帰還 Ⅲ

 天頂のほど近くに坐す日輪は緑萌ゆる春の庭園を、生い茂る薔薇の繁みを燦燦と照らす。

 聾か唖。この宮の主の狂態を他者に吹聴できぬ老女たちが磨き上げた大理石は、寒々しいまでの真白であった。

 己が主たる青年の母が、夫である国王と婚礼の式を挙げてより二十四年。オーラントや叔父どころか、主たる王子エルゼイアルよりも長く王城に在り続けた彼女たちは影そのもので、頑なに己が気配を押し殺してしまっている。陽の当たる場所に顔を出し、あらぬ災禍の巻き添えとなっては敵わぬとばかりに。

 ただの一度だけ尊顔を垣間見る名誉を赦された絶世の佳人同様に、時が止まったような――亡き先の王が健在であった時分から潜んでいた蟠りがそここに潜む区画を歩んでいると、いつの間にか息を止めてしまう。

 王家の紋たる竜の姿が精緻に、しかし今にも飛び立たんばかりに雄々しく彫刻された扉。その内側の時の流れもまた僅かながら歪められていて、オーラントたちのものとは隔てられている。

 耳を澄まさずとも聞こえてくるしめやかな嬌声は、夜に属するはずの物音である。肌と肌がぶつかる、乾いているはずなのにどこか濡れていて淫蕩な響きに覚えるのは、羞恥でも躊躇いでもなく使命感だった。

 ――早く殿下の目を覚まさせて、正午の昼餐に間に合うように身支度を整える手伝いをしないと。

 青年は握り締めた拳で扉を叩き、深呼吸する。返事はない。

 胸膨らむまでに吸い込んだ大気を細く長く吐くと、気分が落ち着いた。

「殿下」

 もう一度、今度は先程よりも強く打ち付けた指の付け根はじんと痺れたが、やはり応えはなかった。ただ「ああ、殿下……」や「わたくし、もう……」といった聞きなれた喘ぎが轟くだけで。こちらとは厚い板で隔てられた一室で何事が行われているかを雄弁に物語る喘ぎは止まず、淫靡な水音もまた止まらない。だが、もういい加減に終わらせなければならないのだ。

「おはようございます、殿下! 今日も良い朝でした・・・よ!」

 許しを待たずに王子の寝室に突入した青年の若草の双眸に飛び込んだのは、ある意味では予想通りでまたある意味では予想を凌駕する衝撃だった。

 乱れ皺が寄ってもなお豪奢な寝台には、一糸纏わぬ豊満な女の裸体と、薄物に覆われていてなおしなやかに鍛え抜かれていて、目を奪われる肢体を晒した男の姿があった。

 女の両の足を掴み、片方の脚を肩に付かんばかりに押し付ける青年がその引き締まった腰を打ち付けるたびに、獣じみた絶叫が滑らかな喉から迸る。幾ばくかの後に一層大きく身を震わせ、爪先を反り返らせた女の悦楽に蕩けた面は華やかに整っているのだが、オーラントはいささかの情動も覚えなかった。彼女のものなど比べ物にならぬ、この世で最も麗しい面の間近に六年の長きに渡って在り続けたために。

「で、殿下……。貴方は……、まさか、また……」

 途切れ途切れに紡いだ確信は、小鳥の囀りにかき消されんばかりにか細いものだったのに、饗宴のさなかに身を置く青年の耳に届いたらしい。微かに乱れた息もそのままに、主君は熟れた肉体から己を引き抜いた。発情した猫のそれに似た、催促の啼き声が後を追う。

 純金の前髪の一房を秀いた額に張りつける青年は、女の求めに応じてかオーラントの問いかけに応えるためか、しどけなく四肢を投げ出す彼女を抱き上げた。熱く解れているだろう隙間に己を突きたて、ゆさと揺れる乳房を揉みしだいていた手を形良い頤に移動させる。困惑に瞠られたオーラントの目に、悦楽に緩んだ面が入るように。

 紅い唇の片方の端は噛みしめられすぎたために切れ血が滲み、もう片方からは唾液を垂らされていてもなお美しくはあるその顔は間違いなく――

 己が美貌と野心を頼みに、うだつの上がらぬ下級貴族の夫人の単調な日々から抜け出さんとした、国王の最も新しい愛人のものだった。

「ほんの十日前。南方からこちらに戻ったその日に、同じことをして苦言を呈されたばかりですのに……」

 項垂れるオーラントの様子からもう良いと判断したのだろう。女の顎を掴んでいた指は柔なふくらみの頂を摘み、片方は蜜を滴らせる花弁を弄る。薄紅に上気した項を這っていた舌が耳殻に差し込まれるやいなや、女はしどけなく身をくねらせる蛇に、陸に打ち上げられた魚に、咆哮する狼になった。

 人間を人間たらしめるために神に与えられた道具――言語を彼方に放り投げ、呻く女の情欲の炎でぎらつく双眸とは対照的に、至上の翠緑玉エメラルドの瞳は凍り付いたまま。六年前の冬。荘厳だか沈鬱である鐘の音が鉛色の空を揺るがしたその日以来、友の氷が融けることはなかった。

 初陣を華々しい勝利で飾り、その労を父たる国王に労われても。また、万年雪に覆われた峻厳なる峰を越えて侵攻してきた南方の民に占拠された街から、辛くも侵略者を駆逐した際も。戦場から宮中に舞い戻り、砂塵舞う荒野ではなく絹の寝台に横たわり、彼自身には遙か及ばずとも美しい女を抱いていても。

