徴候 Ⅱ

 柘植つげに彫り込まれた、淡い黄褐色の鳥の飾り羽をそっと撫でる。かつて父から母に贈られ、何らかの些細な事故により――大方、激高した母が床に叩き付けでもしたのだろう――幾つかの歯が欠けたためにダーシアのものとなった櫛は、少女の掌に納まる大きさで扱いやすい。

 濡羽の艶を放つ黒髪を梳いて整えると、ふっくらとした紅唇がほころんだ。快く頭皮をくすぐる木の硬さは誰よりも愛おしい少年の指先を思い出させる。

 琥珀にも通じる艶を帯びた櫛を豊かな髪から引き抜き、くちづける。ふわり、と僅かながらに鼻腔を刺す香気が愛おしかった。むっちりと肉付きの良い脚の合間からはらはらと舞い散る朽ちかけた薔薇の花弁――経血が止まったのは、か細くも鋭利な猫の爪のごとき白銀が青い闇を切り裂く夜だった。

 少女が異母兄と密やかな逢瀬を重ねるごとに月は肥り、満ち、そして再び欠け、終に昨晩再び猫の爪となった。女として発達しつつも未だ安定は仕切らない身体が完全になれば、月に一度は見舞われるという障りは疎ましい。またあの鈍痛と股間にあてがう布の煩わしいざらつきを七日の長きに渡って耐えねばならないのかと、潤んだ花弁は湿った溜息に震えてしまう。

 まろやかな曲線を描いた胸と腰とは対照的な、平らな腹部をそっと摩る。エルゼイアルは言っていた。「これ」は子を孕むためには欠かせない、母となる全てのものが耐えねばならぬ煩瑣なのだと。女の身体に穿たれた虚ろに蓄えられた、芽吹き根付くには至らなかった生命の落剥からは、子を宿しさえすれば逃れられるのだと。

 一体、いつまであの鈍痛に苦しめばならないのだろう。褐色の肢体は既に相応に成熟し、胸部にはついに兄の掌にさえ納まらなくなった果実が二つ実っている。幾人かの女官のものよりも大きいふくらみを揉みしだく少年は、喘ぎが混じる懇願には頷かない。早く兄上の子供がほしいと希っても、お前にはまだ早いと苦笑されるばかりで。

 成熟した女。雌。それらの言葉が少女の頭の中に結ぶのは、いつも母の姿だった。

 自分も母と同じ、たわわに実を付けた棗椰子に、細くくびれた胴を持つ蜂になれば良いのだろうか。そうすれば、兄はダーシアの不満を舌先で深淵に押し戻すのではなく、ダーシアの身体を耕し種を蒔いてくれるのだろうか。

 幼い花が垂らしたのはしばし枯渇したはずの赤い蜜ではなかった。女の肉体に巣食う虚ろは、きっとそこが満たされるまで疼き続けるのだろう。子を育むには幼い肢体が求めるのはただ一つである。

「エルゼイアル殿下ったら、一体どうなされたのかしら?」

 厚い扉の隙間から忍び込んだ恋しい人の名を、巻貝の耳は鋭敏に拾い上げる。ダーシアにとっての兄はいつもと変わらぬ、完璧な王子だった。しいて変化したところを挙げるとすれば、以前よりもより執拗にダーシアの果実やその頂きを弄ぶようになったということだけだ。

「ええ。以前は彫像のようなお顔ばかりなさっていたのに――もちろん、殿下のお顔は顰められていても魅力的だけれど――うっすらと微笑まれるようになって」

 兄はダーシアと共にいると、特に胸を触っている時はいつも凛々しい口元をほんの少し緩ませている。それはダーシアにしか分からない、ダーシアだけが目にすることを許された宝物だとばかり思っていたのに。

 己が双眸とそっくり同じ、漆黒の冷たい炎がそこから沸き起こって初めて、少女は洞が宿すのは子だけではないのだと知った。

 硬い木材でも、爪を立てれば僅かにこそげる。息を殺し、刻んだ傷跡に耳を当てると、まるでその場の片隅で蹲っているかのように女官たちの噂話を把握できた。

「これも、最近設けられた“ご友人”の影響なのかしら? あのオーラントって子は、そりゃ見た目は普通で殿下の足元にも及ばないけれど、いつもにこにこしてて感じがいい子だし」

