呪詛 Ⅱ

「……お前は本当に手の施しようがないわね」

 喜びが翼となったかのように軽かった身体も、タリーヒの嘲りを浴びれば再び重くなる。忘却していたはずの鈍痛に貫かれる下腹部からこみ上げる嘔吐感に駆られて蹲ると、長い髪を鷲掴まれた。強制的に上げられた視界に移る褐色の美貌は、嗜虐と侮蔑に歪んでいておぞましい。

 しなやかな、唯一神が創りだした「最初の女」を唆して罪を犯させた蛇を連想させる指が、形良い頤を持ち上げる。頬にかかる生温かな吐息は、華奢な背どころか耐えがたい痛みに苛まれる全身を、肉体が内包する魂をも戦慄かせた。

「ダーシア」

 艶めかしくぬらついた、裳裾に隠された脚の合間に潜むもう一つを連想させる肉厚の花弁がほころぶ。開花したのは毒を含む花であったのだ、と少女に理解させたのは足の甲に奔った衝撃だった。 

「鶏は三歩歩けば忘れると言うけれど、それでも毎朝啼いて夜明けを知らせる役目だけは忘れないものなのよ。それなのに、お前はどう?」

 尖った跟から、軽いとはお世辞にも評しがたい豊満な女の重みが伝わる。押し付けられ、捩じられる先端は少女にとっては刃だった。赤く擦れた皮膚は今にも血をに滲ませんばかりに擦り切れている。歓喜に満たされていたはずの幼い心も。  

「一晩経てばわたくしの忠告も忘れて、懲りずに同じ過ちを繰り返すなんて。……お前に比べれば、鳥の方がまだ幾分か上等な頭をしているわ」

 娘の右半身を砕かんばかりに振り上げられた、冷徹な母の膝に砕かれてしまって。

 打ちのめされた少女はどさり、と冷ややかな床に崩れ落ちる。疼く下腹に添えた左ではない手は滑らかに鞣された牛皮を掴んだが、震える指は汚物か汚物から生じた蝿であるかのように振り払われた。目の前の女の胎内でかつての己が取っていたであろう姿勢を真似て丸めた肢体は、非情な靴の裏に嬲られる。

 踏みしだかれる背を襲う苦痛は焼き鏝を押されたのかと錯覚してしまうほどで、ぼやけた一対の黒曜は嘆きの露に濡れた。背筋の窪みをなぞりながら下った恐るべき爪先がむちむちと肉付きの良い腿を抉る。あまりの苦悶に、陸に打ち上げられた魚同然に飛び跳ねた少女の身体の中心から漏れたのは、甘く据えた紅蓮だった。

 薔薇や柘榴、葡萄酒の紅とは似ても似つかないくすみ澱んだ雫を見下ろす女の眼差しに比すれば、真冬すらも温かだった。己の内から迸ったそれが汚らしいものであると突き付けられ、ダーシアは逃げたくなった。すぐ近くの己の自室ではない、この世で最も安心できる場所に。兄の腕の中に。

 あの芳しい匂いを嗅ぎ、彼のぬくもりを感じ、黄金の髪に縁どられた面差しに魅入っていれば、舐めさせられた辛酸の苦味もすぐに忘れてしまえるのに。

 ――ダーシア。僕の可愛い妹。

 麗しい幻想に縋り逃避していた少女を現実まで引きずり戻したのは、氷柱めいた囁きだった。

「……お前、とうとう……」

 力の限り引かれた頭皮は引き攣り、月も星もない真夜中に染められた毛髪の幾筋かはぷつりと千切れる。

 自ら香油を塗り込み梳った黒髪。兄には絹のようだと讃えられた癖のない糸も、母にとっては糸くずの塊にしか過ぎない。

 丹念に研磨されていてもどこかざらついた石の表面に削られ、細かな擦過傷を刻まれた四肢は、見慣れた花崗岩に打ち付けられる。生まれ落ちて以来毎日目にしてきた二種類の灰色――白にほど近い明るい灰と、暖炉に積もる塵そっくりの灰が織りなす細やかなモザイクはダーシアの部屋のものだった。

