後日譚

落涙 Ⅰ

 垂れ込める暗雲に遮られているためなのか。真昼のものにしては薄暗く心もとない陽光が射し込む一室は、全くの空虚であった。

 ほんの二か月前まで、黒髪に褐色の肌の女が横たわり己の訪れを待っていた寝台も。彼女の身を飾った衣装を納めた櫃も。妹自身はさして必要としていなかったであろう小卓も。その上に置かれていた花瓶も。ダーシアの名残を濃密に留める品々は、妹の葬儀の後に速やかに打ち捨てさせた。だからこの部屋には、妹の面影など何一つ残ってはいないのだ。彼女が好んだ薔薇の芳香すらも、既に消え失せてしまっている。

 決して口に出して強請りはしないが、妹が愛用していただろう香油を用意させるのは容易い。だが、もう二度と触れられぬ癖のない髪が漂わせていた香りは、決して蘇りはしないのだ。

 王室礼拝堂の片隅の粛然とした一画を終の褥として微睡む女の深い琥珀色の肌から立ち昇る匂いと入り混じってこそ、あの淫蕩さにはどこか少女めいた甘やかさが加わっていたのだろう。事実、妹の喪が明けた直後、廷臣たちがエルゼイアルの閨に送り込んだ女に妹の香油と同じ品をふりかけても、あまりの差異に興を削がれるばかりであった。

 なるほど、六年の長きに渡り囲い続けたただ一人の愛妾を喪った己の慰みとすべく家臣たちが選び抜いた花々は、ある意味では己の腕の中で儚く散っていった女に勝るのやもしれぬ。

 華やかな黄金の、あるいは温かな栗色の髪はいずれも艶やかで。染み一つなく滑らかな肌は真珠と紛うばかりで、澄み切った青や緑の双眸がその白さをよく引き立てていた。だが己が統べる国の基準では美しいとされる彼女らの輝きはいずれも、月も星もない真夜中の闇を己の裡から散らすには及ばなかったのだ。

『あにうえ』

 目蓋を降ろし、耳を澄ませれば、未だに妹の声が聞こえる。どこか舌足らずで、僅かに鼻にかかった響きに軋んだ胸は、柔らかな肢体をすり寄せられる幻に引き裂かれた。あの嫋やかな腕も、女性美そのものの曲線を描いていた胸と腰と腿も、冷ややかな石の下で朽ち果ててしまっているはずなのに。

 他ならぬエルゼイアル自身が妹を死に追いやったのだから、己の心臓に針が突き刺されるなどあってはならない。孔雀の飾り羽に似た濃い睫毛に覆われた目蓋が、黒曜の双眸を永遠に覆い隠した瞬間の暗澹から逃れるために目をこじ開け、掌に爪を食い込ませても、やつれた面でほころんだ少女めいた笑みは魂に焼き付いたまま。

『――私も』

 妹の最期を見届け、妹の最期の言葉を聞いた品々は全て処分させた。残るはこの部屋のみとなったが、王宮の威容の一画を成す宮は、たとえ王であろうとも思うがままにできない。蘇る幻影から逃避する唯一にして最良の術は、エルゼイアル自身が妹の臨終の場となった部屋から立ち去るのみ。

 これ以上、この部屋にいてはならない。

 整った唇を引き結び踵を返した王を見送ったのは、かつてこの部屋で佇んでいた女ではなく、硬い指先から滴った一滴の紅である。政務の息抜きという名目で死した女の居室に通う王を、臣下や城下がどのように揶揄しているかを探るのもまた困難ではないが、あえて確かめようとも思わなかった。

 定刻に先んじて入った謁見の間には、既に贅をつくした装いに身を包み、化粧を施した娘を従えた諸侯たちでひしめいている。

「陛下。我ら臣下一同は陛下の傷心の快癒を心より祈願し、陛下の安らぎとなる女性を我らの女主人として迎えたく欲しております」

 彼らの代表が膝を折って上奏した文句と暗黙の要求は、己が民全ての心情を代弁していた。

「ここにいる娘たちをご覧になってくださいませ。美しさこそは陛下ご自身の美貌には及びませぬが、いずれも心映えは優しく立ち居振る舞いは淑やかで聡明な、血統正しい娘たちです。彼女らならば、神と陛下が御恵みをくださるのならば、今宵にでも陛下のお世継ぎを身籠れましょう」