「どこかの柩に片足どころか身体の半分を突っ込んだ王子様や、黴た麺麭に生える茸みたいなお姫様とは違って、私たちにもきちんと挨拶してくれるしね」

 なよやかな背を戦慄かせ、心臓の律動を狂わせ、少女の肢体を崩れ落ちさせたのは、嘲笑ではなかった。

 ――あにうえに、お友だちができた。

 自分は兄にとっての唯一ではなくなった。ダーシアはもう、エルゼイアルに必要とされなくなる。

 暗澹は漣となって音もなく忍び寄り、力なく横たわる少女の足首に絡んだ。生温かな、涙を連想させる幻は徐々に高さを増し、臍を、頤までをも呑みこむ。そしてついに引き結んだ唇をこじ開け、喉奥にまで侵入したうねりは、最奥で燻る焔によって熱せられた。嫉妬を糧とした怒りは、脆弱な魂すら燃やし尽くさんばかりに滾っている。

 熾火の熱は血の巡りに乗って全身に伝わり、萎えた四肢に活力を漲らせた。

「ひ、姫様?」

「もうじき昼餐のお時間ですのに、どちらに行かれるのですか? 姫さま!」

 主への罵りを聞かれたためにではなく、監督不届きの怠慢に下されるだろう罰を恐れて血相を変える女官の制止など、烏の囀りと同じだった。があがあと耳障りだが、害はない。だから耳を塞いで聞こえぬ振りをしてしまっても構わない。

 蔓に絡め取られた鉄仙クレマチスは神が坐す楽園に最も近い蒼穹の頂点の色彩に染まっている。常ならば足は止めずともちらと仰ぎ、眼を細めて感嘆しただろう澄み切った藍も、ダーシアにとっては不要だった。少女が求めるのは、鳩の心臓から搾り取った鮮血。極上の冠を頂く紅玉のみが名乗ることを許された、とっておきの紅だけなのだから。

 足首までをも淑やかに秘匿する貴婦人の裾の襞めいていて優雅な、縁が波打つ一片は寄り集まると盃状の花になる。ようやくたどり着いた約束の場は盛りの刻を迎えていた。陰鬱な死の季節の前の、泡沫の生命の謳歌の瞬間を。

 甘い甘い香気に誘われた蜜蜂が、どこか淫猥に開いた折り重なる花弁の隙間に潜り込む。ややして彼女らが集める蜜の金色を纏った働き者たちは、虚空の彼方に飛び去って行った。エルゼイアルがいる、王妃のための宮の方角へ。

 兄はきっと今頃、洗練された仕草で麺麭を千切り、小刀ナイフで肉を切り分け、杯に蓄えられた葡萄酒を干しているのだろう。大陸中部の民は、老いも若きも苦く塩辛く飲用に適さない水ではなく酒類によって乾きを癒すのだ。もっとも、ダーシアはもっぱら薄めた果汁で喉を潤しているけれど。

 兄が着く、山脈を越えた国より運ばれた名酒も並ぶ食卓には魂を凍らせるまでに麗しい王妃も、自分たちの父である国王もいないかもしれない。だが「ご友人」はいるのだろう。彼と些細なことで笑い合い、ダーシアには理解できぬ物事を談じながら摂る昼食は楽しいのだろうか。逢瀬の刻を失念してしまうほどに、楽しいのだろうか。

「悪い。少し遅れ、」

「あにうえっ!」

 蜂蜜よりも眩い黄金の髪を陽光で煌めかせた少年に跳びかかり、押し倒す。緑の褥に金髪を散らした少年の腹部に跨り、細い輪郭に指を添えると、切れ上がった瞳が驚愕に瞠られた。

「お前、」

 薄く整った唇の隙間に舌を差し込みこじ開けると、芳しい酒精で噎せかえってしまって。じんと痺れているのが頭の芯なのか身体の芯なのか、あるいはそのどちらともなのかは判然としない。自分が酔っているのが葡萄酒の名残なのか兄そのものなのかすらも。

 ただ欲望が鎌首を擡げて指し示すまま、爆ぜた火の粉が舞うままに接吻を重ねる。柔軟にすり抜ける赤い蛇に吸い付き、歯列をなぞっていると、息もできなくなった。生理的に滲んだ苦痛でぼやけていても輝かしい純金の毛髪に縁どられた面には、憂慮の影が落ちている。木漏れ日を跳ね返して煌めく一対の貴石は、もうやめろと訴えていた。けれど濁流は既に堰を切って溢れだしたのだから、元の堤に戻すことはできない。

