別離 Ⅳ

 一切の光射さぬ室内において最も暗いのは、花模様の夜具で覆われた寝台の上だった。

 かつてグィドバールの身近に在り、絶え間なくグィドバールを終焉の淵に突き落とさんとしていた暗澹の最中で、女が嘆いている。

「ああ、ダーシア」

 死した我が子に縋りつき、語りかけながら。

「お前は小さな頃から、風邪一つひかない元気な子だったのに……」

 嗚咽が澱んだ空気を震わせるとなよやかな背筋も、背を覆う黒髪もまた震えた。おどろに縺れた漆黒は残忍に柔肌を引き裂き血潮を滴らせるいばらそのもので、近づくことすら厭わしかった。

 豊満な肢体を閨での技量に魅せられ、十数年前は夜毎貪った肢体が放つ魔力は、ある女の冷笑と痛罵を浴びせかけられてからすっかり霧散してしまっている。かつての宝玉の輝きは磨滅し、路傍の石と成り果ててしまっているのだ。

「……女官たちによりますと、朝方より食事も取られず、ずっとあのように取り乱しておいでだとか。我が子を突然に喪われたのですから、無理はありませぬが……」

 ――この見るに耐えぬ狂態を、一刻も早く鎮めてくだされ。

 濁された言葉尻がやんわりと、しかし明白に暗示する懇願に押され動かした足は、再び金属の枷が嵌められていた。花崗岩の床を討つ鉄の鎖の音が響かぬことに不思議を覚えるほどに、幻は重い。己には不可能だと全てから遠ざかってしまいたくとも、後ろで控える家臣や女官の眼差しが逃避を妨げる。

「病弱なヴィードにばかり構っていて、健康なお前は放っておいてばかりだったわたくしを赦して……ああ、どうして何も言ってくれないの!? お前はどうしてもわたくしを赦してくれないの!?」

 もう二度と開かぬはずの娘の口を苦痛でもってこじ開けようとしたのか。か細い肩に突きたてられた爪を外さんとしても、褐色の指は抗う。とても女とは思えぬ、悪鬼じみた力だった。 

「お願いだから、目を覚ましてちょうだい。ねえ、ダーシア。わたくしに、お前に償いをする機会を、一回だけでもいいから……」

 ひしと我が子の背に回された女の腕はたおやかであっても固く、死体さながらに強張りグィドバールを拒絶していた。

 己が体温で瞠られた両眼から迸る涙で、冷え切った躯を温めれば死した娘が蘇るとでも考えているのだろうか。

「わたくしの可愛い娘。大切な娘……どうしてお前はわたくしを置いて死んでしまったの!?」

 ついにグィドバールの制止を振り切り、人形同然にがくりと頭を垂れるばかりの娘を掻き抱いた女の嘆きは底無しの沼で、うかつに歩み寄ればこちらが引きずり込まれてしまう。香油を塗りこめたのか煩わしいまでの艶を放つ髪に降り注ぎ、その漆黒の色味を深淵に近しいまでに深める雫は透明な毒なのだ。触れれば皮膚が爛れ、糜爛した傷口からは饐えた血膿が噴き出すだろう。

「……そのままにしてやれ。これには存分に嘆く時間が必要なのだ」

 ダーシア。わたくしを赦して。目を覚まして。

 それしか言葉を教えられていない子供さながらに囁く女に背を向けると、真っ先に視界に飛び込んだのは失望を滲ませた顔だった。

 半分は自分の女一人すら宥められぬとはと無言でグィドバールを詰り、半分はこうなるだろうと予期してはいたがと嘆息する家臣たちの前に立つと、喉が詰まる。

 ならばどうせよと言うのだ。父が数多そうしたように、彼女を煩わしいと斬り捨てれば良かったのか。父は祖父から受け継いだ、民草を惹きつけ――たとえ恐怖によってであったとしても――支配する才覚を持たぬグィドバールが徒に剣を振るえば、人心は己から離れるばかりであるのに。

