荒天 Ⅰ
天空は喪に服した貴婦人の面紗にも似た薄闇に覆われていてもなお深い蒼を湛えている。華美ではないが品よい邸宅を守るように聳える林檎は秋の風にすら揺らがず、ただただやせ衰えた枝にぶら下がっていた。紅玉めいた色艶を放ち、爽やかな芳香で人々を魅了するその実は、しかし生食には適さないのだとオーラントは知っていた。
舌ではなく目を愉しませるために植えられた果実を許しなく頬張り、口内をひりつかせる渋みと酸味に顔を顰めた幼き日の自分を笑いながら諭した叔父はもういない。亡き王により与えられた叔父の屋敷には、オーラントが少年期の半分を過ごした場所には、もはやかつての面影など欠片すらも見当たらなかった。
「……おいたわしいことですなあ。これでは、旦那さまの遺品一つ見つかりませぬよ」
オーラントの身辺の世話を果たさんと、老体に鞭打って父の館からアルヴァス侯領まで駆けつけ、果ては王都までに同行してくれた老夫婦の悲嘆は魂の隙間までに響き渡る。
「そうだね。でも、仕方ないよ」
嘆息を苦笑で押し殺しながらちらと窺った室内の荒廃を回復不可能なものにしたのは、亡き前王の愛妾の配下ではなく、乱によって住処を失った浮浪者たちなのだろう。彼らは鍵のかけられていない宝物庫となった邸宅に忍び込み、明日の我が身を育む糧となり得る品々を根こそぎ盗み取った。その証拠に、鋭利な破片によって流されたらしき血で形作られた足形には、オーラントの掌にも満たない子供のものも混じっている。
この館を叔父に与えた王の権威を損ねるにも等しい所業を主君に訴えるのは簡単なことだ。かつての叔父がいつか自分にくれてやろうと約束してくれていた品々を取り返すのも。だが、オーラントは罰など望んでいなかった。叔父の形見を真に必要とするのは、衣食や住居に事欠かぬ自分ではなく、うらぶれた路上で身を寄せ合って寒さをしのぎ合う者たちなのだから。
「そんなことより、厨房はどう? 火は熾せる? 僕、久しぶりに婆やが作ってくれる鶏の煮込みが食べたいんだ」
深い皺が縦横に走っていてもなお、ふくよかな薄紅の頬を憤慨に膨らませていた老婦人の意識を彼女の得意に移す。
「ほほ、背丈が伸びて立派になっても、坊ちゃんは相変わらずですなあ」
在りし日の叔父が傍らの椅子に坐しながら書き物や読書に耽っていた居間の暖炉には、灰ではなく埃が積もってしまっていた。かちりと乾いた音を発したのは、己に踏みしめられた陶器の破片であるはずなのに、何故だか胸が軋んで仕方がない。若草の目の奥からは喪失の痛みと悲哀が熱となって滲み出、一筋の涙となって眦を濡らす。
主君であり友人である青年から課された命を果たすべく、叔父の墓に花と哀悼を供えようともせず、アルヴァス侯領の復興に専念した半年あまりは決して無益でも無駄でもない。作物の刈り入れが終わる頃合いを見計らって王都に発った自分を見送ってくれた者の口は、皆一様にオーラントへの感謝の言葉を紡いでくれていた。定められた任を果たしても、どうかここに残っていただきたい。後継どころか縁者すらもいなかったアルヴァス侯に代わり、どうかこの地を治めていただきたい、と。
大逆の罪を犯したがゆえに酷刑に処された侯爵の遺領の行く末は、新たな王となったエルゼイアルの思惑次第である。侯爵領の民たちが亡き領主の生命一つでは贖いきれぬ咎を雪ぐための露とされぬことは、新王即位の後に速やかに下された命によっても明らかである。だがアルヴァス領が、受け継ぐべき者の血脈が絶えた封土の慣例に従い王に返還されるか、はたまた此度の内乱で功があった者に授与されるかについては、王は未だ口を噤んだままだった。
見目麗しく文武に優れた主とは異なり、容貌体格のみならず武芸の技量すら凡庸な自分が、さしたる功績を挙げられるはずもなく。オーラントはただ、異母弟に簒奪された玉座を奪還すべくエルゼイアルの傍らで、彼の従者として副官として主君に付き添ったに過ぎない。だから、褒美など欲してはいなかった。
オーラントが励むべきなのは、背負わされた見えぬ深手に苦しんでいるであろう主君の側に戻り、彼の苦痛を和らげるべく心を砕くこと。そして、領主の暴虐に苦しめられたアルヴァスの地の人々が、完全にとはいかずとも、彼らの安らぎを取り戻すことだけ。そして、身命に変えても果たすべく務めを全うするために、オーラントは王都に戻ってきたのだ。国庫に収められたであろう王国各地からの実りを、ほんの少しでもアルヴァス領に回してもらえぬかと懇願する。いわば、催促のために。
冷ややかさと畏怖、更には崇拝の念までを抱かせる絶世の美貌や普段の言動ゆえに誤解されがちだが、エルゼイアルは彫像めいた容姿にはそぐわぬ柔軟さと寛大さを持ち合わせてもいる。ゆえにオーラントが山から彷徨い出た猪同然の恰好をしていても、主はその秀麗な眉を顰めはしないだろう。が、王宮に出仕するにはそれに相応しい恰好をしなければならない。
「さあ、たんとお召し上がりください」
どうにか厨房の体裁を繕った部屋で、朗らかな笑みを湛える老夫婦と共に温かな食事で空の胃と疲弊した肉体を癒す。そして次に旅の汚れを温かな湯で落とし、荷の奥から取り出した上質な衣装に袖を通してようやく、オーラントは王の学友になる。
