら息絶えたはずだ。他ならぬ息子であるエルゼイアルの手によって。

「赦すことは不可能でしょう。僕だって、母が――あるいは姉や妹が――そのような目に会って死に追いやられてしまったら、関わった者たち全ての苦悶の末の死を望みます」

 非業の死を遂げた母の無念を晴らすためにならば、臣民や臣下に恐れられても構わない。だが、母を穢した獣どもに下した鉄槌を、あれは当然の裁きなのだと涙ながらに肯定されるのは初めてだった。

「殿下。貴方は何も悪くない。むしろ、己が心を殺してまで母君を言語を絶する苦しみから救い出しさえしたのです。なのに――」

 ず、と洟を啜る音に目蓋を跳ね上げれば、やはり痛みを堪える幼子そのものの顔をした友人の、赤らんだ鼻の先が視界に入る。腕に抱いた母の肢体から最後のぬくもりが消え去る瞬間さえ、眦を濡らしもできなかったエルゼイアルとオーラントは、やはり似ても似つかぬ人間なのだ。

「なぜ妹君にご自身で罰を下されたのですか? 貴方はそんなことをしなくても良かった。妹君は母親と同じ方法で殺してしまうべきだったのです。なのに、」

 主の愚行を嘲るでも糾弾するでもなく、ただ問いかける口ぶりは優しいのに、共に抱きしめられた王の舌の根は凍り付く。

 あの日、改悛の海に沈む妹の首に回した手に籠っていたのは、紛れもない激怒と殺意であった。タリーヒの娘である妹の息の根を止めれば、天上の母を未だ苦しめているだろう激痛も、僅かながらに和らぐかもしれない。ただそれだけのために妹を絞め殺さんとした己を制したのは――

 月も星もない暗鬱。あるいは夜空の漆黒を湛えた泉の瞳が、己を映したその瞬間、憎悪に張りつめていた四肢から力が抜けた。それを認めることこそオーラントから突き付けられた問いの何よりの答えであり、母への何よりの裏切りであった。

 曖昧に口角を吊り上げたエルゼイアルの表情から、察するものがあったのだろう。敏い友人は、それ以上を強いて追求しようとはしなかった。

「……いかがなさるおつもりなのですか? 既に堕胎は不可能な時期に入っていて、お子様は来春には生まれてくる」

 慈愛に満ちた友人は、健全な魂を持つ彼にすれば悪魔に等しいだろう、禁忌の末に結実した生命の行く末をも案じている。妹の腹に宿った子の父であるエルゼイアルなどよりも真摯に。

「……貴方たちの関係は、真の意味では公にはなっていません。真実を知る叔父と陛下は亡くなりました。僕も、一生口を噤みましょう。ですから、」

 普通の、罪人の母を持つだけの庶子として育てればいい。そうすればその子を玉座に据えることもできる。

 黄金の髪に隠された耳朶を撫でたのは、欺瞞と涜神への恐るべき誘いであった。腹違いとはいえ兄と妹の間にできた子に王位を継がせるなど、たとえ民草を欺けても神の目を誤魔化せるものか。

 自分と共に聖典の詩句や解釈を叩きこまれたオーラントが、その単純な事実に思い至らぬはずはあるまい。ならば彼は、エルゼイアルを踏みとどめさせようとしているのだ。 

 ザーナリアンに捧げるために、エルゼイアルが犯すもう一つの罪を。

 母は殺害し、妹は犯した。ならば、更なる大罪を犯しても己の末路は変わるまい。

「――それだけは、なりません」

 女の柔肌とは異なる、心臓を安らがせるぬくもりを引き剥がす。そうしてやんわりと退出を促してもなお、友は頑強にエルゼイアルの決意を翻させんとした。

「せめて、お子様の顔を見てからでも、決定するのは遅くないのです。……お一人で全てを決める必要はない。出産の際は、僕も殿下の御側におりますから……」

 二度、三度と振り返りながら王の居室から去った友人の双眸には、確かな信頼が宿っていた。だがエルゼイアルはそのあえかな光と善意すらも踏みにじる。この地上の誰よりも憎む妹を取り戻すために。