 六年前の謀反の和睦の証とすべく、また彼女が広大な所領を受け継ぐ女相続人であるという打算もあり、未来の妃として選定した北部貴族の娘は未だ十を一つ越えたばかりの幼女でしかない。

 ――未だ正式な婚約も結ばぬ彼女の夫としての権利を主張し、既に大部分を掌握した領地の相続人など捨て置けば宜しい。そして今すぐにでも子を産める成熟した娘を妃とすべきです。

 忠臣の顔を張りつけ、エルゼイアルの耳に彼らの娘や妹や親類縁者の娘の名と讒言を囁いた諸侯たちの焦燥は理解できなくもなかった。

「陛下の御学友であるアルヴァス侯は、あの東国の女との間に後継となる息子を儲け、領民を喜ばせているではありませぬか」

 己を焚きつけるためにか引き合いに出された友の声がこの宮殿に轟いていた日々ももはや遠い。

 管理を任せていたアルヴァスの地を、課した命をつつがなく果たした褒賞として友に与えた五年前から、オーラントはエルゼイアルの傍らに常に付き従うことは無くなっていた。他ならぬエルゼイアル自身が、領主にするという名目で彼を己から遠ざけていたために。また、オーラントが妻を迎え父となったために。

 数年前、正式な国交を求め使者を遣わした東方の公国から蜜と毛皮の貢物と共に贈られたのは、彼の地の土豪貴族ボヤーレという血統を誇る娘であった。その意図を察しながらもあくまで客人として彼女を遇する間に、オーラントと娘が恋仲になったと、ゆえに彼女を下げ渡してほしいのだと懇願された際の衝撃は未だ記憶に新しい。

 友の未来を言祝ぐことは赦されずとも、与えるのは構わないだろう。元よりさしてどころか全く欲していなかった女だ。この王宮で若さを浪費し朽ち果てるよりは、善良な友の伴侶として迎えられる方が幸福だろう。何より、一切手を付ける気を抱かぬとはいえ、いつまでも宮殿に女を留めれば妹が嘆く。

 様々な思惑を考慮した末でとはいえ、自らが認めた婚礼が実を結んだ喜びは俄かには表しがたいものであった。だが、言外に死産・・のために身体を壊した妹と、産後すらも精力的に領主夫人の大任を果たしていたと聞く友人の妻を比較されては。

「陛下に子種があることはこの家臣一同、皆理解しております。五年前にお生まれになった御子息は、育んだ苗床ゆえにあのような結果になったのでしょう。しかし今度こそ、」

「そなたらの忠誠は何にも代えがたい宝として受け取ろう。だが、私の妃は既に決定している」

 妹を貶める発言を聞くに堪えず、途中で遮り自らの意志を突きつければ、眼前の諸侯もその縁者の娘たちも皆血相を変えて容赦を求める。

「よい。そなたらの言葉は全て私への忠誠ゆえに出た言葉なのだから」

 ――だが、二度を言わせるな。

 蟹でもあるまいに泡を吹かんばかりに慌てふためき、己の外套の裾を掴んで引き留めんとする臣下をあしらい進むのは、王の執務室に他らない。亡き父が存命であった時分は友と共に幾度となく歩んだ回廊の彼方では、秋の薔薇の紅が燃えている。

 それを何より好んでいた女が死しても、変わらずに花は咲く。彼の虹彩の明るい色彩とは似て異なる緑の葉の影に潜む蕾が艶やかな大輪となる頃には、友は必ず王宮に駆け付けてくれていた。名目上は領地の管理の仔細を報告するためと銘打たれていたが、友の出仕の真実は不甲斐ない己を案ずるがゆえであったのだろう。

