荒天 Ⅱ

 亡き父が、己の出生後ほどなくして身罷った祖父から譲り受けた椅子に坐し、友人と見えるのはこれが初である。だがエルゼイアルがこの部屋に赴いたのは、即位以前からも多々あることだった。もはや朧になった幼児期に。少年であった時分に。そして、臣下として王の命を賜る際に。

 父は後継者が成人した後には彼を共同統治者に指名するという父祖の伝統に反し、エルゼイアルを王太子のまま留め置いていた。あからさまな警戒であり、侮辱でもある処遇に想うところがなかったと言えば嘘になる。だが、生まれ落ちて十五回目の冬至を一月後に控えた晩、己などよりも余程痛ましげに眉を顰めていた友が傍らにいたから、物思いに耽ってなどいられなかったのだ。

 父上は、余程私を玉座に据えたくはないらしい。

 乾いた嗤いを漏らすエルゼイアルの、腰に佩いた剣に伸ばした手をそっと握った少年は、少し低い位置から己の双眸を覗いた。父のように、さも見るに耐えぬと吐き捨てんばかりに逸らすのではなく、真っ直ぐに。

「殿下は、陛下のただ独りの、正統な後継者です。陛下が殿下を疎んじているなど、あるはずがございません」

 彼自身、虚実と知悉しているであろう慰みは、しかし胸に虚しくは響かなかった。

「きっと陛下は、こう考えられているのです。殿下が何か武功を挙げて、その祝いも兼ねて共同統治者に任命するのが良かろう、と。昨日下された北への出陣も、きっとそのためなのですよ」

 エルゼイアルを宮殿から追い払うための口実に過ぎぬだろうと、下は官吏や女官に始まり上は大臣たちに終わる城内の雀たちが囀る沙汰の真実を、オーランが看過していないはずはないだろうに。

 太くも逞しくもない、薄い肉の内に筋のしなやかさを隠した腕が、首と背に回される。ぶつかり合った胸板から染み入るのは硬さとあえかなぬくもりのみだが、何故だか女の乳房を押し付けられるよりも余程安らげた。

 この浅ましい女がダーシアの代わりを果たせるはずはないと悟っていながら、物陰で己にしな垂れかかってきた父の愛妾に教えられた女の味は美味である。あの柔らかな皮膚と肢体、そして一体となった際に与えられる愉悦は何ものにも代えがい。一度味わえば決して忘れられぬ至上の美酒は麻薬にも似ていて、エルゼイアルは初めて女の胎を貫いた冬の日以降、いとまがあればその追求に没頭していた。

 旬の果実か盛りの花に比せられるだろう町娘の瑞々しい肌にも、夫に先立たれた己と同じ年頃の子がある貴婦人の熟れ切った肉体にも、皆それぞれの味わいがある。夫のある女との密通は、己から声をかけていながら貞淑を装う婦人の本性を己が腕で暴く愉しみがあった。まして、それが父の妾でもある女ならば。

 初めて自ら父の愛妾を寝取って程なくして、血相を変えてエルゼイアルと彼女が絡み合う寝室に駆け込んできた父の面が思い出されるがゆえに、悦楽はいや増す。だが、彼女らはいずれも泡沫に等しい徒花であり、己に心地よい木陰を齎すオーラントと同じ秤に乗せることすらできなかった。