 流れよと願っているのに、また流すための行為を重ねているのに、すんなりと締まっていたはずの腹は日々重たげに膨らみ萎む気配はついぞなく。吐息すら凍てつく白と死の季節が過ぎ去り、雪の上掛けを被っていた庭園が春の息吹に誘われた若芽に彩られても、子は妹の腹に居座り続けた。産婆が予想した産み月から十日過ぎても、なお。

 よもや、これは私の思惑に感づいているのだろうか。ゆえに、誕生を恐れて胎内に留まっているのだろうか。

 宿った生命の重みを持て余す妹の腹を支え、穿ちながら心中で紡いだのは世迷い事である。母さえ知らぬのに、自我のない胎児が、まさか。

 ――いっそ、死んで生まれて来ればよいものを。

 疲労のためにか意識を手放した妹の、はちきれんばかりに豊満で艶めかしい腿には、己が吐き出した濁りが伝い落ちている。褐色を穢す液体は精液にしては量が多い。

 違和感と最も目を背けたかった可能性への怖れに駆られ、まろい肩を揺さぶれば、三日月の眉は苦悶に顰められて。

「いた、い」

 嫋やかな手は、己が羽織った上衣の袖を掴んでいる。だがエルゼイアルは、妹に圧し掛かる痛みを取り払う手段など知らなかった。

「……たぶん、もうすぐ、あかちゃんが……」

 切れ切れに吐き出した悶絶が終わらぬうちに、滑らかな喉からは絶叫が迸る。

「……いたい! いたい、いたい!」

 幾重にも重ねた絹を一時に裂いたかのような、か細いが悲痛な咆哮を聞きつけたのか。老婆にしては機敏に悶絶する女の許に駆け付けた産婆は、ただ立ち尽くすばかりのエルゼイアルを産屋となる部屋から追い払う。

 ――お生まれになるのが姫であるのならば、是非とも我が息子の妻に。陛下の娘御ならば、まさしく女神のようにお美しい姫にご成長あそばすでしょう。

 王の愛妾の懐妊を耳聡く聞きつけ、死肉の代わりに王の遠戚となる名誉を得んと目を光らせる烏となって宮中に群がる諸侯の相手をする暇があったのは、最初の一日だけだった。陣痛が始まって太陽と月が二度入れ替わっても、一向に産声は轟ない。代わりに響くのは、たすけてあにうえ、いたい、との咆哮のみ。

「大丈夫ですよ。初産っていうのはこういうものなんです。僕の姉が最初の子供を産んだ時も、こんな風だったって……」

 蒼ざめ憔悴した面持ちの友が、エルゼイアルの手を握りながら述べたのはあからさまな慰みであり虚実だった。

 このまま放置していれば、ダーシアの命が危うい。

 元より欲していなかった赤子などどうなっても構わぬ。母体を救え、と命じようとしたまさにその瞬間だった。

「――お生まれになったよ」

 彼の誕生を喜んでいた母を除けば、父であるエルゼイアルにすら望まれていなかった物体が妹の胎から転がり落ちたと知らされたのは。

 王は柔らかな布に包まれた肉塊を傍らの友に押し付け、鉄錆の臭気立ち込めているであろう部屋に急ぐ。妹の生命を削り取った存在など、彼女の危篤の知らせの前には塵芥に等しい。

「あか、ちゃん……は?」

 大量の血液を失った女は生み落とした子の行方を尋ね、答えを待たずして目を閉じる。

「ダーシア!」

 全身の骨を折らんばかりに力なく垂れる四肢を掻き抱いても、暗黒に堕ちた意識を拾い上げるには及ばない。

 妹は、このまま逝ってしまうのだろうか。一度のみならず二度までもエルゼイアルを置き去りにして。

 ――赦すものか。

 腹の中の重みから解放されたためにしても軽くなった肢体を乱れた褥にそっと横たえた王は、整った口元に暗鬱たる笑みを刷いた。

 どんなことをしても、都中の医師を集めてでも、妹を生き永らえさせる。

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