 想いの丈を振り絞る自由もまた、グィドバールには赦されていなかった。それをすれば、民草は己を見限ってしまう。

 胃の腑からせり上がり、乾いた口腔をひり付かせた憤りを噛み砕き嚥下し、凍り付いた舌の根をどうにか温める。

「……ヴィードは? あれも熱を出して寝込んでいるのであろう?」

 密やかに募った支援者の協力も虚しく父に捕らえられた兄を見舞うため、自らの意志でもってはただ一度だけ足を運んだ地下牢。絶え間なくひび割れた絶叫が反響する、湿ったむき出しの石壁に囲われた陰惨の場にも匹敵する場から逃れんとの一心でようよう紡いだ名に、背後に控えた一団は血相を変える。

「……なりませぬ、」

「わたくしからあの子まで奪わないで!」

 褐色の獣はにじり寄った家臣を突き飛ばし、グィドバールの襟首を掴んで引き寄せた。

「ああ、可哀そうなヴィード。未だ高熱に魘されたまま、たった一人の姉に別れの挨拶すら告げられないなんて。――わたくしに残されたたった一つの宝。せめてあなただけはわたくしが守ってみせるわ」

 己が無礼を働くのが何者であるかなど確かめようともせず、がむしゃらに拳を振り下ろす女の双眸は昏く凝っているのに激情でぎらついていた。古来より凶兆として恐れられていた黒く翳る日輪の、苛烈に目を灼く暗闇は何を糧にして燃え盛っているのだろう。

「タリーヒ様は姫君が亡くなって以来、ヴィード王子に近づかんとする者があればこのように誰彼構わずに威嚇してしまっておいでで……」

 何故先にそれを報告せぬのだ。

 申し訳なさを張り付けた面を伏せた男を問い質したかったが、それは後ででもできる。

「タリーヒ」

 恐れを堪え、狂気ごと猛る女を抱きしめる。

「泣くな、タリーヒ」

「……陛下?」

 本来は驕慢なまでに豪奢で艶麗な美を悲嘆で曇らせる女の、淀んだ双眸に僅かながらの正気が戻る。    

「泣くな」

 だが幽き光はすぐに怒りの炎に呑みこまれた。

「そのような世迷言、二度とおっしゃってくださいますな! ……わたくしは娘に先立たれ、息子はいまだ目覚めないのです。これで嘆かぬ母など、母ではありませぬ!」

「……」

「十月十日に渡って胎内で育み、己が腹を痛めて生み落とした我が子を奪われた母の哀しみを、か弱く愚かな女の嘆きを、高潔なる殿方に理解してくださろうとは思っておりませぬ。ですが……」

 噛みしめられた紅い唇から滲む珠を舐め取る桃色は奇妙に艶めかしく、褥での彼女の痴態を想起させた。口元を濡らす獲物の生命までをも満足げに堪能する、豹の舌なめずりを。

「せめて同じ親として、あの子の喪失の痛みを分かち合ってくれませぬか? ダーシア、お父さまが折角・・いらっしゃってくださったのに、もう挨拶すらも言えないなんて……」

 吐息めいた呟きに植え付けられた棘が、王の胸に微細な線を刻む。心臓には到底至らぬが浅からぬ傷を刻んだ非難は、頑なに閉ざしていた口元をこじ開けた。網に乗せられ、真っ赤に熱せられた炭火で炙られる貝が、堪えきれぬ苦悶を吐き出すためにぱくぱくと喘ぐように。

「――そなたの言う通りだ。余はあれにあまり構ってやれなかった。せめてもの罪滅ぼしとして、きちんと葬儀を執り行ってやろう。可能ならば、今すぐにでも」

「……ぜひ、そうしてくださいませ。わたくしは、あの子の亡骸など、哀れで、哀しくて、これ以上は見ていられません!」

 艶やかな口元を緩ませたのは紛れもない喜びだった。弾けんばかりの笑顔は今しがたグィドバールを悪し様に糾弾していた母親・・のものとは認めがたい。けれども娘が犯した罪を知り、おぞましさに美貌を引き攣らせたの侮蔑とは奇妙に似通っていた。浮かべた表情の種類はかけ離れているのに。 

「……葬儀には、王妃殿下も参列してくださいますか?」

 潤んだ瞳と赤らんだ頬は、ある富豪の囲い者として彼や彼の客人に奉仕していたかつての娼婦のものではなく、恋に恋する娘のものだった。自分が引き起こした母の狂乱など素知らぬ顔で覚めぬ眠りを貪る娘が、息子の腕の中でほころばせていた笑みが眼裏で蘇る。

