回帰 Ⅱ

「死ぬことは赦さぬと、申したであろう」 

 降り注ぐ囁きには冷酷なる裁きの気配は漂わず、いっそ優しげですらある。憎悪の焔が揺らめいていたはずの至上の緑の双眸の氷は消え去っていて、時の流れが逆順し七年前の幸福に還ったのかと錯覚してしまう柔らかさを湛えていた。かつての兄は、いつもこのようにダーシアを見つめてくれていたから。

 萎れかけの薔薇を、翼を折られた小鳥を、虚弱な羊の仔を見守るよりも遙かに慈悲深い目は郷愁を誘う。けれども破れんばかりに脈打つ心臓が宥められはしなかった。

 敷布を掴もうと指先に力を籠めるだけでも奔る激痛は産みの苦しみの残滓であり、苦悶を宥める唯一の薬たる我が子は影すらも己の傍らにない。入り混じる薬草の生臭さと鉄錆の臭気が石壁にすら染みついたかのごとき部屋に居らぬのならば、愛しい子はどこにいるのか。

 血塗れの小さな身体はきちんと産湯で清められたのか。腹を空かせてはいないだろうか。母を求めて泣きじゃくるあまり衰弱してはいないだろうか。子への想いを源として、とめどなく浮かび上がる憂慮に終わりはない。激痛に呻きながらも、せめて子の気配を探すために泥が詰まった袋と化した半身を起こせば、汗ばんだ背を労わり、宥めるように支えられた。

「無理はするな。お前は黙って寝ていればいい」

 大量の血潮と生命を失った肢体に染み入るぬくもりは心地よいが、逞しい腕に全てを投げ出し委ねる前に確かめなければならないことがある。どこぞから朧げながら劈く泣き声が轟きはしまいかと耳を澄ましも、鼓膜を震えさせるのはただ兄と自分の息遣いのみで。

「あの、」

 脳裏を浸食する恐怖に慄きながらも一筋の光芒に縋りながら、砂漠さながらに乾ききった喉を絞ると、薄い口元から吹き付ける微風はしばし止まった。

「あかちゃん、は……?」

 神の玉座に嵌められた貴石よりも輝かしい虹彩に深い翳りを落とす、長い睫毛が伏せられる。背に回された腕に込められた力は骨が折れるのではと危惧してしまうほどであったが、歯を備えぬ乳児の糧たる液体で張りつめた胸の奥を締め付けたのは、もはや確信となった絶望であった。

「――死んだ」

 逡巡し、懊悩しながら告げられた真実は、脆い魂に肉体に科せられそれを凌駕し忘却させる痛みを齎す。星明かりにも似た幽き希望を養分とし育まれていた薔薇は踏み潰され、垂れ下がった眦からは色のない花弁がはらはらと散る。蟠り、縺れ、言葉を紡ぐという責務を放棄し一個の肉塊と成り下がった舌は、こみ上げる悲嘆の苦味にひりついた。

「生まれて間もなく。私が顔を見た頃には、あれは息をしていなかった」

 ――父上の母は三番目の子を難産の末に死産し、自身も命を落としたのだ。

 知ってはいたのだ。産み月まで無事に母の胎で育っても、勇ましい産声を発しも、その無垢な瞳に輝かしい太陽を映す間もなく死んでいく赤子がいることは。あるいは、母体の中で儚くも潰えてしまう果実が存在することは。たとえつつがなく生まれ落ちても、病によって、夜露同然にこの世から消え去ってしまう虚弱な命があるのだとも。しかし、自分の子供がそのように生まれるなんて考えたこともなかった。

 父母の情交によって揺籃を揺り動かされながらも、頑強に自分の腹で微睡み続けた子は、生まれさえすれば健やかに成長するのだと信じて疑っていなかった。なのに、愚かで惰弱で罪深いダーシアを母として選んでくれた子供が、死んでしまったなんて。

 夜毎襲い掛かる苦難にも負けなかった子の息吹が絶たれるなど、原因はただ一つしか考えられない。

 ――私の罪が、跳ね返ってきたんだ。

 用をなさぬ舌に代わって悶えたのは、硬い地面に叩き付けられた陶器の器となった心であった。

 自分は兄から、彼が何よりも大切に想っていた母親を奪った。なのに、自分だけが望む者を――子供を得るなんて、あまりにおこがましい願いであったのだ。子も、母の浅ましさに幻滅し、悪魔よりもおぞましく欲深い母の腕に納まるよりはと、全ての魂の根源たる神と天使の許まで踵を返したのだろう。意識が粘ついた暗黒に絡め取られる前に耳にした産声は、自らの弱さが編み出した幻影であったのだ。

 唯一神はダーシアを罰するためだけに子を遣わしたのかもしれない。愛しい者を残酷に奪われる嘆きを愚昧な自分に真に理解させるためだけに生み出された若芽は、その任を果たすために神の指によって冷酷に摘み取られたのだとしたら。子を儚くしたのはやはり全てダーシアに帰せられる咎である。

「……ごめんなさい……」

 とめどなく、泉さながらに溢れだす嘆きに溺れながら吐き出したのが、誰に向けた謝罪であるのかは判然としなかった。己の罪業を背負って闇に消えた我が子なのか。崩れ落ちる肢体を掻き抱いてくれている兄なのか。はたまた己の愚かしさによって苦悶の淵に追い込まれた女性であるのか。あるいは、彼らの全てに手向けたものであるのかすらも。