「大丈夫です……なんて、殿下より剣を扱えない僕が言っても信じられないでしょうけれど、僕が殿下をお守りしますから、」

 そんなにお嘆きにならないでください。

 耳元で囁かれた憂慮は、自分は悲しんでいたのだとエルゼイアルに突き付けた。オーラントに教えられなければ、気づきもしなかっただろう。

 自分が嘆息すれば、接吻や拙い愛撫で励まさんとしてくれた異母妹はもういない。だが、友人は変わらずに己の側で笑ってくれている。

「もう、いい。離せ」

 己よりも半年ほど早く生まれたオーラントは、エルゼイアルよりも背が低い。けれども、背に回された腕を解くのは容易ではなかった。

「僕たちは、十日後には城を発たなくてはならないんだ。支度に急ぐあまりお前の分の盾を忘れると、お前の叔父や家族を嘆かせることになるかもしれない」

 だから、今すぐにでも支度を始めないとな。そして、僕は絶対にお前と二人でこの城に戻ってくる。

 病魔に妹を奪われて以来、凍り付いてしまっていた頬を緩ませると、萌え出でたばかりの瞳が僅かに潤んだ。それはエルゼイアルの願望でも錯覚でもなかったのだが――


「お前の働きは私の期待を上回っている。その代償としてか、少しばかり面窶れしておるが、息災であったようで何よりだ」

 陽光を透かす若葉にも似た、屈託なく朗らかな微笑には、僅かな翳りが落ちてしまっていて。

「ええ。で……陛下も、」

 お変わりがないようで何よりです。

 友人がとっさに呑みこんだであろう決まりきった挨拶ほど、己からかけ離れた文句は存在しないのではないか。オーラントと別れた後、エルゼイアルは母を屠り、半分ながら同じ血を分け合った妹を陵辱し、ついに子を孕ませたのだから。

「お気を落とさずに、とは口が裂けても申しません。あのような言語を絶する悲劇の後母君を喪われた陛下の心中を、父母もきょうだいも未だ健在な僕が察するなど、できるはずがない」

 薄くも厚くもない、優しげなまろみを帯びてはいるが取り立てて特徴のない口元が噛みしめられる。元来が柔和に纏められているオーラントの面立ちは、悲憤に歪められていてもなお穏やかであった。

「しかし、母君とその女官の御遺体を帝国領に送り、亡き皇帝夫妻と同じ墓所に葬られるほどに母君を想っておられるのなら、一体、なぜあの女の、タリーヒの女官などと……」

 王都より離れたアルヴァス侯爵領に籠っていたオーラントが、新王の愛妾の懐妊を把握しているのは驚くに値しない。大方、王の学友を通して王に取り入らんと目論む諸侯や高官から寄こされた書状にでも綴られていたのだろう。

 ダーシアの懐妊を本人に先んじて感じ取った老婆たちはまず、先の王の三人の子――正嫡であるエルゼイアルと、双子の庶子を取り上げた功績のために、宮殿の片隅に住まう栄誉を赦された産婆の存在を思い起こした。それまでは良い。だが、彼女らが主である己の意志を確かめもせず、慌てふためく姿を城内の者たちに見せつけながら、産婆を愛妾の間に引きずりこんだのは愚昧極まりなかった。せめて妹が腹の生命に感づく以前であったならば、事が公になる以前に密かに流せもしたものを。

 誕生したばかりの脆弱な生命にとっては毒となりうる薬を盛り、妹の胎内の生命のみを絶やすことはできはするし、実際に試みもした。市井でも広く堕胎に使用され、しかも比較的母体を傷つけぬ香芹パセリを妹に嚥下させれば、速やかに忌々しい若芽は枯れ果てるだろうと。だがダーシアは、エルゼイアルが世話役の老婆に命じて妹の口に押し込ませた香草を全て吐き出したのだ。それは悪阻による嗜好の変化によるものなのだろうが、まるでエルゼイアルの意図を察知し、忌避したかのごとく。

 ならばとより効能の強い毒を摂取させることもできる。しかし、さすれば妹の身どころか命すらも損ねかねない。

 致し方なく少年時代の神学の師であり、神学のみならず植物の薬効にも広範な知識を持つ男に求めた助力に返されたのは、激高と罵声であった。

 自分が蓄えた知恵は病人や貧者を救済するためのものであり、例え不義の子だとはいえ、赤子を殺すためのものではないと。お前がそのような手段に出るのなら、僕は主教と相談してもう一度お前を破門させると。

 足音も荒く、挨拶もなしに王の部屋から去った修道士から後日届けられたのは「子が生まれたら修道院で育ててやってもいい」との簡素な一文のみで。南方より唯一なる神の教えが齎されて以来、常に王権と反目し合っていると断じても過言ではない聖界に、これ以上付け入る隙を与えるのは憚られた。

 無理やりに我が子を引き抜けば、エルゼイアルが目にするのは物言わぬ小さな肉塊を包む紅蓮だろう。しかし妹は、このままではいずれおびただしい血潮と生命を流さなくてはならなくなる。

「なぜ、そのようなことを? なぜ、彼女を一思いに殺さずに、身籠るまで……」

 友の若草の瞳が眇められているのは、エルゼイアルを哀れむが故なのだろうか。あるいは、罪人であるとはいえ手弱女を力任せにねじ伏せる外道だとして、軽蔑しているのだろうか。

