徴候 Ⅰ
通気と採光のために穿たれた窓に嵌められた板を外すと、秋の清しさが少年の僅かに膨れた頬を撫でた。
絶え間なく揺れ動く馬車から身を乗り出し後方を仰いでも、柔らかな銀と玄妙なる蒼、そして温かな黄金が交錯して白く輝く河のせせらぎすら聞こえなかった。緩やかにうねる水の蛇の優雅な曲線の源のほど近くにある樫の大樹の葉の騒めきも。
オーラントの出立を見送るべく、館を守るように聳える樹の下に集まった家族や使用人たちの啜り泣き交じりの歓声も。
家督を継げぬ次男以下の貴族の子息がいつか立たされる三叉路――出家、出仕、出征の内、聡明にも己に最も適した道を選んだ叔父。ついには未来の国王たる王子の側近くに侍る身となった彼の、彼らしくなく知らせも寄こさぬ唐突な帰郷に湧いた伯爵領が更なる歓喜に包まれたのは一月前のことだった。
「叔父さまお土産をくださいな」
「叔父さん、お土産は?」
「叔父さまおみやげ!」
煌めく星ではなく、小鳥の隙を伺う空腹の猫との形容を思い浮かべさせる光を目に宿した姉と妹を伴い、感涙に咽ぶ父母や跡取りたる兄と再会の挨拶を交わす叔父の許に駆け寄る。
茶色の長い髪を一括りにし、旅装束を纏った背に流した男は、いささか無遠慮であるが微笑ましい甥や姪の頭を順番に撫でた。
「お転婆ベルト。お前は半年後には貴婦人とならなければならないのだから、これを最後に髪飾りではなく気品と慎みで身を飾るように心がけなければならないよ」
窘める言葉とは対照的に、細められた双眸には姪の成長と門出を言祝ぐ光が滲んでいる。広げられた姉の手にふわりと落とされたリボンは薔薇の花弁を紡いだように赤く、姉のオーラントのそれよりも濃い栗毛の艶を引き立てるだろう。
「ありがとう。ご忠告も含めてとっても嬉しいわ。でも、わたしだってやればできるのよ」
裳裾を摘まみ上げ、貴婦人に相応しく会釈した姉は少年の目には優雅そのものだった。
「ねえ、リュミーには? リュミーの分はないの?」
巻き毛を踊らせ叔父の脚にしがみ付く妹は容姿もオーラントたちきょうだいの例にに漏れず平凡で、婦人の分別には程遠いが無邪気な振る舞いが愛らしい。きっと、叔父にとってもそうなのだろう。
苦笑する男が少女の髪に止まらせた青い翅の蝶は歪だったが、妹は気に入ったらしい。「ありがとう!」
旅の疲労にやつれた頬に唇を落とした少女は旋風となり、姉と共に着せ替え遊びに興じるべく館内に駆けて行った。とうとう自分の番が巡って来たのだ。
「叔父さん」
叔父が都から携えて来る品々はいつも少年を魅了してやまない。鞘と柄に琺瑯で組紐文様を描いた短剣は、釣り上げた魚を捌くのに重宝するし、かつては王子の物だったという錫の軍勢一式の輝きは贈られて四年の歳月が過ぎた現在でも色褪せていない。
今日は、いったいどんな良い物を貰えるのだろう。
待ち焦がれ己よりも高い位置にある面を仰ぐ少年の両の肩に、温かな掌が触れた。
「叔父さん?」
「その件なんだが、お前に大切な話がある。兄さんや、義姉さんにも聞いてほしい」
間近で覗きこむ瞳では、様々な感情が揺れていた。懺悔と葛藤が。二種の翳りとは相反する歓喜が。そしてそれらを凌駕する期待が、ひたと自分に注がれている。
父母は身構え、兄と使用人たちは息を殺してオーラントを――正確には叔父を見つめるオーラントを注視していた。
自身の鼓動と息遣いだけが轟く緊張の最中、ようやく引き結んでいた口元をほころばせた叔父が告げた言葉はルオーゼ語であるはずなのに、地の果ての異国の言語のように響く。