 子を喪って始めて、魂の奥底から理解できた。己の命よりも大切な者を奪われるのは、生きながらこの身を千々に引き裂かれるよりも耐えがたい。ダーシアは己が手で敬慕する母を屠らねばならなかった兄の苦しみを呑みこんだつもりでいたが、その実彼の悲哀の一端すらも噛み砕いていなかったのだ。

 その手を母の血で染めたエルゼイアルは、凄惨な別離に哀悼を捧げる最中であっても一粒の激情も零さなかった。だから、ダーシアには涙する権利すらもありはしないのに、嘆きの堤は既に奔流に押し流され決壊してしまっていた。

 自分たちが少年と少女であった時分に。あるいは、閨でそうするように、引き締まった首筋に顔を埋める。男の肌をも濡らす改悛と喪失の雫は、生命の泉から溢れているのだ。誰よりも愛おしい異母兄を苦しめ、我が子は死に追いやった自分の息の根など絶えてしまえばいい。

 ダーシアを愛する者などこの世にも神の楽園にも、はたまた地獄にすらいやしない。なのに何故、もはや誰にも望まれぬ自分がのうのうと息をしているのに、兄の母親は我が子の命の炎は掻き消されてしまったのか。

 私の命なんて、いっそこのまま全部枯れ果ててしまえばいい。生命を流し尽くして、何も感じない石になってしまえばいいのに。

 自らの愚かしさを、己という存在そのものを呪詛しながらひび割れた唇を噛みしめれば、染み入る熱に苛まれた亀裂は忸怩たる呻きを発する。月の障りにも似た異変の名残りも、息むあまり犬歯で突き破ってしまった口元のひりつきも。己を取り囲む全ては子がいないのならば虚しくて仕方なかった。

 おどろにもつれた黒髪を梳き、あやすように、慰めるように動く白い指を除いては。

「ダーシア」

 繁茂したいばらさながらの毛の束が、艶やかな大輪を構成する傷つきやすい一片であるかのごとく漆黒の毛先と遊んでいた指は、やがて形良い頤を持ち上げた。少年の頃そのものの仄かな笑みが刷かれた薄い唇と触れ合ったのはもはや星の数に匹敵するであろうに、その美しさに目を奪われずにはいられないのはなぜなのか。

 幼かった頃を想起させる接吻と愛撫は、砕け散って陶片となった心をかき集め、歪につなぎ合わせる漆喰となる。互いの唾液に塗れた唇をどちらからともなく離しても、ふたたびどちらからともなく求めてしまう。干上がった口腔に染み入る唾液が潤し侵食したのは、喉を筆頭とする肉体だけではなかった。

「もう、泣くな。身体に障る」

 ダーシアには、兄がいる。子供にすら見離された咎人である自分に慈悲の手を差し伸べてくれる、優しい兄が。

「……あにうえ」

 エルゼイアルさえいれば、ダーシアはもう何もいらない。兄に縋らねば、彼から離れては生きていけない。兄に憎まれているのだとは分かり切っているけれど、彼の傍らに寄り添い、甘やかな恍惚を交わせるのなら。ダーシアにはもうそれだけで十分なのだ。そして、唯一となった願いは既に叶えられている。兄と妹として、男と女として抱き合うことができる。自分たちが睦み合っていても嘲弄する者のない世界は、何と穏やかで満ち足りていることか。

 ダーシアは戻って来たのだ。自分と異母兄だけの完成された世界に。兄の優しい腕の中に。やっと、帰ってこれたのだ。

 帰還の喜びに、一層豊かになった曲線をなぞる手つきは歓喜を呼び覚ました。

「今はとにかく体を癒すことに専念しろ」

 兄の脚衣の前を乱さんとした手は阻まれてしまったが、窘める調子は諭すように柔らかい。

「お前は七日も目を覚まさなかった。今一番にすべきことは食事と睡眠だ。戯れは、それからでも遅くはなかろう?」

「……はい」

 駆けつけてきた老婆たちの眼前であるにも関わらず、口移しに与えられた肉汁とすり潰した果実ではない滋養を注がれた身体は、程なくして疲労を訴えた。出産の以前は気は進まねどもつつがなく行えていた食事という日常すらも、現在のダーシアにとっては苦役となる。

 情交という愛妾としての唯一の勤めすら満足に果たせなくなった自分の許に、兄は訪れてくれるだろうか。他の女を囲いはしないだろうか。

 退けがたい不安に襲われ、やはりせめて口でだけでも奉仕せねばと激痛にふらつきながらも去りゆく背を追いかければ、呆れを滲ませた苦笑に凛々しい口元が緩められて。

「何を恐れている?」

 兄は部屋の半ばで蹲ったダーシアを抱き上げ寝台まで運び、捲れた上掛けを被せてくれた。

「お前は私のただ一人の妹だろうに」

 張り付いた前髪を掻き分け、汗ばんだ額に押し付けられた唇が紡いだのは就寝の挨拶であって。

 とにかく休め。また来る。

 剣に鍛えられ硬い指先に触れられてすらいないのに、下された宣告の真意が広がった脳髄は蜂蜜よりも甘く蕩けて陽光を浴びた牛酪になる。

「あの、あにうえ」

「どうした?」

「私が眠るまで手を、握って……側にいてくださいませんか?」

 まして悪夢の予感に怯え震える嫋やかな手を、硬い掌に包まれれば。閉ざした目蓋のあわいからは感涙が沁み出で、蒼ざめた褐色の頬を穢す。けれども、懊悩の証を舐め取る舌が、拭う指があるのなら。いずれぶり返すであろう離別の苦痛も、ほんのしばしの間は忘れられた。

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