別離 Ⅰ

 横たわる少年が黒曜の双眸でねめつける厚い帳は、忍び込む寒気から己の虚弱な身体を守るためのものだと母は言っていた。だが、ただでさえ鉛色の雲に遮られ朧になるばかりの陽光を跳ね除けんばかりの布がなくとも、ヴィードの居室はいつも寒い。

 ほんの少しでも外の景色を目に映せば、病が巣食う胸を刺す不快感も和らぐのではないか。届かぬと承知で伸ばした枯れ木の腕は、しかしすぐに制された。

「駄目だと言ったでしょう?」

 己のものとそっくり同じ、厚みのある唇は三日月型に吊り上げられているが、その端には隠しきれぬ苛立ちが滲んでいた。

「お前の身体にとっては、空気でさえも刃になるのよ。あなたの胸が冷たい冷たい風に切り開かれてしまったら、わたくしはどうやって生きていけばいいのかしら?」

 くっきりとした褐色の美貌はいかにも悲しげに歪んでいるが、母の目元は元来垂れ下がっているのだから油断してはならない。

「……でも、僕は、」

「お前はわたくしを残して死ぬつもりなの?」

 母が真実憐れみ憂慮しているのは己や己の病状ではないのだと、少年は知っていた。庶出ながら国王の息子としてヴィードが与えられた権利――女官たちが姦しく礼賛する、容姿にも才覚にも健康にも恵まれた異母兄に次ぐ王位継承権を己ごと喪えば、もはや父の寵が失せた母は王城から放逐されるだろう。

 愛妾として宮中に飾られるのは、王との間に儲けた世嗣となりうる息子を持つ花のみ。そしてその庶子は、何らかの災禍が正嫡を生命ごと飲みこんだ際、喪われた彼の代わりに玉座に坐し王の血統を次代に受け継がせられる生者でなければならないのだ。

 生きてさえいれば、冷え冷えとした敷布に萎えた手足を投げ出し、幼時より己を蝕む病魔に生命を削られるヴィードであっても王子として扱われる。その母であるタリーヒは王母に成り得る女としてかしずかれる。だがヴィードが死すれば、母は、そしてあの双子の姉は――

 同じ腹から同じ日に生まれ、肉体に刻まれた区別の徴こそ異なれど同じ顔をした少女。けれども己とは対照的に、母の胎で微睡んでいた間にヴィードの生命を吸い取ったかのように健やかなダーシア。誰よりも憎らしい双子の姉から幸福を取り上げるのは造作もないことだったのだ。

 ひび割れ、かさついた唇が今しがたの母の笑みを真似る。触れれば折れんばかりの腕は汗を吸って湿った上掛けを捲り、目前の女の柔らかだがどこか張りつめた肩を押した。眦が裂けんばかりに目を瞠る母を振り返る暇などありはしない。もはや友となった病に見舞われて以来、陶器の匙と敷布の滑らかさと己が血の生温かな粘りの他は何一つ触れていなかった掌は、握る取っ手の金属の滑らかさに震えた。匙より重い物を持ち上げることのなかった腕でも、かき集めた気力を振り絞れば、扉を開けた。

「ヴィード!」

 慄く背に叩き付けられた激高に覚えるのは恐怖でも萎縮でもなく達成感だった。常に締め切った居室の壁に沁みついた澱みとはかけ離れた、寒冷だが清澄な大気を胸一杯に、肺腑が膨らむまで吸い込む。

 健常な肉体にとっては綿か羊毛なのだろう空気は、やはり病苦に憑かれた少年にとっては氷柱であり鋼の切先であった。 

 無数の霜柱をねじ込まれる苦痛はやせ衰えた肢体を床に崩れさせる。激怒する女にすら詰りの言葉を忘れる苦悶は心臓が脈打つ度に勢いを早めた。

「だから言ったでしょう!」

 胎児のごとく丸められた背にあかぎれ一つない指が触れたその時。肺を縄張りとして少年の全身を征服せんとしている疼きは、灼熱の粘りとなって溢れた。

 指の合間から滴る鉄錆の臭気を漂わせた葡萄酒が、灰白色の石材を紅蓮に染める。接触すれば病に罹患してしまうのでは、とでも危惧しているのだろう。母は美しいはずの面を歪め引き攣らせ後ずさり、蹲る我が子の側から離れた。

「誰か、早く来なさい!」

 ヴィードの不始末の後片付けのために上げる金切り声も普段と変わりない。母ほどではないが見紛えぬ疎ましさをその白い面に乗せる女たちの、長い裳裾が翻ればちらと覗く足首を捉える視界は、伸ばした黒髪に遮られて覚束なかった。秀いた額に、こけた頬に、噛みしめた唇に張り付く煩わしい漆黒を払う。すると少年の瞳に飛び込んできたのは、己のそれと全く同じであるはずなのに違う、楽しげに跳ねる艶やかな毛先であった。

 音もなく降り積もる雪のごとく堆積し、踏み固められて春を迎えても融けぬ氷となった鬱屈をぶつけたあの日を境に、散歩に赴く挨拶すら告げなくなった姉。乾酪チーズを狙う溝鼠どぶねずみ顔負けの卑屈さでもって周囲の人間の隙を窺い外に出る少女の、薔薇色の頬は喜びに緩んでいて。

 ――おまえさえいなければ、僕はもっと楽だったのに!

