崖っぷちの朝

ごぽごぽと、ケトルが水を噴き上げる音がする。部屋着の男は湧いた水をコップに注ぎ、インスタントコーヒーを作った。それを一息に飲み干すと、ひび割れた通信端末を眺め、舌打ちをした。

晴れやかな陽光が差す心地よい朝とは無縁の憂鬱さと苛立ちが混じった表情を浮かべる。


通信端末には、家賃滞納に関する通知が管理会社から届いていた。男は、最近大きな仕事を失敗したせいで、金が無かった。

地価が安いプラジマス都市西部の《傭兵ウルフ》用マンションの支払いにすらままならないほどに。

だが、このまま画面を睨んでいても金は降ってこない。男は頭を切り替え、ついでに管理会社からの通知画面も切り替えた。



そろそろ、約束の時間だった。男は通信端末を置き、自室のクローゼットの前へと移動する。

男は服を脱ぐ。その下から現れたのは、精悍な肉体だ。実践の中で鍛えられた肉体は引き締まり、野生の獣のようなしなやかさを宿している。

雑に切りそろえた黒髪と鋭い眼光。彼の名はソラ。半年前に成行なりゆきから《傭兵ウルフ》となり、最近賞金首にもなった期待の新鋭だった。


下着の上から戦闘服を着る。見た目は黒いズボンと上着だが、現代の技術で作られた特殊繊維で編まれた防弾、防刃、耐衝撃機能を持つ戦闘服だ。

高い身体能力を持つソラは、ただ走る殴るといった動きを取るだけでも、その身体能力で服が破損する。そのため、頑丈な戦闘服を普段から着ていた。


だがこれは、予備の服だった。ソラが傭兵になりたての頃に使っていた品であり、現在のソラの実力から考えれば性能が低い。

だがそれも仕方がない。ソラの戦闘服は、1週間前のミレナとの戦いで破損している。それどころか、武器もほぼ全て失っていた。


ミレナとの戦いを乗り切るため、『フィーネホテル』で用意した武器や車両の購入代金で貯金が尽きかけている状態で装備を新調しなければならない。家賃を支払う余裕などない。

早い所装備を整え、傭兵稼業に戻らなければ、ソラは再び最底辺の集合住宅に戻る羽目になる。

それだけは御免だと、安い化合食の味を思い出しながら、上着の留め具を止める。


対モンスター用のハンドガン〈オリゾンR2114〉を腰に差し、近接武器の〈蒼凪〉を手に持つ。以前使っていたサブマシンガンやアサルトライフルの〈EAR-4〉、そしてダガーは失っている。

心もとなくなった装備に眉を顰め、壊れかけた通信端末を懐に仕舞い、網膜投射型の通信端末の外部拡張機器であるブレスレットを腕に付ける。

シルバーのシンプルな装飾品の表面が微かに光り、神経に干渉する。

すると、ソラの視界に通信端末の画面が表示された。ソラはそれを手で操作し、どかす。

ソラのブレスレットはあくまで通信端末の画面を視界に表示し、通信機能を持つだけであり、思考操作はできない。

このブレスレットもソラがフィーネホテルで調達した物であり、当時のソラには思考操作機能付きのものを買う余裕は無かった。

今、ソラが身に付けている物、それがソラの全財産といってもいい。

部屋の扉を開き、外へと出る。電子ロックの音を聞きながら、ソラは暗い通路を進んでいった。


◇◇◇


外の天気は腹が立つほどの快晴だった。今のソラには、快晴を喜べるほどの心の余裕は無い。

どこからか、銃声が風に乗って届いて来る。冷たい寒風がソラの懐具合を表すように吹いている。季節感が乏しいこの都市にも、微かな冬が訪れていた。


「音的に、4通り先ぐらいか」


銃声の音からおおよその発砲地点を割り出す。かなり近いがソラもその周りの市民も気にする様子は無い。この都市では発砲なんて珍しくはない。

日に5,6度は聞けるため、今更都市の人間は怯えることも無く、同じ通りで銃撃事件が起きなければ平然と生活をする。

通りを一つ隔てれば、流れ弾の心配もほとんどなくなるからだ。都市に立つビルの窓も、多くは安価な弾丸なら防げる防弾ガラスであり、車道を走る車も装甲が厚い戦闘車両が目立つ。