 兄の腕の中と隣には及ばないが、数少ない安らげる居場所であるはずの居室も、母がいれば陽の光射さぬ畏怖すべき森林となる。

女になった・・・・・のね」 

 獰猛な豹の唸りが形作るのは、兄から与えられた祝福とそっくり同じ文句なのに、

「ちゃんと脚とお口を開いて、お兄さまを満足させてあげられた?」

 紡ぐ者が異なれば呪詛とも成り得るのだ。嘲笑は鏃か雹めいていて、惑う少女に一切の慈悲なく降り注ぐ。 

「最初はお前が下になったのでしょうけど、次はどうしたの? お前のお父さまは女の下になるのが――男なのに、それも国王なのに可笑しいわよね――事の他お好みみたいだけれど、お前のお兄さまはどうなのかしら?」

「……ははうえ、あの、ちがうんです」

 この出血はあなたの考えるものではない。切れ切れの、吐息めいた反論はあえなく封じられる。

「そう。だったら、お前たち兄妹には似合いの獣のやり方なのかしら?」

 白い歯の間から突き出た舌先はやはり蛇を思わせた。獲物の頸に艶めかしく絡みつき、絞め殺す長虫を。

 赤い蛇が唇の曲線をなぞる。琥珀の蛇が折り重なる裾を毟らんばかりの荒々しさでたくし上げ、血を流す花を露わにした。

「でも、そのうちここ・・だけじゃ飽きられるのよ」

 赤い蛇が琥珀の蛇を舐り、しゃぶりつく。秘め隠しておくべき蕾を鋭利な爪先で突かれる恐怖と恥辱すら薄れさせるほどに、その光景は淫蕩だった。これ以上は直視に耐えぬほどに。 

「こうやって、使えるところはなんでも使って奉仕しないと、」

「……ほんとうに、ちがうんです!」

 なけなしの気力をかき集め声を張り上げると、二匹の蛇のまぐわいは止まった。

「これは、朝から――起きた時から、ずっと、こう、で」

 捲れたままの夜具の、純白の上に広がる赤褐色を指し示す。あからさまな初潮の痕跡に、裂けんばかりに眦を吊り上げたタリーヒは、しばしの後に長く重苦しい溜息を吐き捨てた。

「だったら最初からそう言いなさい! ――身体だけは成長が早いのに、お前はどうして昔からそうなのかしら!? その栄養が少しは頭に回っていれば良かったのに……」

 劈く罵声を床に這いつくばる娘にぶつけた母親は、蟀谷を抑えながら厚い扉まで歩む。母の足取りはやはりいっそ不作法ですらあったが、激怒を漂わせる烈しさでもって慄くダーシアの脚をその場に縫い止めた。

「……取り敢えずはこれを使いなさい。あちらこちらで血を流して部屋を汚されると、こっちが不愉快になるわ」

 舞い戻ってきた母の手の中にはこの王城に存在するには相応しからぬ、襤褸があった。タリーヒは黒々とした双眸の上に据えられた二つの三日月が一つにならんばかりに眉を顰め、薄汚れた布の使用法を乱雑に説明するが、悪質な疼きに縛められた頭ではその一端すら捉えられない。

 焦りは失敗を産み、失敗は苛立ちを産む。

「お前は相変わらず物分りが悪いわね! 一体どれ程わたくしを煩わせたら気が済むの!?」

 終いにはタリーヒは惑う娘から取り上げた布を、もがく手足を抑えて幼い蕾に押し当てた。密やかな亀裂に毛羽立ちが張り付く感覚はおぞましく、涙は脆い堤を堰切って溢れ出す。

