約束
森の中を疾走する。早く、速く、迅く。
景色が流れて消えていくほどの速さで走り去る。その進撃を阻むものはいない。
獣は俺を見て恐れるように踵を返し、行く手を阻む木々は、俺の体に触れるだけで砕け散る。
誰も俺を止めることは無く、命の坩堝の中にあって、俺は強者だった。それが崩れたのはいつだったのだろう。
それすらも、今はもう思い出せない。
緩やかに目を開く。徐々に意識が覚醒し、跳ね起きる。
「バイト…は無いのか」
起きた時、初めに頭をよぎったのはバイトのことだった。習慣とは恐ろしい。いや、恐ろしいのは社畜だな。
俺は手をかざし、枕もとの端末を起動させる。浮かび上がったデジタル時計には、10:05と表示されている。もしもバイトがあったら大遅刻だ。
店長に怒鳴りつけられ、その日の仕事を全て押し付けられる。だけど、バイトには二日前から行っていない。きっと首になっているだろう。
「……んぅ、どうしたの?」
隣で眠っていたカーラが身を起こす。目尻は眠そうにとろんと下がり、不思議そうに首を傾げている。
「……少しは恥ずかしがれよ」
俺は目のやり場に困り、視線を彷徨わせる。シーツを羽織っただけの姿は何も隠せておらず、あまりに刺激的だ。
綺麗な金髪が肩を滑り、程よく膨らんだ胸元を流れる。その動きに視線が誘導され、陶器のような肌に見惚れてしまう。
「昨日、さんざん見たでしょう?」
俺の視線に気づいた彼女は、その肌を強調するように身体をなぞり、挑発的に流し目を向けてくる。
言いたいことは色々あるが、俺は口を噤み、ベッドから降りる。一夜の付き合いだが、彼女の性格は少しわかった。俺が何かを言い返せば、それをきっかけに延々とからかってくる。
俺はソファーの上に置かれた黒い上下の服を身に着け、カーラの方へ向き直る。彼女はシーツを身に纏い、こちらを見ていた。
「……俺は行くけど」
「そう。わたしはチェックアウトまで寝るわ」
彼女は何も聞かず、ひらひらと手を振る。昨夜も、血塗れの服を着た俺に何も聞かなかった。別に隠したいわけではないが、説明するのは面倒くさい。彼女の程よい無関心はありがたかった。
「わたしの連絡先、忘れないでね」
扉を開いた俺に、彼女が囁くように声を掛ける。俺は、何も答えずに扉を閉めた。
◇◇◇
部屋を出て、エスカレーターを降りた俺は、受付の横を通り過ぎる。
その時に、受付の男から探るような視線を受けた。僅かに歩みを緩め、横目で視線の主を盗み見る。
(あいつは確かチェックインの時の…)
20代後半ほどの男は、部屋を取ったときに手続きをしてくれた人だ。
今思い出せば、彼には羨望と欲を混ぜたような瞳をしていた。
歩みを緩めた俺に気づき、男はバツが悪そうに視線を逸らした。
(あれなら害はないか)
美女を連れた俺が印象に残っていただけだろう。
あの程度、男なら当然の反応だ。襲われて過敏になり過ぎている。
目に映る全てが敵に見えるのは、余裕が無い証拠だ。
俺は自動ドアを潜り、大きく深呼吸する。企業ビルが立ち並ぶ大通りには、ぬるい風が吹いていた。快適とは言えないが、意識を切り替えるにはちょうどいい。
「えっと、ディーン地区は……」
カーラに教えてもらった場所を思い出し、脳内で地図を描く。
『マインロック』というクラブがあるのは、娯楽施設の多く立ち並ぶディーン地区の一角だ。有名な場所らしく、とあるギャングが根城にしている場所らしい。
ここからはかなり距離がある。いくつかの地区を跨がなくてはならない。眼前をAIタクシーが通り過ぎるのを見て、無意識にポケットに手を入れる。
だが手に触れたのは金属の硬貨が擦れる音だけだ。とてもタクシーに乗れる額ではない。
「歩くか。」
俺の計算なら、1万クレジットほどは残る算段だったのだが、カーラが服にこだわった結果、予想外の出費を支払った。
頼むといったのは俺だから文句は言えないんだが…服を変えるよりも弾丸を買った方が良かったかもしれない。
汗ばむような熱気にうんざりしながら、歩道を歩く。出勤時間とずれたお陰で、人ごみに揉まれることは無いが、ビル街だけあって人通りは多い。
また、ここは都市の中でも治安がいい方なので、スリやドラッグ中毒者に絡まれる可能性も低い。
だがそれはここだけだ。少し歩けば、背の高い建物は減り、通りを歩く人間も金属質なパーツを付けたガラの悪そうな人が多くなる。
遠くには作りかけのまま放棄された巨大ビルディングが立っており、鉄筋の足場で所狭しと囲われていた。
道の端には電脳コネクタにデータチップを繋ぎ、インターネットの世界にトリップしている中毒者が痙攣しながら四肢を放り出している。
俺は懐にしまった拳銃の感触を確かめ、足早に道を進む。
この都市の怠惰な警察は、まともな市民が仕事や学校に向かった後のこの時間に、自主休憩を取り始める。
そのため、この時間帯は、夜の次に犯罪が起こりやすいのだ。残弾は1発しかないが、犯罪者や薬中に絡まれた時の脅しには使えるだろう。相手の脳に正常な判断能力が残っていればだが。
俺はまともそうな人に話を聞きながら、『マインロック』へ向かう。正反対の方向を教えてくるバカもいたので、到着には時間がかかったが、何とか昼前には辿り着けた。
『マインロック』と呼ばれるクラブは、高架橋の下に隠れるようにあった。十字路に面するように建てられているが、その周囲は高い鉄条網に囲まれており、一見してクラブとは分からない。
駐車場に停まった多くの車やバイクの間を縫って、灰色の武骨な建物に近づく。入り口の頑丈そうな鉄扉の両脇には、小銃を持ったギャングが二人立っている。
「止まりな。うちは初見お断りだ。紹介はあんのかい?」
ガムを噛み、気だるげなモヒカンの女が威圧的に呼び止める。その両目はカメラアイに置き換わっており、俺の全身をスキャンしている。
「赤髪の狂犬みたいな女に呼ばれた」
俺の返事を聞いたモヒカンは、訝しむような表情を浮かべ、小銃の引き金に手をかける。明らかに警戒されている。まあ、気持ちはよく分かるが。
モヒカンの目に光が瞬き、虚空を眺める。どうやら誰かと通信をしているようだ。確認が取れたのかモヒカンともう一人の用心棒は黙って道を開けた。
「入りな。カルロスが待ってる」
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