「そなたも存じているだろう? ……あれは極力表に出せぬのだ。まして妾の子の葬儀になど、あれの女官が許さぬだろう」

 せり上がる嘔吐感が命じるままに掻き抱いた女を突き放す。漏れ出たくぐもった罵りは、聞こえぬ振りをした。

「ザーナリアンは不可能だが、エルゼイアルは参列させようではないか。だが、」

 居室からこの死が充満する部屋に向かう最中に降ってきた天啓を――厄介払いの文句を曝け出す。

「葬儀が終わったら、いや、すぐにでも、そなたはヴィードと共にアルヴァス侯の領地に療養に向かえ」

 すると婀娜に垂れ下がった眦は裂けんばかりに吊り上がり、女は背筋を凍らせる妖鬼となる。

「――っ。なぜ、そのようなお戯れを、このような時に?」

「前々から思案していたのだ。アルヴァスの領地は適度に王都にも近い、緑豊かな土地。自然に包まれた土地で身体を休めれば、ヴィードの病も快方に向かうだろうと」

「ですが、わたくしは……」

 女にしてはやや低いが、それゆえに艶めかしいはずの声は、呪詛じみていて疎ましかった。やはり女の泣き言ほど煩わしいものはない。

「余は葬儀の段取りを確認し次第、ドニに使者を送ろう。そなたも相応の準備をしておけ」

 崩れ落ちた愛妾を一瞥すらもせぬまま、彼女の死した娘の許から立ち去った王は、疼く蟀谷を抑えながらもう一人の我が子の居室に赴く。

「陛下。殿下に何か御用ですか?」

 彫り込まれた竜が厳めしく威嚇する扉の向こうから来室を告げたを出迎えたのは、明るい栗色の髪の、人好きのする笑顔の少年だった。オーラントの顔の造作は柔和に纏まってはいるものの平凡で、我が子の足元にも及ばない。しかし人の心を和らげる穏やかな雰囲気が滲み出ていて好ましかった。

 これが我が子だったなら。奥底から浮かび上がる願望は、鬱屈とした吐息となって吐き出された。

 グィドバールはエルゼイアルのような息子など望んではいなかった。抜きんでた麗貌などなくとも、ごく普通の容姿と感性を備えていれば良かったのだ。

「あれに――エルゼイアルに伝えねばならぬ大事がある。そなたに火急の用事があると伝えてくれぬか?」

「はい!」

 少年の姿が視界から消えたことを確認すると、王は胸に手を置いて息を整える。消失していたはずの肺の痛みがぶり返し――しかもより酷くなっていた。

「エルゼイアル」

「如何なさいました? 陛下が私の許までお出でになるとは、なにか余程の大事が、」

 金髪の父子は来客用の部屋で向かい合う。十三回目の誕生日を迎えたばかりの王子の姿は王を追い詰めた。部屋の空気は暖められているはずなのに、肺腑に霜柱が突き刺さる。

「お前の妹が死んだ。三日後には葬儀を執り行う」

 激しさを増した疼痛はなけなしの気力をも押し流し、王はむき出しの事実を息子に投げつけた。鞘に収められていない刃が少年に齎すであろう痛みの存在は、己を苛めるそれに掻き消されてしまって。

「――そのような戯言を、私に信じろと?」

「お前の心は理解できる。しかし真実なのだ」

 大理石の頬に濃い影を落とす黄金色の睫毛が震えた。仄かに血の色を透かす唇はうっすらと開かれていて――グィドバールはもう何年も直面していなかった、息子の生の感情の奔流に目を奪われた。驚愕と激高が揺らめく一対の翠緑玉は身の毛がよだつほど美しい。

『こないで』

 かつて同じ目をしていた少女の――当時の彼女は十四歳になったばかりだった――脳裏に刻み込まれた面影が広がった。

「あれは急な病で死んだ。万が一伝染でもしたら大事になる。亡骸には触れるでないぞ」

 忠告しはしたが、エルゼイアルならば――腹違いの妹に手を出す息子なら遺体を暴きかねない。一刻も早く柩に封をさせなければ。

「父上!」

「タリーヒは心痛からか残された息子の側を離れようとせぬし、ヴィードはいまだ寝込んでいる。葬儀に参列する肉親は、余とお前のみだ」

 王は王子の叫びを拒絶し、足早に遠ざかる。一刻も早く執務室に戻り、葡萄酒の残りを呷り疲弊した身を温めたかった。

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