 騒めく女官たちや、彼女らが向かう場所を一瞥もせずに通り過ぎた少女の後ろ姿に叩き付けんとして紡いだ絶叫は、音にはならない。こみ上げる紅が、少年が抱き続けた熾火を踏み消す。病苦が灯す輝きすら失せた暗澹の先には、もはや誰もいなかった。

 焦燥する母も、怯える女官も。己とは正反対の似姿も。


 ◆


 天空から舞い降りた冷たき六弁の花が、鈍重な鉛色に覆われるばかりとなった庭園を彩る。木の葉が緑から赤や黄に衣を変える秋を通り過ぎた。最後の薔薇が血涙のごとく散った午後からは、既に一月の時が過ぎ去っている。太陽は絢爛たる光輝の喪失を惜しまんばかりに、天空を支配し地上の民草を照らす責務の刻を僅かながらだが確かに減らしつつあった。

 一年で最も足早に日輪が地平線の彼方に沈み、暗黒の帳が落ちる厳寒の一日。城壁をも飛び越え吹き荒ぶ北風は身体の芯どころか魂すら凍てつかせる。だがダーシアは、寒風に撓む枝が放つ猛獣の呻りめいた軋みが轟く園よりかはまだ温かな部屋に引き返そうとは考えもしなかった。

 樹枝は艶やかな大輪も瑞々しい葉も落とし、その細い肢体を守る鋭利な棘を除けば一糸纏わぬ裸体を晒している。枝の上に積もる白に指先を沈めると、華奢な背は儚い冷気に慄いた。反射的に舐った指の腹から落ちた紅い珠は大地に吸い込まれはせず、一面の雪化粧の真白を引き立てる。

 純白に埋もれた柘榴の種か紅薔薇の一片。あるいは真珠の粒に混じった紅玉の粒の艶を放つ鮮血は、少女の脳裏にもはや伝承を縁にして偲ぶのみの古代を甦らせる。

 山脈を越えた南方の地から伝来した神の、真実にして唯一なる光芒に照らされる以前、この北方の地では様々な神が祀られていた。

 炉端やむずがる幼子の枕辺で謳われるお伽噺に堕した神話の囲いの内側で、矮小なる存在に姿を貶められながら細々と命脈を繋ぐ神々の中で最も偉大な神の一柱はと問われれば、王都周辺の民は皆揃って太陽神エルスを挙げるだろう。いと麗しき永遠の青年神。己の威光が最も翳る冬至の晩に、人間の苦痛と血肉を捧げよと命じた残酷なる神を。

 煌々と燃え盛る松明と踊り謳う人々の二重の環に囲まれた捕虜や咎人の恐怖と苦悶が大きければ大きいほど、太陽神は大いなる加護でもって人の子を祝福する。この野蛮な祭儀は唯一神の教えが国教の座に据えられて程なく廃止されたが、遙かなる天空から己を見守る天体に感謝を捧げる風習は、祈願する神を変えたために生き残った。

 入り口に彫り込まれた優美に彩色が成された聖人伝の一幕が荘厳な王室礼拝堂では、典礼のために灯された蜜蝋の灯火は既に吹き消されているに違いない。ならば同胞と敬虔なる刻を分かち合った仔羊たちは、既に家族と一年の恙ない終わりを分かち合うべく帰路についているはずだ。そして住まう宮中に在るのに遠い謁見の間には、己が栄達のためにはせ参じた貴賓たちが数多詰めかけている。

 己だけでなく従者をも美々しく着飾らせた彼らは、世継ぎの王子の誕生日を言祝ぎ、贈り物でもって異母兄の歓心を買うべく跪くのだ。

『だからその日はお前に会いに来れないかもしれない』

 風邪をひいては大事だ、とエルゼイアルは暗に告げ制した。だからその日はここには来るな、と。だがダーシアは、たとえ禁じられても、十三年前に兄が生まれた日に彼の誕生を言祝ぎたかった。

 びょうびょうと荒れ狂う一陣は獣と化し、無慈悲な牙で少女の柔肌を引き裂く。食い破られた肌から溢れる血潮すら瞬く間に凝るような酷寒は苛烈だが、誰よりも愛おしい少年の微笑を想えば耐えられた。

 兄に会ったら、おめでとうと伝えよう。そしてくちづけを交わし、互いの冷え切った身体を重ねて、新たな熱を生み出し分かち合おう。そうすれば、いつの間に氷の城に彷徨い込んでしまったのかと自分自身を詰らずにはいられなくない寒さを忘れられるはずだ。

 実態を備えぬ猛獣は少女が身じろぎするたびに吹き荒び、ついに陰鬱な色彩の面紗の向こうから燃える日を引きずり出した。吹き飛ばされた雲の狭間から射す白金は歪みなく美しい。元来は健康そのものの淡紅が刷かれた頬を蒼に染めさせた強烈なうねりに直面し眇めた闇色は、伸びやかな薄明を従える少年の麗貌に歓喜の光を宿す。

 咆哮し翼を羽ばたかせんばかりに王家の紋たる悪しくも力強い竜が刺繍された黒革の外套がはためくと、深紫に縫い止められた貴石が星のように煌めく。その一枚の上衣だけで、支配者の慈悲の現れとして振る舞われる一かけの麺麭を求めて城門に群がる全ての貧者の飢えを満たしてやれるだろう。けれども溜息が零れるほどに贅が凝らされた衣服とて、  

「あにうえっ!」 

 銀世界に落ちた一滴の黒を――柔肌を覆う毛を持たぬ人間が、野の獣から命と共に剥ぎ取った毛皮も羽織らぬまま自室から飛び出したダーシアを発見するやいなや、血相を変えた少年の麗姿を引き立てるものでしかない。 

 雪のような肌は己同様に冷え切っていたが、唇にはあえかなぬくもりがあるだろう。

 信じられぬと眼差しで訴える少年に抱き付いた少女は、やや癖のある豪奢な黄金の髪を掻き分け、露わになった巻貝の耳元に温かな吐息を吹きかけ微笑んだ。 

「お誕生日おめでとうございます」

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