別離 Ⅱ

 冷え切った睫毛に囲まれた目蓋をそっと落とした少女に返されたのは、待ち望んだくちづけではなかった。

「――お前、」

 緩やかだが確かな曲線を描く腰を掴まれる。密着した肌から伝わるぬくもりが愛おしく、自らしなだれかかり擦りつけずにはいられなかった。鉛色を切り裂きながら舞い落ちる真白の粒が触れる者を凍えさせるまでに凍てついてさえいなければ、ダーシアはどんなことでもできただろう。兄を柔らかな若草の芝生に押し倒し、あるいは兄に押し倒されて、望むままに互いの体温を分かち合う。自ら服を肌蹴、裳裾を捲り上げ肌を露わにすればエルゼイアルはきっと喜んでくれるはずだ。

 褐色の皮膚と柔肌が内包する魂は、長く外にいては風邪をひく、と近頃は早々に切り上げられてしまう愛撫に飢えていた。あの悦びがなければダーシアは凍えて死んでしまう。

 花と葉が落ちても執念深く茎に残るいばらの棘さながらに表皮を刺す冷気を堪え、熟れ切らぬ青い果実を曝け出す。暗く、血のごとく沈んだ真紅は光の加減によって薔薇の文様が浮かび上がる気に入りの一枚なのだが、生憎ダーシアとエルゼイアルが立つ庭園は雪雲に覆われたままで称賛は期待できそうにない。けれども、ほんの少しでも何がしかが得られれば――よく来てくれた、でも。その服は似合っている、とでも。兄が僅かにでも微笑んでくれさえすれば、既に氷と化していて感覚のない手足を蝕む気怠さを忘れられる。

 潤んだ瞳で見上げた秀麗な面はやはり神の手による彫像のみに許される美を湛えているが、薄い唇は厳めしく引き結ばれていた。胸を見せるだけでは駄目だったのだろうか。

「あにうえ?」

 少女は小首を傾げ、黒い小花が乱れ咲く裾を持ち上げ肉付きの良い腿を曝け出す。

 早く触って、温めてほしい。

 小刻みに戦慄く花弁よりも雄弁に語る双眸。遠くに放られた小枝を咥えて主の足元に舞い戻ってきた犬の、褒美への期待に輝く瞳そのものとなった目はじっとりと濡れ、艶めいていた。

 一切の光を吸い込む黒は、捕らえた輝きを決して離さない。

「お前は、ずっとここにいたのか? もしも僕がここに来なければ、ずっと。雹が降っても、吹雪になっても?」

「はい!」

「そうか……」

 低く通った、身体の芯を蕩かす響きが揺らぐ。降り注ぐ笑いは痙攣的で、その至高の美に滅多に感情を乗せぬエルゼイアルがこのように朗らかに声を上げるのは、久方ぶりのことだった。

 もはや遠い秋の日が思い出される。梢から梢へと自在に飛び移る鼯鼠ももんがこそ、伝説で語られる竜ではないかと怯え、逃げ惑ったダーシアを宥める兄は、ごく普通の少年のように破顔していた。涼しげに切れ上がった眦に涙さえ浮かべ、あの空を飛ぶ栗鼠が人間を攫えるものか、と爆笑する少年は無邪気そのものだったが――

「ど、どうして笑ってるんですか?」

 現在の兄の、整った口元をほころばせた微笑には呆れに隠された憂いが影を落としている。もしや、自分は知らぬ間に兄に無礼を働いたのだろうか。

 不安に翳った黒曜を瞠り、柔らかな唇を噛みしめる。口内に広がるのは鉄錆ではなく憂慮の苦味だが、どちらにせよ不快であることには変わりない。

「お前は、昔から変わらないな」

 甘やかな囁きは膨らんだ胸を締め付け疼かせる。

「ずっと無知で可愛い、僕だけの妹だ」

 生命の源が脈打つ場所からせり上がる幸福は、ダーシアの乏しい語彙では表現しきれなかった。

 不満につんと尖らせられた少女の肉厚の花弁に、彼女のそれとは似ても似つかない薄いそれが押し付けられる。ふっくらとした下の唇の曲線をなぞるのは、淫靡に蠢くくちなわだった。