 ――どんなことがあっても、僕はあなたの許から去りません。

 妹の葬儀を終えた夕べに捧げられた言葉に偽りはあるまい。だが、限度はあろう。父母の愛情に照らされた正道を歩み続けてきた友は、己の本性を知ればどのような痛罵を投げかけるのだろうか。

「何ゆえ、か。そうだな。お前にだけは明かしてもよいだろう」

 自暴とも呼べる好奇に駆られ、友の澄んだ眼差しから隠し続けた秘密を曝け出す。

「あれは私の妹であった。あれを生かした理由はただそれだけだ」

 己を生み出した母を屠ることも、近親の情交も、忠実なる信徒にとっては唯一神に叛逆するに等しい大罪である。エルゼイアルはもとよりさして神を――彼の存在ではなく、彼の慈愛を信じてはいない。

 元来その恩寵に浴する名誉も与えられていないのだから、エルゼイアルは改悛の海には永久に沈まぬだろう。悔やむべきなのはただ一つ、母を守り抜けなかったこと。あの無垢で気高い、決して侵してはならない純白の雪原であったザーナリアンを、数多の獣の餌食としてしまった己の不甲斐なさと愚かさのみ。

 司祭たちが説くように神が慈悲深い超越者ならば、なぜ母は救われなかったのか。母を犯した獣の幾ばくかは、未だあの地下牢でか細いながらも息をしている。両の手足を失い、生きながら蛆に貪られる肉塊と成り果てた男たちが紡ぐ死の安楽への懇願は、壊れた竪琴の音か化物の金切り声と変わりなく、凍った胸を溶かしはしないのだ。

 母を害した者たちの中でただ独り、妹の悲鳴のみがエルゼイアルの血を沸き立たせる。六年前は至上の絹さながらの手触りを飽きることなく愛でていた髪を引き、寝台に押し倒して解れぬ花を散らせば、天使が奏でる楽にも勝る甘美な絶叫が耳を愉しませた。口内に押し込まれた昂ぶりに嘔吐き、さも苦しげに三日月の眉を寄せられると、復讐と情欲の熾火は劫火となって。

 友人曰く星の数に匹敵する己の寝所を彩ってきた花全てを色褪せさせる妹の嬌態は、夜明けを忘れさせるに十分だった。怯え、惑いながらもエルゼイアルを求める一対の黒曜石に魅入られる。たとえそれが、母の苦痛と凄惨な終焉を引き起こした女の瞳であったとしても。

 エルゼイアルは妹に見つめられ妹を貫いている間だけは、この手を濡らした母の血潮の温かさとぬるつきから逃れられた。幾度となく香油を垂らした水で清めても、拭い去り切れずにふとした折に蘇った紅蓮の幻。膿み、爛れた傷口を炙られるにも似た懊悩から解放されたのは、妹の舌が己の節くれだった指の合間までをも舐ってからだった。

 握り潰した果実の汁に塗れた指の先端までをも呑みこみ、褒美を強請る漆黒は蜜さながらに蕩け粘ついていて、ただひたすらに己を注視していた。あの瞳は、常にエルゼイアルのみを映すはずのものであったのに、今では他のものに向けられてしまっている。己の子種が妹の胎内に根を張った末に芽吹いた生命――腹違いの兄と妹の禁断の子供に。

「……左様でございましたか。あの女は、自分の子供の死すら利用して……」

「おそらくな。全ては私の推察に過ぎぬし、墓を掘り起こし憐れな弟の眠りを妨げてまで確かめようとは望まぬが、概ね合致してはおるだろう」

 妹との出会いから、六年前の死の真相。そして彼女との再会を果たした後に夜毎繰り広げた饗宴の仔細を詳らかにしても、友の面は静謐に凪いだまま。

「お前、驚かぬのだな」

 安堵では断じてない、だが驚愕でもない念に駆られて口角に冷笑を刷けば、今度こそ驚嘆すべき応えが紡がれて。

「……僕は、知っていましたから。貴方が妹君を愛していらっしゃったことを」

 秘め事を抱えていたのは己だけではなかったのだ。

 瞠った切れ上がった目で捉える友の虹彩では、数多の感情が入り混じっている。ひたすらに優しい双眸は、身罷った実の父でも、哲学や神学上の峻烈たる父でもない、人の子の罪を背負って刑死した預言者を想起させた。

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