ただでさえ平凡で、感じは好いがどこにでも転がっている程度だと影で囁かれていた造作は、農夫と衣服を交換しても違和感なく調和できるだろう。むしろ、その方が自分の顔には合っているのではないか。
――殿下はご自身が類なくお美しいから、あのような取り柄のない顔の方が新鮮に感じられるのでしょうよ。
何度絶やさんとしてもついに途絶えなかった妄言は真実の一端を射抜いていた。これといった取り柄のない自分が、彼が最も願っていたであろう母の愛を除く全てに恵まれた青年に友として認められた理由など思考するには値しない。
『分かったかい? 私は、お前に殿下の空白を埋めてほしいんだ』
自分が彼に
願えば、郊外のすっかり荒れ果ててしまった屋敷の一室ではなく、女官の手で皺ひとつなく整えられた王城の客室で身を休めることもできた。オーラントが主の申し出を断ってまで、隙間から鼠や、鼠を追う野良猫が出入りする邸宅を一時の住まいとして選んだのは、ひとえに己が心に巣食う疚しさのゆえ。
この世とこの世を満たす全ての生命を創造した唯一神に唾するにも等しい重罪――自死を犯した叔父の遺体は、本来ならば葬られもせずに路傍で朽ちるに任されていたはずだった。神の教えにおいては罪深いとされる亡骸を躯の山から見つけ出し、密かに葬ったのは、偽りの王の即位を黙認した主教に他ならない。
――その方が新王の不興を買った我が身の安泰のために尽くしてくれるのなら、その方の叔父君の魂の安寧を祈ってやろうではないか。
書状で突き付けられた主教の企みには、決して見逃してはならない追記であり忠告が記されていた。
技芸の神の最高傑作とも讃えられる氷像の美の魅惑を抗いがたいものにする、己を恋い慕う女への酷薄さと冷淡さでもって他国にすら名を馳せた主君が、女を囲っている。それも、半年も。
どんな女とも保って半月が限度だった友人に、特定の愛する女性ができたのは喜ぶべき慶事だ。四代目の王が王国北部の有力貴族の娘を妃として迎えるという黙約は、未だ黙約の域を出ていない。結ばれてすらいない婚約など放り捨て、愛する娘を伴侶とすればいい。幼少のみぎりより父母の愛に飢えたまま成長したエルゼイアルならば、その程度の自由など赦されて然るべきではないか。
――殿下の手腕ならば、婚姻に頼らぬ繁栄を築けるでしょう。どうか、末永くお幸せに
オーラントとて、ようやく巡り合った運命の女性と並んだ友人に跪き、彼の手を取って彼の幸福を言祝ぎたかった。
「どうして殿下は……」
だが、王が選んだ寵姫が賤民の娘。それもあのタリーヒの配下とあっては、祝辞は口内で凍り付いて憂慮となるのみ。
母の仇を愛妾とし寵愛する。母を篤く思っていた友人らしからぬ、薄情極まりないと、親不孝だと謗られても致し方のない行いだった。
ただの一度だけ民の前に姿を現した「彼女」は、司教からの手紙によれば、友人好みの豊満にして蠱惑的な肢体を兼ね備えていたらしいが、まさかそれだけが女を見初めた要因ではないだろうと信じたい。亡き主に似てかしたたかな女の計略に、弱った心を絡め取られたとした方がまだ幾分か受け入れられた。閨に引き入れる女を、彼女の肉体を構成する曲線美のみで選んでいた友人が陥るはずもない過ちではあるが。
友人はいつも女が褥で嬌声ではない声を――例えば自分の親兄弟への便宜、はたまた妃の地位を賜らんと懇願すれば、彼女を一糸纏わぬ裸体のまま自室から放りだしていた。そしてそれは、分不相応な野心が、己の聡明さや学識をひけらかすための聖典の解釈や、耳に心地よい韻を踏んだ外国語の詩句であっても同様である。エルゼイアルという青年が女に求めるのは、ただ肉体と悦楽のみであって、内側の美や聡明さでは断じてなかったのだ。
ならば残された、目を背け続けた選択肢は、いずれ処刑するはずの罪人が思いがけなく自分の趣向に適う女であったので、復讐がてら彼女を嬲っている、というものであろう。人間として最低の部類に属する発想だが、これが最もありえる。というか、これしかありえない。
「……しかも、子供ができてしまったなんて、一体どうなさるおつもりなのか……」
薄い上掛けと微かな黴の臭気に包まれ、懊悩に悶えていると、夜明けはあっけなく訪れた。
ともすれば寝不足という糸で縫い合わされてしまいそうな目蓋でも、陽の光を浴びれば軽くなる。叩き込まれた宮廷作法は意識を寝台に飛ばしたままでも、つつがなく遂行できるのだ。
会えば微笑み挨拶を交わす程度には親しんでいた衛兵の顔には、過ぎ去った春には無かった無残な傷が刻まれていた。変貌してしまっているが、その実何も変わっていない彼に黙礼し、内宮の奥深く、この北方の国を統べる王の居室に赴く。
「久しいな、我が友よ」
やがて見えた友の絶世の容姿は依然として眩いばかりであったが、至上の翠緑玉の双眸には狂気と妄執の翳りが落ちていた。
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