 染み入る歓喜に酔いしれた少女は、更なる愉悦を求めて赤い蛇を己が裡に招き入れる。歯列の裏の悦楽の隠れ場所から舌の裏側の付け根までを蹂躙されると、下腹が疼いてとても立っていられなくなった。だらしなく萎えた四肢は、しなやかな筋肉を纏った腕に支えられていなければとうに凝った真白に呑まれ紫になっていただろう。

 背の窪みを上下していた手が気まぐれに脇腹を掠めくすぐるたびに、全ての女が生まれ持った虚ろで熾火が燃える。臀部のまろみを確かめるかのように這い回る指が、腿に回り、更にその先に進んでくれれば。片側の氷結した木苺を舐られ、融かされ、齧られていると、千々に乱れた脳内は閃光に焼き尽くされて一面の雪景色になった。

「……冷えていたな。まるで氷だった」

 凍てついた陰鬱な死と眠りの季節の象徴で化粧された侘しい園も、やや癖のある金糸に縁どられた面が和らげば春の盛りの華やぎを取り戻す。

「これを着ろ。そのままでは風邪をひく」

 少年は整った眉を顰め纏っていた黒革の外套を脱ぎ、蒼い頬をした妹の肩に掛けた。裏地に羊毛が縫い止められ、表には王家の紋である竜の威容が描かれた外套は温かいが重かった。

「でも、兄上が寒くなりますよ」

「僕はいい。冬生まれだから寒さには強い。遠慮はするな」 

「そうなんですか? じゃあ、」

 心は兄の気配りのおかげで温まったのに、奥底まで冷えた身体はなかなか元に戻らない。少女は熱を求めてもう一度異母兄に縋りついた。

「……ずっとこうしていられれば寒くないし、幸せですね」

 熱を帯びた瞳と声で、自分を腕の中に閉じ込めている少年に語りかける。背に回された腕の力は痛いぐらいだったが、エルゼイアルに与えられるのならダーシアにとっては苦痛でさえも喜ばしい。

「そうだな」

 名残りを惜しみつつ兄と別れた少女は、芳しい匂いごと外套を抱きしめる。形良い頭の中では濃い靄が立ち込め、狂った鐘撞きが割鐘をひっきりなしに打ち鳴らし始めていて堪えようもなく不快だった。

 胃の腑からせり上がる嘔吐感に打ちのめされつつも重い脚を引きずって自室に帰りついた少女は、湿った寝台に倒れ込む。

 奥底は冷え切っているのに、表面は火照る。歯の根は合っていないのに、べとついた汗が蟀谷から噴き出した。濡れて額にへばりついた一筋の髪が不快だが、髪を払うための僅かな気力すら生じない。 

 ――たすけて、あにうえ。

 全身を駆け巡る熱と悪寒から逃れるために目を閉じる。眼裏に広がる闇の深さに震慄した少女の意識は、そして陽光の届かぬ暗闇に堕ちた。


 ◆


 こけた頬に落ちる濃い睫毛と病魔の影は、一体どちらがより色濃いのだろう。大量に吐血し、倒れ伏してから眠り続ける息子の吐息は蚊の羽ばたき同然にか細く、タリーヒを苛立たせた。自分がこの宮殿に居続けるためには、息子には生きていてもらわねばならない。なのに何故、ヴィードは徒に死に急ごうとするのだろう。

 鋭い犬歯が艶やかに紅を刷いた、頑なな唇を突き破る。

 虚弱なヴィードと愚図で鈍間なダーシア。どうして自分の子供はどちらもタリーヒを煩わせるのだろうか。ザーナリアンは並ぶもの無き優れた容姿と健康を備えた、ある一点を除けば・・・・・・・・完璧な子を産んだのに。

 寝がえり一つ打たずに横たわる息子の容貌は自分に酷似しているが、汗ばんだ褐色の肌の下に潜む管にはあの退屈な男の血も流れている。手の施せぬ息子の弱さも、娘の気質も、全てあの男に因るものに決まっていた。

 横に並んでも己を霞ませぬ程度に整った見目。何より大国の王という地位に魅せられ、当時の男に命ぜられたという事情を差し引いても自ら咥えこんだグィドバールは、外貌ばかりは煌びやかな空の宝箱だ。いくら外側を飾り立てても、空の箱は空のまま。これならば見目こそみすぼらしくとも内側に金貨や真珠や貴石を詰め込まれた入れ物を選んでいれば良かったのだ、と気づいたのはもはや後戻りできぬ――双子の子供を産み、数え切れぬ男に賛美され奉仕させた肉体に消えぬ痕が刻まれた頃だった。

