帰還 Ⅱ

 曇りなき菫色の夜は黄金の光芒に地平線の彼方に沈められる。蜜のように滴る輝きは漆黒の瞳を眩く突きさし、濃い睫毛に覆われた目蓋を震わせた。明けきらぬ薄闇に覆われた王都は未だ微睡みから覚め切れていないが、甲冑さながらに厳めしい城壁の見張り台では、幽き朱が揺らめいている。

「では、お入りください」

 甲冑を纏った衛兵により城門が開かれ、己が乗った馬車が呑みこまれた瞬間。早朝の寒気によるものではない震えが褐色の肢体を襲った。王の庶子は長く離れていた城の威容の懐かしさに目を細めるでも、初めて目の当たりにする全容に感嘆の溜息を吐くでもなく、ただ厚手の外套を纏う己を掻き抱くのみ。羊の和毛にごげのみを乙女の嫋やかな手によって縒り合され、織りなされた毛織物は、が纏う衣服の意匠どころか身体の線すらも曖昧にしていた。

 王の子が己の厚みのある胸に手を置き、いかにも苦しげに、呼吸すらままならぬと言いたげに荒い息を吐いているのは胸を病んでいるからなのか。ふっくらとした唇の、肺腑からこみ上げる鮮血を塗りこめたかのごとき紅さと艶は、蒼ざめた頬と著しい対比を成していた。

 王国の執政の場である外廷は、それだけでも小規模な街に匹敵する。この北方の地で幾つかの部族国家が覇を競い合っていた時代は、王城と王都は同義語として用いられていたほどに。

 同じ神話郡の別の神を崇める一派。あるいは峻厳なる峰を越えて襲い来る南方の民。何より圧倒的な軍事と文化の力によって自分たちを支配し魅了した西の帝国の軍勢に責められれば、苛烈なる太陽神の守護を恃む民草は己が家畜や資産を携え、騎士身分の筆頭たる「王」が守る城の内に籠って嵐の終わりと反撃の機会を窺った。

 祭司の下に位置する者であり、彼らの一声で贄として捧げられるべく玉座から引きずりおろされる存在であった王たち。彼らの権勢が帝国の援助によって育まれ、ついに聖なる宿木の冠を被った者たちを従えるまでに、新たな囲いは設けられては壊された。

 破壊と創造を繰り返すごとに都は拡張し、宮殿は増築される。水晶か氷と見紛うまでに澄み切った硝子はすぐに紗幕で覆われ、王の子は落胆に妖艶な美貌を嫋やかな手で覆った。この膨大な時と様式がひしめき合う城で、望む者の影を見出そうなど無謀が過ぎるのだとは分かっている。だけど、一目だけでもいいから会いたかったのに。

「いいこと?」

 我が子の細やかな犯行を目ざとく捉え、しなやかな二の腕を握り締めた女の声音には喜悦が滲んでいる。

「お前は一言も喋らないで、ただ黙っていればいいのよ。……お前は長旅のせいでぶり返した熱で息も絶え絶えの重病人・・・なんだから、安静にしていないとね」

 言葉を発するどころか首を振る気力すら湧き起こらず、ただひたすらに唇を噛みしめていると、思いがけない衝撃が背筋を凍らせた。

「理解したのなら相応の反応をなさい。でないと、」

 嫋やかな、けれども無慈悲な指先が柔らかな肉を抉る。二枚の爪に挟まれた薄皮はいずれ蒼く染まるだろう。

「は、はい……」

 涙に濡れ艶めいた花弁を割って出たのは、恭順と怯懦の何よりの証だった。形良い頭部は嘆きに傾ぎ、御者の鞭の一振りとともに制止した馬車は不快に揺れる。春の花が咲き乱れる至福の庭園に、王とその家族のための宮についに帰還したのだ。

「タリーヒ様。ヴィード殿下、此度のお帰りは真に喜ばしく、」

 十を越える歳月を城内で過ごした身には不要であるが、形式的に付けられた案内役の女官は、顰め面を隠そうともせぬまま王の庶子とその母を見やる。

「思ってもいない世辞など結構よ」

「……左様でございますか」

 ――流石賤民は不作法なものだ。表面ばかりは絹の服や宝飾品で繕えても、内側の粗野は如何ともしがたい。

 深い皺が刻まれた頬にありありと乗せられた侮蔑は、しかしすぐに焦燥にとって変わられた。

「そんなことより、早くこの子を休ませなさい。ヴィードは長旅で疲れているのよ。この顔色を一目見れば分かるでしょう?」

 肩でか細く息をし、女にしては背が高い母に凭れかかって己が身体を支える王の庶子に万が一があっては、と危惧したらしい。己が世話を担う王の子が徒に若き生命を散らせば王からの叱責は避けられず、己が親族にまで断罪の刃を突きつけられる事態を招きかねない。

「承知しました。では、どうぞこちらへ」

 いささか早急に、けれども貴婦人に相応しく優雅に歩を進める中年の女官は、清潔に整えられた寝台が据えられた部屋に母子を招く。

「こちらで心ゆくまでお体をお労りくださいませ。お望みの物がございましたら、申し付けくだされば何なりとご用意させていただきます。無論、王子のご看病も」

「随分と殊勝なお心づかいですこと。でも、結構よ」

 積もり積もった疲労に耐えかね、ついに崩れ落ちた我が子の身体を安らかな寝台に横たえた女は、肉感溢るる唇の端を嫣然と吊り上げた。 

「この子の看病はわたくしと、後でアルヴァス侯が連れてくる下女――マーリカという名の、わたくしと同じ出自の娘よ――だけが行うわ。慣れない者の看病はこの子の心身に負担をかけてしまうから」

