いばらの咎

田所米子

帰還 Ⅰ

 車輪の回転が泥濘と礫によって乱されるごとに小さな部屋は揺れ、堪えきれぬ嘔吐感が蠢く。しかし、数日前の旅立ちから水と僅かな果物を除いては一切の食物を拒絶し続けた胃の腑からは、喉を灼く酸味すらせり上がらなかった。月の障りと割れんばかりの頭痛に苛まれた肢体の不調に拍車をかける振動が、下腹部から滴る経血の甘く饐えた生臭さを掻き乱す。

 嵌め殺しの窓の向こうでは雲一つない蒼穹を妻問う雲雀の翼が切り裂いているのだろう。建国祭を控えた王国の未来を言祝ぐかのように。だが澄んだ囀りは不快な軋みに掻き消されて娘の耳には届かない。黄金の光に、陽光を透かす木々の緑に――狂おしいまでに愛おしい色彩に惹かれて帳に伸ばしたか細い指先は、しかし厚く垂れ込める天鵞絨ビロードを揺らすだけだった。

「何をするつもりなの?」

 向かい合う女の尖った靴先で、むっちりとした太腿を強かに抉られたために。喉は恐怖に締め付けられ縮こまり、息もできなくなった。痛くて、怖くて、泣きださずにはいられなかった。

 助けて。ここから私を連れ出して。接吻して。触って――あなたで私をいっぱいにして。

 叶わぬ願いは舌の根に乗せられはしたものの、震える花弁を開かせはしなかった。

「“すみません”でも“もうしません”でも、せめて何か弁明したらどうなの?」

 粗末な布靴で包まれた足の甲に、鞣された皮で包まれた丸い跟が振り下ろされたために。

 かわうその毛皮でくすぐられるこそばゆさを凌駕する感覚にふっくらとした紅唇を噛みしめると、恐怖と諦観の証はとめどなく溢れた。幼かった自分を優しく抱きしめ、涙を拭い啜り、濡れて冷え切った唇を、心を温めてくれた彼は六年前に奪われてしまったのに。曇った眼差しに映る女によって、隔てられてしまったのに。

 眼裏まなうらに、脳裏に――己が全てに焼き付いた、愁いを帯びた少年の微笑みは肌理細やかな肌を抉る一撃によっても色褪せないが、奔る激痛を和らげもしなかった。

「……ははうえ。いたい、です」

 この世の誰よりも愛しい彼に抱かれ、舌と脚を絡めていられたあの頃に還りたかった。頼もしい腕に全てを委ね、ただ彼の息遣いを、奥底を疼かせる匂いと涼やかな囁きを、項を這う唇と舌のぬくもりを、金糸の髪の輝きを感じていれば良かった、甘い甘い幸福の中に。かつての自分の世界に。己が本来あるべき場所に。

 自分から彼を奪った母は憎い。いっそ母が病にでもかかって死んでしまえば、自分は彼の傍らに戻れるかもしれないのに。母などいなくなってしまえばいいのに。

 馬車の振動に合わせて揺れる熟れ切った双の果実がまだ青い、未熟な実りであった時分から巣食い続けた鬱屈が喉元からせり上がる。しかし燻る情念はたちまち凍てついた嘲笑でもって掻き消されるばかりで。

「それがどうしたって言うの?」

「もう、やめてください。……やめて、いたい……」

 娘の翳り澱んだ月も星もない夜の陰鬱な瞳が、嘲りと侮蔑と嫌悪がせめぎ合う漆黒の、彼女のそれと全く同じ瞳と交錯する。

「痛くしてるんだから、痛いに決まっているでしょう? そんなことも分からないの? ……ああ、お前の血の巡りが悪い頭じゃ無理な相談だったわね」

 交わる暗黒。先に濃い睫毛に囲まれた目を伏せたのは娘の方だった。

「相変わらず、陰気な顔ね。お前と共にいるとこっちの息まで詰まってくるわ」

 ――一体誰に似たのかしら。少なくとも、わたくしじゃあないわ。

 からからと、耳障りな嗤いにこみ上げるのは燈火では駆逐しきれぬ、部屋の隅々に蟠った薄闇に似た感情だった。

「なによ、その目は。……お前は何もできない愚図の癖に、反抗だけは一人前なのね」

 盛りを過ぎ、巧みで念入りな化粧では隠しきれない衰えによって蝕まれながらも、十分に艶やかな褐色の美貌が歪む。線が崩れていながらも豊満で魅惑的な胸の下で組まれた腕に嵌められた、貴石が煌めく腕輪がしゃらしゃらと擦れ合った。 

 癖のない、夜闇で染めた絹糸のごとき黒髪と滑らかな肌の褐色を引き立てる緋の裳裾が翻る。ゆったりと組まれた、長い、けれども微かながらに弛み線が崩れかけ肥満の萌しが現れた脚の先端が、肉感的な曲線を描く若々しい脛に当てられた。

「もっと嬉しそうな顔をしたらどう?」

 押し付けられる靴底が愛しい人の掌だったなら。苦痛すらも歓喜でもって迎えられただろう。引き締まった背に腕を回し、強請っただろう。もっと、もっと、溢れるまで私を満たしてくれと。だが現実に目前にいるのは金髪に緑の瞳の少年ではなく、黒髪に黒い瞳の女なのだ。

「ねえ、ヴィード」

 王の愛妾は形良い頭を俯かせる娘に、我が子に手向けるにはあまりに嗜虐的な嘲笑を突き付ける。現王の妾腹の王子の名を呼びながら。

「もうすぐお前の愛しいお兄さまに会えるのよ。一体何を案じているの?」

 とめどなく零れ落ちる嘆きは戦慄く指先を、ぐしゃりと握られ皺が寄った布地を、滲む赤褐色を滲ませる。母の微笑も、馬車の振動も。自身を取り巻く全てが耐えがたかった。

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