AIタクシーに乗る余裕も無いため、歩いて向かう。ソラは以前は、乗用車を持っていたが今は無い。少しでも金の足しにするため、売った。

目指す場所は、都市南西にあるアジアタウンだ。東部から流れてきた移民地区だった場所であり、かつての東部地域の呼び名であるアジアという名がつけられている。

そこに行くまでの大体の時間を計算し、ソラは眉を顰める。長い散歩になりそうだった。


◇◇◇


プラジマス都市は都市管理機構の本部が存在する中央区を起点に、放射線上に大通りが広がっている。北区は『大企業メガ・コーポ』や高級住宅地が広がり、民間警備会社や警察により治安が保たれている。

東区は一般的な商業施設が集積する場所であり、こちらの治安もまだましだが、俺たちが逃げ込んだ『フィーネホテル』の時のように、時折銃撃事件は発生する。


対して、工業地帯の南区と貧民地帯の西区は、ほとんどスラムだ。

ギャングの下部組織である民間警備会社が恣意的な警備体制を敷いており、日々様々な犯罪が行われている。

強盗、殺人、違法薬物。それらの犯罪のほとんどは、主要道路から外れた路地裏やビルの狭間のような民間警備会社が意図的に見逃した場所で行われている。


つまり、都市内を横へ移動をするためには、裏路地を通るのが最短経路だが、危険度が高いということだ。俺もまた、西区南へ移動するために路地裏を通った。

そして当然とばかりに面倒ごとに巻き込まれた。


幾つもの弾丸が俺の背後から迫りくる。ほとんど反動制御もせず、走りながら乱射された弾丸は、路地裏に広がっていく。俺は地面だけでなく壁も蹴り逃げ続ける。

脇に荷物を抱えて。


「いやぁあああぁああっっ!!怖いぃぃいいい!」

揺れ続ける視界と内臓が浮くような浮遊感に怯える少女の叫び声が路地裏にこだました。


「うるせえな、ちょっと黙れ!」

先ほどからこいつが騒ぎ続けるせいで、追って来るチンピラを撒けない。


俺は曲がり角で立ち止まり、振り返る。ちょうど、俺を追って先行していた男の一人が、角から勢いよく飛び出してくる。

俺が待ち伏せているとは思っていなかったのか男は警戒する様子は無く、俺と目が合い、驚愕を露わにする。


握った刀を振り上げ、鞘で顎を打つ。男は一人昏倒させたが、その背後からは多くの足音が聞こえている。


「ちょ、ちょ、どうなってるんですか!?」

片側に担いだ女を見る。

こいつがいるから片手が塞がり、戦えもしない。

角で待ち伏せして各個撃破していけば、いずれ片付くだろうが、それには時間がかかりすぎる。相手をするのはやめた方がいいだろう。


俺は待ち伏せをするために入った路地を見上げる。左右の建物間の幅は三メートル。高さは15メートルほどだろうか。


俺は壁を蹴る。反対側の壁に足をかけ、そして再び跳躍。

荷物があるせいでジャンプ力は落ちているが、それは数で補えばいい。

何度も壁を蹴りつけることで、俺は5階建ての古びたビルの屋上に足を付けた。


「………うぅ、吐きそ」


俺は少女を下ろし、息を吐く。下ではチンピラがこちらを見上げ騒いでいる。撃たれた銃弾を一歩下がることで簡単に躱す。俺も撃ち返そうかと、拳銃に手をかける。〈オリゾンR2114〉という対モンスター用リボルバーだ。

だが、俺の腕では碌に当たらないだろうと判断し、諦める。俺は射撃が苦手だ。そこらのチンピラにも負けるほどに。


俺は少女を見る。小柄な体形の義体者だ。ぱっと見、武装の類は持たず、纏う雰囲気も『傭兵ウルフ』らしさはない。こんな路地裏をうろつくような人間には見えない。


「この辺の道を近道に使うのはやめた方がいいぞ」

「………身に沁みました」


その反応から彼女がこの辺りの住人ではないことが分かる。『企業コーポ』の職員か何かだろうか。しかも、ギャングの息がかかっていない真面な方の。

そういう奴が裏路地を使って、チンピラに絡まれることはよくあるが………。


「アンタ、何したんだ?」


俺は別に人助けに目覚め、裏路地で絡まれていた彼女を助けたわけではない。ただ銃を持った男達に追われていた彼女が前から来たせいで仲間だと判断され、巻き添えになったのだ。