「はあ」

「あと、アルヴァス侯の小姓のシュゼシスという少年がいるのだけれど、彼はこの子の話し相手なのよ。だから彼が訪れてきたら、この子の部屋に通してやりなさい」

「畏まりました」

「だけどお前たちは、わたくしの許しなしにヴィードに近づかないこと。いいわね?」

 親子の世話をも申し付けられていただろう女官は、束の間の主の命に従って立ち去る。本来ならば己が足元に跪くべき下賤に傅かねばならぬ屈辱に戦慄く後ろ姿が、しかし変わらずに軽妙な足音が消え去ると、母子の間には過ぎ去ったはずの冬の冷気が流れた。

「ダーシア」

 王の愛妾は、六年前に早逝したはずの娘の名を吐き捨て、夜具から怯える娘を引きずり出す。二度、三度と打擲された頬には赤みが戻ったが、それは健康の証と成りうる類のものはなかった。

「もう一度教えておくけれど、お前のお兄さまに助けを求めようとしても無駄なのよ」

 残忍な指が力なく萎えた手足を投げ出す娘から、王の子が纏うに相応しい豪奢な長衣を、胸元に巻きつけられていた布を剥ぎ取る。緩められた麻を押し上げ、零れ落ちた乳房は折れんばかりに引き締まった胴と反比例していた。成人した男の両の掌であっても覆いきれぬだろう豊満な双の山は、ダーシアが身じろぎすればゆさりと振動する。同じく豊かで張りのある腰と太腿もまた、甘ずっぱい香気を漂わせる花の盛りの娘特有の曲線を描いていた。

 タリーヒはかつての己そのものの、男ならば求めずにはいられぬ蠱惑を放つ裸体には仕立ては良いが華やぎに欠けどことなくみすぼらしい装束を、くっきりと妖艶に整った面には黒い面紗を投げつける。

「ここにはお前の味方なんて一人もいない。このことはよおく覚えておきなさいね、マーリカ」 

 そして、蹲る娘を振り返りもせずに部屋から出た。

 胸部を圧迫する布と、母。二つの息苦しさの源から解放された娘は、この六年ですっかり馴染んだ粗末な布地で瑞々しい肌を隠す。母は夕刻にでもマーリカになったダーシアを女官たちに引き合わせるのだろう。マーリカは朝方、彼女たちがこの区画から下がった直後、入れ違いに到着したのだと。

 ダーシアは、若かりし頃の母そのものの、母との血の繋がりばかりが現れた造作を隠すために顔を面紗ベールで覆った姿を女官たちに示さなければならない。見るも無残な病の痕を隠すためと偽って。ただそれだけでも身がすくむのに、母は己に更に何をさせるつもりなのだろう。考えるだけで憂鬱で、立っていることすら耐えがたい苦痛となる。もう何もせずに眠っていたかった。

 ――でも、今日は会えなかったけど、私は兄上の側にいる。

 異母兄エルゼイアルは数えで十五の齢を迎えた四年前に正式に立太子されている。同年に王国北部の半島で生じた小規模の反乱を巧妙な指揮と交渉によって鎮圧して以来、王都と戦地を行き来する労苦を強いられているのだと、ダーシアは知っていた。 

 曽祖父である初代の王が建てた国。祖父である先の王が獲得した広大な領土を、父である現王に代わって守るために軍勢を引き連れ奔走する青年は、近年はその絶世の美貌で春の祝祭に光輝を添えることすら稀になるまでの奔走を強いられているのだと。戦地から帰還してもなお、加齢による衰えのためにか床に臥しがちになった父に代わり、盛んに高官たちと論議し、弱きを救うべく政務を執り行っているのだと。

 国民は暗愚ではないが英明でもない現王の、概ね二十年に及ぶ平穏ではあるが華やぎに乏しい治世にとうに飽いているのだと、ダーシアは母の嘲笑混じりの独り言を通じて知っていた。民草の願いが現実のものとなり、蟠った倦怠を吹き飛ばす新たな風が宮殿から王国中に吹き渡る日は近いのかは未だ不定であるのだとも。

 だがこの世の誰よりも、自分自身よりも愛おしい兄は王となり、そして妃を娶るのだろう。たとえ半分だけでもエルゼイアルと同じ血を共有するダーシアには決して与えられぬ幸福を許され、王妃として若く美しい王の隣に立つのは王国北部の有力な貴族の娘だろうと専らの噂だった。四年前に反乱に象徴されるように、一つの国となってから概ね百に等しい時が流れてもなお王権に完全には服従せぬ北部と、断ち切りがたい縁を結ぶために。

 兄が、自分ではない女を掻き抱き、自分ではない女の耳元で愛を囁き、自分ではない女にくちづける。いつか必ず訪れるだろう未来を想うだけで、はちきれんばかりに膨らんだ胸は幾度となく引き裂かれた。ましてや、兄がダーシア以外の女の身体に触れ、その線を、その肌の甘さを確かめるだなんて。

 下腹の、子を育む臓器からこみ上げる炎は瞬く間に勢いを増し、娘を包み込む。嫉妬に炙られる苦悶は、兄と引き離されて以来は常にダーシアを苛めてきた。

 憎悪に駆られて噛みしめた花弁の、じくじくと陰湿な疼きは過去の激痛を想起させる。教えてくれと乞うてもいないのに、非情な現実を拒絶するために塞いだはずの耳に隙間から忍び込む悪意と揶揄いと共に。

 ――兄上は、私のことを覚えてくれているだろうか。

 娘は砂のような疲労が詰まった四肢を寝台に投げ出す。月のない真夜中を閉じ込めた瞳に過るものは恐怖と不安の翳り。そして一縷の期待の朧な光だった。

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