『――それだけは、なりません』

 友の忠義を踏みにじり、あまつさえおぞましい罪を犯させた自分への憎悪と怨嗟を、あの穏やかな瞳に見出すことを恐れるがあまり。エルゼイアルはかつてと何一つ変わらぬ忠誠と友誼をもって己に接する友に対してすら厚い壁を設け、その内側でただ妹との愛欲に溺れた。数多の家臣の誰よりも篤く自分を想ってくれていた友の良心を犠牲にしてまで。

 蘇る。友の驚愕が。妹の絶叫が止んだ後に大気を揺るがせた、勇ましい産声が。兄と妹の間に生まれたにしては力強い声は、虚弱とはかけ離れていた。

 あの日、子は無事に生まれていたのだ。産湯で清められ、清潔な布に包まれた四肢は健康そのものであった。だが、他らぬ父であるエルゼイアルが彼の息吹を絶やしたのだ。


 ――流せぬのならば、生まれてすぐに、私の手で屠ってしまうまで。 

 禁忌の芽が妹の胎に根付いたとの報を受けたその瞬間から、エルゼイアルはその芽を摘んでしまうつもりであった。だが、殺害を決意した真の理由は、母を苦難の末の死に追いやった妹から最愛を取り上げるためでは断じてなかったのだ。

 いつも、いつまでもエルゼイアルだけを見つめているはずの妹が、穏やかに満ち足りた笑顔で胎内の子に語りかける。組み敷き貫いている最中よりも生気に溢れた顔を妹に浮かべさせる存在への憎悪は、妹の腹と歩調を合わせるがごとく膨らんでいった。

 ダーシアに抱いていたものとない交ぜになった怨嗟を晴らすには、彼女の目の前で温かな生命の塊を石同然の冷たい躯とするより他ない。頼りない首の骨を己が手で折るも、腰に佩いた剣で刎ねるも、いかようにも手段は採れる。

 辿る末路を悟っていたからこそ、子は安らかな胎内に少しでも長く留まらんとしていたのだろう。だが、彼はついに母の腹から這い出て、父の腕の中に納まった。

「殿下……」

 妹と同じ黒髪と褐色の肌の赤子の瞳は安らかに閉じられていたために、色彩は判然としなかった。妹の黒か、己の緑か。はたまた、自分たち兄妹には表れなかった、彼のただ一人の祖父の淡い青なのかは永遠に判ぜられない。

 冥府とこの世の境で彷徨う妹の許に駆け寄る前に、いずれかの手段を実行することもできたはずなのに、できなかった。明白に母の特徴を受け継いだ赤子の姿が、空気を求めて喘ぐ妹と、この手で喉を突いて苦しみを終わらせた母の断末魔の姿と重なってしまって。妹の首に手を掛け、死の極限まで締め上げたあの日。静謐に凪いだ瞳に見つめられた途端、張りつめていた殺意の糸は断ち切られたのと同様に。

 自分にはあの赤子の生命の灯を掻き消すなどできはしない。

「貴方が殺すとおっしゃっておりましたから、父である貴方の手にかかるよりはと思い殺害しました。亡骸は既に埋めてしまいましたが、掘り起こして確認なさいますか?」

「良い。――要らぬ苦労をさせたな」

 だから、瀕死の妹に付き添っている間にオーラントが子を処分したのだと知って心の底から安堵した直後、己が弱さと醜さを恥じずにはいられなかった。

 自分は、母の復讐を果たすために妹を陵辱したのではなかったのか。母の魂を慰めるためには、子を殺したのは――真に手を下したのはオーラントでも、それを行わせたのは紛れもなくエルゼイアルであるから――私なのだと、妹に突き付けるべきなのに、できなかったのは何故なのか。

 ――貴方はそんなことをしなくても良かった。妹君は母親と同じ方法で殺してしまうべきだったのです。

 そもそも、母が味わわされた汚辱を雪ぐためならば、オーラントが指摘したように、妹も拷問し処刑してしまえば済んだろうに、それをできなかったのは……。

『わたしの兄上』

 エルゼイアルはかつて妹を何よりも大切に、愛おしく想っていた。禁忌と知りつつ逢瀬を、唇を重ねていた。女として発達しつつある曲線をなぞり、露わにした素肌に魅入られていた。偽りの死に引き裂かれていなければ、遠からず半ば強引に妹の純潔を奪っていただろう。 