 顔を覆って啜り泣く少女の嗚咽を遮ったのは、低い低い――女が発しているとは俄かには判ぜられぬ宣告だった。

「愚かなお前はどうせ分かっていないでしょうから、一つ大切なことを教えてあげるわ――お前では“兄上”の子供は産めないのよ」

 厳めしく、けれども喜々としながら語られるのは、認めがたい世の理だった。

「う、嘘です。そんなこと、兄上は」

「……産めはするけれど、そんなおぞましい子供は禁忌の子供と呼ばれて虐げられるのよ。こんな簡単なことすらも察しがつかないなんて!」   

 兄と自分の間に子ができれば、その子は数え切れぬ冷笑の的となって排斥される。内側に棘を生やした枷にも似た戒めは、抱く輝かい未来への幻想ごとダーシアの息の根を絶やさんと圧し掛かる。

「禁忌を犯すと、王よりも上の存在――神から罰を受けるのよ。お前もお前のお兄さまも、生前どころか死後も数えきれない苦しみを舐めなければいけなくなる。覚えておきなさい」

 それまでの母の言葉を石の刃だとすれば、最後に振るわれたのは磨き抜かれた鋼鉄の、切れ味鋭い刃だった。

 ダーシアは唯一神の存在や彼からの愛を身近に感じた経験はないが、彼が厳しく恐ろしい支配者だということは兄によって教えられている。

 神が自らが定めたのりを踏み外した者に下す裁きは苛烈なのだ。自分だけならともかく、兄さえも罰せられるかもしれないなんて。

 ――兄上が神様からの罰を怖がって、別の人を好きになったらどうしよう。

 焦燥と懸念は暗雲さながらに立ち込め膨らんだ胸を塞ぐ。再び昏蒙と化した世界の薄暗さに怯えていた少女は、やがて意識を蝕む疲弊と安らかな微睡みへの希求に根負けした。濃い睫毛に飾られたゆるゆると閉ざされる双眸ではない目で見るのは、きっと悪夢だろう。だが兄に会えるのなら悪夢でさえも喜ばしかった。


 ◆

 

 執拗な眠気の誘惑を退け、翠緑玉で追った博物誌の文章はもはや亡い母の国の言語で綴られているが、エルゼイアルにとってはほとんど母語によるものと同じだった。

 己の祖である皇帝に奉げられた、修辞技法の宝庫とも讃えられる労作は、読み解くに難はない。ゆえにこの書物は帝国が滅んでもなお、異郷時代の遺物として焚書の災禍の餌食となることなく生き残ったのだが――

「そんな本読んで時間を無駄にするぐらいなら、聖典を読め。我らの神によるありがたい御言葉を」

 宮殿にて世嗣の王子の傍らに控える神学の徒という名目と、父たる王の同年代という年齢には相応しからぬ口ぶりの男の目にはかなわないらしい。

「お前に数え切れぬ程読まされ、隅から隅までを叩きこまれた聖典を、か? ――それこそ無駄というものだろう」

「はー、勉強熱心な王子さまが聞いて呆れるな」

 応えを待たずに、どころか問いかけもせずに王子の居室に入室した男の口元は愉快そうに吊り上がっている。この磊落だが気難しい、という相反する性質を備えた修道士が明朗に微笑むのはめったにないことだった。 

「お前が長らく父上に訴えていた、新聖堂の建設の再開許可が降りたのか?」

「いや。相変わらずだ」

「……そうか。ならば、」

 例えるならば進んで水と戯れる猫に出くわしたかのような違和感は退けがたく、薄気味悪さ通り越して警戒すら呼び起こす。

「でもあいつも、たまにはいいこと考えるもんなんだな。僕は、ほんの少しだけだけどグィドバールを見直した」

 引き締まった筋肉に覆われているが未だ細い肩を叩く師の手は温かい。

「これでお前は、ほんの少しだけど楽になれる。良かったな」

 怪訝に麗貌を顰めた少年は、数瞬の後に齎された驚愕に長い金の睫毛を瞬かせ、白い肌に光の粒を撒き散らした。

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