 元来はすんなりと締まっていた腹部でのたうつ蚯蚓と蛇は、未だ己の肉体にしがみ付いている。

 あの女の腹にも、この醜い証があるのだろうか。

 ふと沸き起こった疑問が、女の疲弊した肉体を燃え上がらせる。

 無垢であどけない少女のように、穢れを跳ね除ける処女神のように佇んでいたザーナリアンも、子を孕み生み落とした母親である。同じ男に貫かれ同じ男の胤を宿したタリーヒとザーナリアン。永遠の少女たりうる彼女は、愚かな我が子に関する一切の労苦から解放されている。その上に、自分には在る醜悪な印が彼女にはないのだとしたら――そんなことがあっていいはずがない。あの女はいかに美しくとも女神ではなく、己と同じ人間なのだから。

 金と銀の糸で花鳥が織り込まれた豪奢な衣服を剥ぎ取り、処女雪の肌を己が眼前に曝け出す。そうして泣きじゃくる女の四肢を押さえつければ、タリーヒは楽になれるのだろうか。

 何度も夢想の中で繰り返された饗宴が再現される。押さえつけた女の波打つ黒髪はそのままでも、肌は大理石から琥珀になった。嵌めこまれた一対の翠緑玉も、甘やかな樹脂の茶に変じて。


「お姉さま」

 触れることを躊躇わせるまでに細かった肢体には、豊満な女の肉が実っていた。 

「さようなら、お姉さま。もう二度と会うことはないでしょうね」

 双の乳房を震わせて勝者の哄笑を轟かせる女の、締まった腹部を蹴り上げたいのに、押さえつけられた四肢は指一本たりとも意のままにはならず――


「……さま。タリーヒさま」

 知らぬ間に悪夢に囚われていたタリーヒを救ったのは、いかにも不服そうに特徴のない――彼女や彼女の父はこの掃いて捨てられる程度の顔と肉体で王の寵を得ようと躍起になっているらしいのだから、滑稽なものだ――顔を歪めた女官だった。

 己に劣る女を見下すのは麻薬さながらの愉悦だ。

「……何よ?」 

 あえて立ち上がったタリーヒに差し出されたのは、腹立たしいことこの上ない知らせだった。

「姫様が、ダーシア様がお風邪を召したようなのです。夕餉の時間になっても何も召し上がらぬまま、酷く魘されておいでで」 

 娘の名を耳にした途端、憤りは頂点に達する。 

「ダーシア!? いちいちそんなもののために煩わせないで! あれに熱があるのなら、頭から雪につっこんで冷ましでもしていなさい!」

 機転が利かない女官たちも腹立たしいが、ダーシアは髪を掴み足蹴にしながら宮中を引きずりまわしてやりたいぐらいに厭わしい。あの娘は普段は何一つ問題がない健康体の癖に、どうしてこんな時に体調を崩すのだろう。

 ――この苛立ちも、今度こそ安らかに眠れば癒されるのだろうか。

 女は息子のひび割れた口元に耳を寄せる。幽かだが、途切れない息が聞こえてきた。ならば少しばかりは放っておいても構わないだろう。

 饐えた鉄錆と病魔の異臭が染みついた部屋ではなく、心身をくつろがせる香を焚かせた己の部屋で貪る眠りの甘さは、一刻を一晩にした。

 月が天空の支配者の座から転がり落ち、太陽が空白となった玉座に坐す夜明け。女の荒々しい足取りと舌打ちは、誰の耳にも入らない。

 なぜ女官たちに看病を申し付けなかったのだろう。タリーヒは己の不手際への怒りが命じるままに、軋む扉を蹴破るように開く。

 灯されていた蜜蝋の仄かな甘味など掻き消す鉄錆の臭気立ち込める室内は、凄まじい静寂と暗黒に満たされていた。自分の他には獣一匹いない深い森に彷徨い込んでしまったのかと錯覚してしまうまでの、生命の気配の無さ。

「……ヴィード?」

 女は不吉な予感の赴くままに、手探りで息子の身体を、心音を求める。あえかな一条を頼りに探り当てた肉体は既に生命を喪っていて、まだ仄かに温かい左胸で脈打っているはずの心臓はぴくりとも動いていなかった。

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