「あにうえ」

 互いの唾液で濡れ、嚥下しきれなかった一滴が垂れた口元を吊り上げる。自ら襟を広げ、両のふくらみを半ばまで曝け出すと、惑う視線がそこに縫い止められた。    

「わたし、兄上にお願いがあるんです」

 濡れた眼差しで哀願する一方で、豪奢な上衣の前を乱し引き締まった腹部までを露わにすると、少年の戸惑いはますます大きくなった。一切の無駄のない下腹を指の腹でなぞると、太腿を通してダーシアの背筋に微かな震えが伝わってくる。胸板に柔らかな乳房を擦りつけると、戦慄きは一層大きくなって。   

「……どうした?」

 躊躇いながらも伸びてきた手を掴み、熟れ切らぬ桃の果実に押し付ける。もう片方の白い手は、褐色の内腿と戯れていた。

 早くしないと、このままではまた切れ切れに叫ぶことしかできなくなる。

 こみ上げる悦びは少女の炎の追い風となった。

「わたし、いやだけど、頑張ってお勉強します。あの訳の分からない、ぐにゃぐにゃしていたり真っ直ぐだったりする、難しい……えっと、絵? もちゃんと覚えます」

「……お前が言う“絵”は文字だ。昔、教えただろう?」

 呆れを多分に含んだ溜息でさえも、灼熱の勢いを衰えさせはしない。

「え、えと。……その“文字”は全部書けるようになるまで頑張りますし、聞いていると眠くなる“歴史”や、欠伸が出そうになる“地学”のお話にも付き合います。痛そうだけど、剣術だって! だから、」

「ダーシア」

「兄上が一緒にお勉強する人がほしいならわたしがなりますから、“ご友人”という人は追い返してください!」        

 胸の裡で蟠る想いの丈を吐き出し終えると、常に小鳥が囀り木の葉が騒めくはずの庭園がぴたりと口を噤んだ。森閑とした静寂の中、己の吐息と鼓動だけが厭に煩く耳に付く。

 待ち望んだ応えは、確固たる否定の芯が通るがゆえに涼しく響いた。

「オーラントを僕に付けたのは父上の決定で、僕にも、ましてお前にも拒否権はない」

 あまりの衝撃に傾いだ肢体は逞しい腕に捕らえられる。肩甲骨のあわいをくすぐる若草が齎すこそばゆさから、少女は己の敗北を悟った。

「そして、僕はあいつを気に入っている。王子の不興を買った無礼者の烙印をあいつに押して、叔父ともどもあいつの未来を潰すのは、たとえお前の頼みでもできない」

 とめどなく零れ落ちる嘆きは伏せられた緑に宿る感情を見えなくさせる。

「どうしても、無理なんですか。わたし、何でもやります。そうだ、わたしがまえ駄目って言ったあれをして、ここを舐めても……」

 泣きじゃくり、途切れ途切れに訴えながら裾と片足を持ち上げ、秘め隠すべき亀裂を白日の下に晒した少女は、更なる苦悶に眉を顰める。

「煩い。無理と言ったら無理なんだ」

 覚えがある限り始めた浴びせかけられた怒りは、夜空に光る稲妻よりも鮮烈で恐ろしく、震撼する少女の肉体の火照りは瞬く間に冷めてしまう。常になく乱雑に直された、醜く皺が寄った裾は、ダーシアの心そのものだった。

 とうとう、兄上に嫌われてしまった。

 嗚咽すら忘れた少女の、亡骸同然に蒼ざめた頬に湿ったぬくもりが当てられる。

「お前はどうして分からないんだ?」

 緩やかな曲線を辿り、耳朶にまで辿りついた唇が、一度は手放した希望と熱を呼び覚ました。

「僕とあいつがいくら仲良くなっても、あいつはお前には――友人は家族には、妹にはなれない」

「……あ」 

「お前は世界でただ一人だけの、大切な妹だ。今までも、これからも、僕はお前以外の人間を“好き”にはならない」

 二顆の黒曜石の表面に結実したのは、悲しみではなく歓喜によって生まれた雫だった。陽光を弾いて銀色を放つ露を啜った舌と己のそれを交歓させる。口腔に広がった悲嘆の味は苦いが、せり上がる悦楽が和らげてくれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る