『あ……にうえ、こわ、い……』

 一度は断ち切られた長年の夢想を現実にした瞬間は心が躍った。昏い歓喜が命ずるままに破瓜の血を流す肉体の最奥を穿ち、精を注ぐ。当初はひび割れていたがやがて甘やかになった喘ぎは、何物にも代えがたかった。

 目を覚ましたダーシアが死産・・を受け入れ、ついに彼女が戻ってきた日。エルゼイアルは苦い後悔を味わいながら狂喜し、そして真実を隠したまま二人でぬるま湯のような悦楽に溺れたのだ。

 神に禁じられていようが、彼女と共にいられて抱き合っていられるのならそれで良かった。しかし母の非業の死の原因に愛しいなどと伝える裏切りを犯せるはずもなく、赦しの言葉一つ与えてやらなかった。そして燻る罪悪感は妹と手足を絡ませ合う最中すらも全てを明らかにすべきだと訴えたのに、子を奪った者が誰かを知った母親の反応を恐れた。

『兄上』

 幻の紅唇が緩やかに開く。エルゼイアルが犯した罪を知ったダーシアが最後の力を振り絞って伝えてくれた言葉は―― 

 握り締めた掌に刻まれた生乾きの傷からは、ほんの少しの刺激で再び血が滲み出すだろう。しかし王は躊躇いなく掌に爪を喰い込ませ、傷口を抉る。

 今ならば認められる。エルゼイアルは母の復讐を口実に妹を抱いた。復讐心から殺意を引き離し、思いとどまった代償として禁忌の情交を思いつかせたのは、彼女との日々が育んだ執着心と唯一の肉親の喪失への恐れ。エルゼイアルは母の無念と己の醜悪な情欲や愉悦を秤にかけ、あろうことか後者に重きを置いたのだ。

 子を生かしていたら、ダーシアは今でも生きていたかもしれない。生きようと努力していたのかもしれない。妹は子供の誕生を心待ちにしていたのだから。

 幾度となく脳裏に過った仮定は猛毒となって王を苛む。

 ――あの子供とて、生を望んでいただろう。

 兄と妹の間にできたのは息子の罪ではなく、母を守り切れなかった咎を妹に擦り付けたエルゼイアルの罪。母に手をかけ、あまつさえ彼女の死を利用して欲望を晴らした自分は、妹などより余程罪深い。

 滴る血は執務用の机の、磨かれた木目を穢す。紅に浸食される白い手は、母の血を身に浴びた際に見下ろした己が手を思い起こさせる。

 母を兵士たちに陵辱させ、痛めつけたタリーヒの所業は決して赦しはしない。あの女にはあの最期が似つかわしかったのだ。しかし、そもダーシアは咎められるべきだったのだろうか。

 穏やかでおとなしい一方で気が弱く臆病な妹が、タリーヒに逆らうなど不可能だったろう。一切の教養から縁遠い環境で育った妹は文字を解せず、書状に認められた唾棄すべき企てを阻止することもまた不可能だったはずだ。そして、妹をそのような女にしたのは、彼女を己の籠の中の鳥にせんと欲したエルゼイアルなのだ。

 母の非業の死を招いたのは、エルゼイアルの獣欲であったのだ。

 母を喪ってしばらくは、母の死を招いた者たち全てを恨み――憎んでいないと息ができなかった。しかし憎悪は、短慮がもたらした取り返しのつかない過ちの弁明にはなりはしない。

 謝罪したい者たちのうち二人はもはやこの世にはいない。エルゼイアル自身が殺したのだから。オーラントも、内心ではエルゼイアルを嘲っているだろう。母を、妹を、子を死に追いやった外道だと。今さら彼に頭を下げたところで、ダーシアを虐げた己だけが都合よく赦されるはずもなく。

 早くても翌日、オーラントはこの部屋に時節の挨拶を述べに訪れるであろう。昨年までならば、堪えられた友の誠実な眼差しを注がれる痛みを、今の己が堪えられるのか分からなかった。

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