 ――この女性も、きっと明後日にはここから叩き出されるんだろうな。

 これまでに王太子の閨を彩りはしたが、その胸に情愛の根を張れも、種を結べもせずに散っていった数多の花の行く末を想起し、青年は嘆息する。

 たとえ泡沫に過ぎぬ間でも、色好みで名を馳せる王子の寵愛を受けた優れた女として、一介の町娘でありながら大貴族の正妻に迎えられた幸運な者もいなくはない。だが、それはほんの一握りの例外に過ぎなかった。

 王子のあまりにも早急な心変わりを詰り、けれども愛を乞うて跪き、己が胸に短剣を突き付けてまで慈悲を引きずり出さんとした女たちは、いずれも既にこの世にいない。決して覆らぬ判決に絶望し、それでもせめて己が血潮でもって、氷雪を融かさんとして仕損じたために。

 現王グィドバールは、息子と褥を共にした女、特に一度は己の寝所に侍りながら息子の許に奔った女の肉体には、触れるどころか一瞥すらもしない。ゆえに夫を裏切ってまで栄華を得んとしたはずの、獣の姿勢で夫ではない男を迎え入れ子種を強請る女には、あらゆる者に見捨てられた末の孤独と困苦が待ち受けているのだと決まっていた。そして、整った眉を寄せ果汁したたる無花果を穿つ王太子は、全てを知悉していてなお女を捨てる。泣き叫ぶ彼女の眼前で、新たな女と睦み合う。これまでそうしてきたように。

 程なく訪れるであろう未来と、それに伴うお決まりの騒動には嘆息を禁じ得ない。艶めかしい調子を帯びているはずの何度目かの絶頂の叫びも、断末魔の絶叫めいた代物に聞こえてならず、オーラントはそっと蟀谷こめかみを抑えずにはいられなかった。


 齎される悦びを受け止めきれず、ついに目を剥いて失神した女もそのままに、引き締まった肢体を清める。手ずから運び、かき混ぜ主君が好む温度に調整した湯に浸した布で拭うと、情交の名残りは跡形もなくなった。

 端麗で高貴な面を乗せるに相応しい細身の長身は、生身の人間のぬくもりを備えている。

「また懲りずに陛下の愛人に手を出されるなんて……」  

 整いすぎていて血の通わぬ彫刻めいた容姿に似つかわしく低く艶のある、人々を圧倒するために紡がれる冷ややかな美声が薄い唇を割った。

「まだそれを追求するか。お前も懲りぬな」

「そりゃ文句の一つや二つや三つぐらい出てきますよ。後で陛下の使いの方から小言を頂戴するのは、殿下じゃなくて僕なんですから!」

「途中で切り抜ければ良いだろう? 私から用を申し付けられていたとでも、適当に嘯いておけ」

 母譲りの絶世の美貌を男性的な魅力で研磨した面差しに乗せられると、酷薄で冷淡な笑みもまたこの上ない魅惑を放つ妖魔の微笑となる。

「一つ申しておくが、先に声をかけてきたのはあれの方だ。私は求めに応じてやったにすぎぬ」

「……それはそうかもしれませんけど、求められたとしても、断ればいいだけの話でしょうに」

 六年の歳月を共にしてもなお慣れを赦さない美は、オーラントと共にいる際は僅かに和らぐ。見間違いでも己惚れでもなく、確かに示された親愛の徴――軽快な軽口は王子の上機嫌の証でもあった。

「父上も奇特な方だと思わぬか? ご自身も他人の女を寝取っておきながら、私がご自身に対してそれをするのは非難されるとは。最初に父上の女と寝た際の、あの顔は何度思い返しても滑稽極まりない」

 これだからやめられぬのだ、と片方の口元を吊り上げる友は、オーラントにとっても悪魔だった。

「傍から見てた僕は、生きた心地がしなかったですけどね……」

 時折、オーラントは考える。

 せめて亡き妹と二人きり・・・・で最後の別れを告げようとしては父の命を受けた兵に阻まれ、自身も付き添った葬儀で異母妹の喪失に涙していた少年。彼の脆く傷つきやすい無垢な部分は、幼くして神の許に旅立った少女と共に葬られたのだと。深く深く、息の根を止めるまでに心臓に突き刺さっただろう喪失の痛みを、誰とも分かち合おうともせずに抱え込む友を支えるために、彼の側にいるのだと。それこそが己の使命なのだと。 

「こうして小うるさく私に説教しているのだから、四年前のお前の危惧は杞憂だったのだな。父上は女の一人や二人を寝取ったところで、私には何も言うまい。それを知らぬお前ではなかろう」

 「彼女」亡き今となってはもはやオーラントにしか読み取れぬであろう微かな自嘲には、かけるべき慰めなど存在しなかった。

「……お時間が迫っておりますので」

 真新しく清潔な肌着で精悍な肢体を隠し、脚衣と深紫に染め上げられた上衣で均整の取れた四肢を飾る。しまいに屈んで長靴を履かせ、遠くは東方の豪雪地帯より運ばれた白貂の毛皮を縫い付けた外套を羽織らせれば、完璧な王太子が出現した。見目麗しく文武に優れた、民草の理想の偶像が。

「……しかし億劫だな。今日は父上と、明日はあれとの面会とは」

「明後日は、殿下がお好きな葡萄酒を用意させますので」

「そうか。それは良いが、」

 せめてもの気晴らしを提案すると、引き結ばれていた口の端は幽かにほころぶ。 

「葡萄酒よりも先に、それを夫の屋敷でも父上の寝所にでも、適当な場所まで送り届けさせ処分しておけ。長々と居座られては今宵の妨げになる」

 しかし貪婪に微睡みを貪る女に投げる眼差しは氷柱よりも凍てついていた。

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