「お前は都に上がることになった。エルゼイアル殿下の御学友として、王城で暮らすことになったのだ」
小鳥たちすらも遠慮して囀りを止めた館の一画の静寂を最初に破ったのは、柔らかな何かが倒れ伏す音だった。
「アデラ! しっかりしなさい、アデラ!」
卒倒した母の肩を支え揺さぶる父の顔面もまた、彼の妻同様に一切の血の気が引いて死人めいている。使用人たちは突然の栄達に突いた蜂の巣さながらに狂乱し、兄はただ呆然としていた。いかにも信じられぬと言いたげに眦を開いて、近々妻を迎える若君には相応しからぬ、ぽかんと開いた口元を手で覆って。
これが魔術師か妖精が見せる悪戯だったらどんなに良いだろう。若年ながら朧に思い描いていた幾つもの未来には、王都で士官する己の姿も含まれている。けれども、その始まりはこんなにも急を要するものではなかったのに。
魔法をかけられたかのように強張り引き攣る顔の筋肉では、驚愕を形作ることすらままならない。
「分かったか、オーラント。だからお前は、すぐにでも出立の準備をしなければならないんだ」
石像となってその場に立ちすくむ少年にかけられた魔術の効能を薄れさせたのは、既に神の国に旅立った先代の領主夫妻の代わりに少年を慈しむ老夫婦の嗚咽だった。
「いつかこの日が来るとは覚悟しておりましたが、坊ちゃんは儂らの想像など及びもつかない栄華の道を歩まれるのですな……」
「おお、なんと喜ばしい。この老いぼれ婆の心臓は、喜びに耐えかね張り裂けてしまいそうです」
豊かに蓄えた白鬚が、深い皺が深まれた口元を濡らす歓びは彼らだけのものではない。
「ああ、オーラント。あなたはまだ幼いけれど、頼れる叔父さまが側にいてくれるのだから、きっと上手くやれるわ」
彼女の意識をしばし絶やした衝撃から未だ覚めやらぬ母の腕を震えさせているのが我が子に齎された吉報であることは、言わずとも察せられる。だがこの時の少年は、異変を聞きつけ舞い戻ってきた姉と妹をも交えた狂喜の環に囲まれた、異物であった。
同じ年頃の同じ階級の同じ身の上の少年の名誉や武勇への憧憬を、生憎オーラントは抱いていなかった。
いつか叔父が辿った道に続き学を修め、高すぎず低すぎずの適当な位の貴族の後継の教育係の座を得、暇ができれば釣りに興じながらつつがなく一生を終えたい。
少年は密やかに抱き続けていた願望を己が手からもぎ取り、彼方に投げ捨てた国王の決定に恨めしさすら覚えたが、王命は覆せない。
「ねえ、オーラント! 見て、またソルディブラン侯から結納の品が届いたの! “以前の品は、叔父君のみならず弟君までもが殿下の御側に控えることとなった貴女に捧げるに相応しいものではありませぬゆえ”ですって! わたしだけを終生大事にしてくれるって、今までの“お遊び”はきっぱりやめるって神に懸けて誓ってくださったのよ!」
夫となる青年の艶聞に眉を顰め、夜毎母の膝に縋って嘆いていた令嬢から涙を忘れさせたのはオーラント自身ではないのだから素直に喜べもしない。姉はしきりに「ありがとう、これもあなたのおかげだわ」とまだ滑らかな頬に接吻するが、色好みの青年を心変わりさせたのはオーラントではなく国王の権威。そして権威と繋がることで得られるであろう蜜の味なのだ。
「それにしても、わたしより先にあなたがここを出ていくなんて……運命って、分からないものね」
「……そうだね」
何故、皆引き留めてくれないのだろう。何故、お前がここからいなくなると寂しいのだと言ってくれないのだ。
「では今日は謁見の作法の復習だ」