あの男達の形相を見るに、かなりのことを彼女がしたのだと分かる。男たちの脳が薬物で飛んでいれば、話は変わって来るが。


「………普通に話していただけなんですけどねぇ」

「へえ」


その僅かな沈黙の間から、ギャングの下部組織の構成員らしきチンピラを怒らした自覚はあるらしい。度胸は素晴らしいが、どうやら完全に自業自得のようだ。


「じゃあ、俺はここで」


階下から聞こえる階段を駆け上る複数の足音を聞きながら、俺は屋上の縁に足を掛ける。

この程度の高さなら飛び降りても怪我はしない。追手は全員ビルの中に入ってきたみたいだし、もう大丈夫だろう。

予約の時間も迫ってきているし、これ以上の寄り道は出来ない。


「ちょ、ちょっと!どこ行くんですか?」

「どこって、逃げるんだよ。もうそこまで来てるし」


少女の義体のセンサーでも捉えられる距離までチンピラたちは来ている。それを察したのか、彼女の顔が引きつった。

ここは陸の孤島だ。ビルの下からは武装した集団が迫っており、逃げ場はない。

彼女の視線が俺の刀に向かったのを見て、口を開く。


「言っとくが、俺は戦わないぞ。この辺りはギャングの縄張りの間だからデリケートなんだ。あいつらもこんな場所で躊躇わず銃撃つってことは、バックには何かいるんだろうし、殺せば面倒ごとになる」


この都市では、殺人事件など吐いて捨てるほど起こっている日常だが、それは誰でも構わず殺していいというわけではない。

司法行政による治安維持がほぼ機能していないこの都市では、命を保証する存在として、ギャングや民間警備会社、保険会社が存在する。中には、殺害された後の報復保険に入っている市民も少なくない。

そうすることで、彼らは自身の安全を保っている。


ただのチンピラだと思って殺せば、後から思いもよらぬ相手から恨みを買っていた、というケースもあるのだ。そんなことを気にせず殺しまくる赤髪のサイコ女も知り合いに入るが、俺はやつとは違い、得る物の無い殺しはしたくないのだ。


を見捨てないよね~?」


俺が本気で見捨てる気だと知った彼女は、上目づかいで『女』の武器を使おうとする。俺は苦笑を浮かべ、口を開く。


「実年齢はもっといってるタイプだろ。小賢しい義体使いやがって」


辛辣な俺の言葉に、彼女の表情が引きつった。


「まだ20代ですからっ!あ、そうだ、お金払います、お金!5万クレジットでどうですか?こんなとこを通るチンピラもどきさんには大金ですよねぇっ!?」


誰がチンピラもどきだ。悪気も無く失礼なことを言う。彼女がチンピラどもを怒らした理由が少しわかった気がする。


「まだ20代って言い方なら、かなりいい年だろ」

少しいらつき、棘のある言葉が口をついた。


「ひどいっ!もう三万しか払いませんからっ!」

「お前、値切れる立場にねえぞ………」


正直、かなり見捨てたくなってきたが、彼女は報酬を提示してきた。

どうやら多少はこの都市の生き方を思い出したらしい。

この都市では金が全て。金さえあれば何でも手に入り、全てが許されるのがこのプラジマス都市だ。


「10万で助けてやるよ」

「………うぅっ」


払えるが、躊躇う金額ってところか。だがかなり良心的な値段だ。

屋上へと続く扉からは、固いものを叩きつける音が響いている。恐らく、銃器を使ってドアノブを破壊しようとしているのだろう。もう時間はあまり残されていない。


「分かりました。払います!」

「よかったよ。じゃあ、飛ぶぞ」


俺は再び彼女を抱えてビルから飛び降りた。


「いやぁあああああぁぁああっ!」


再度悲鳴が木霊する。俺は構わず、地面を蹴った。

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