連日の宮廷儀礼の反復は渦巻く不満をかき混ぜ、ごぼごぼと泡立つ魔女の秘薬めいたものにした。国王から与えられたたったの一月の猶予で野に出れば猿同然に駆け回っていた少年を宮廷人に躾けなければと焦る男は、傍目にも憔悴してゆく。
「……まあ、及第点だろう。少々のぎこちなさは、陛下も殿下も目こぼししてくださるはずだ」
しまいには目の下に洋墨を塗ったのかと問い質さずにはいられない隈を作った男の一言で、別れと旅立ちは――穏やかで幸福だった日常の終わりは七日早められた。
「……叔父さまの言うことをよく聞いて、陛下と殿下に無礼のないようにね」
母の抱擁や、針子が不眠不休で縫い上げた晴着を湿らせる涙の温かさでも、胸の裡に凝った憤りは融かしきれない。
――嘘でもいいから、最後に「やっぱり行かないで」ぐらい言ってくれたって良かったじゃないか。
生まれ育った屋敷から遠ざかる程に小さくなり、ついには見えなくなった家族と使用人たちへの不満はなおくすぶっている。叔父の語りを縁に織りなしていた想像など及びもつかぬ王都の繁栄と喧騒に圧倒され、王宮の雅に言葉を失い、謁見の間で王の足元に跪く現在においても。
「よい、面を上げよ」
左右に衛兵を従え、ただ独り贅を凝らした椅子に――玉座に坐す国王と対面する。
「はるばる大儀であったな。スュールの次男オーラントよ」
国王グィドバールはごく普通の男だった。華やかな容貌で知られていたと聞く先代の王妃の面差しを幾ばくか受け継いだのか。国王は凡庸なオーラントの父や叔父などよりかは整った、女好きのしそうな顔立ちをしている。だが、ただそれだけでもあった。目の前の男からは崩御してなお民草から畏怖を捧げられる先の王の、平伏せざるにはいられなくなる王者の威光は欠片も感じられない。それを親しみやすいと判ずるか、はたまた別の表現を当てはめるかは個人によるのだろう。
荒れ狂っていたはずの胸の奥が凪いだ。ただ一点のむらなく染め上げられ、磨き上げられた牛皮の靴に注いでいた視線を辺りに漂わせる余裕すら生まれた。
「陛下が与えてくださった、我が身に余る名誉への感謝を告げる刻を、待ちわびており、」
叔父に暗記させられた応えを諳んずる舌が強張る。王の隣に立つ少年が、彩色を施され着飾らせられた大理石彫刻ではないと判ぜられたのは、彼が僅かながらに微笑んだためだった。
王子は頭頂から爪先までが、溜息を禁じ得ぬほどに完璧だった。高貴な深紫もやや癖のある金髪と大理石の肌を引き立てる物でしかない。深く鮮やかな緑に見つめられれば、最上級の翠緑玉ですら恥じ入りひび割れてしまうのではないのだろうか。
「伯の領地から王宮まで、大儀であった。そなたのスュールは風光明媚な美しい場所と聞く。一度私も彼の地に足を運ばねばならぬと考えていたのだが――」
彼が――それは儀礼上の、挨拶と変わらぬものであろうが――称賛した、愛する父の領地よりも。
――僕は、この御方の側に仕えるために選ばれた。
半ば意地が邪魔をして認められなかった、憤懣の仮面の下に隠された慣れ親しんだ地と人々から離れる寂寥を、絶世の美貌が感激でもって砕き彼方に押し流す。
「お前が私の許に来たのだから、その必要もあるまい。これから長い付き合いになるのだから、お前の故郷について語らせる機会もあるだろう」
差し出された手を躊躇いながらも取る。俄かには自分と同じ人間であると信じられぬ少年の指先は硬いが温かかった。
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