第二話

「おれ、は、にんげんをもっと、しりたい。にんげんをもっと、くいたい」


 とりあえず人間がいるところに行ってみよう。そう思った。彼は僧侶が遺した法衣に袖を通した。理屈までは分からなかったが、なんとなくそうした方が都合がよいような気がしたのである。僧を殺めた人間は物盗りではなかったようで、銭なども残っていた。それが銭というもので、にんげんはこれを有難がるのだ、ということも、既に分かるようになっているのだった。


 ほとんど獣道とはいえここに人が住んでいたからには、おそらくこの道の先には人里があるはずだ、と思った。彼はその場を離れ、旅立った。進むと、道はやがて大きな拓けた街道に合流していた。通りすがりの知らない人間に、彼は尋ねてみた。


「人の多くいるところ、へ行きたい。どちらへ、ゆけばよいか」

「なんだい、図体をして変な坊さんだ。自分がどこを旅しているのかも知らないのかい。いま向いている方の反対側に進めばすぐ大津で、その先にはみやこがあるよ」

「あ、ありがたい」

「いえいえ。それじゃ、あっしはこれで」


 彼は進んでいった。人間がたくさんいて、建物もたくさんある場所に着いた。ここが、大津というところか。「めし」という札が出ている場所があったから、とりあえずそこに立ち寄ってみた。空腹だった。この姿になってから一度も何も食べていないのだから当たり前ではあった。


「なにか、くわせてくれ。ぜ、銭はある」

「あんたでっかいな。でも坊さんか。それじゃ、せっかくの大津だけど琵琶湖の魚は食えないね。味噌と玄米飯があるよ」

「いや。構わない。魚を喰ってみたい」

「なんだ、悪い坊さんだな。じゃあ、本諸子ほんもろこの焼いたやつが一匹一文さ。そう、その銭一枚が一文。はいよ、確かに三枚」


 ホンモロコは琵琶湖にしかいないコイの仲間である。現代では高級魚として京都の料亭などで珍重されているものだが、この時代には沢山獲れた。ただ、人間の営みの知識をだいぶ手に入れてはいた彼にも、箸の使い方は分からなかった。


「おいおい、坊さんの癖に箸の使い方も知らないのかい……焼き魚を手づかみとは、呆れたもんだねえ」

「あ、ああ、すまない」

「あたいに謝られてもねえ。恥ずかしいから、そのうち覚えなよ」

「わ、わかった」


 泊まるだけの銭はあったが大津に特に用もなし、それにまだ日は高かったから、彼はそのまま京まで進むことにした。ちなみに東海道はこの時代でも既に存在している。


 やがて都が見えてきた。平安京である。この時代でも、十万人ほどの人間が暮らしている。山里で暮らしていた彼にとって、それは想像を絶するばかりの偉容であった。


 鴨川の橋を渡って都に入ると、街の街路は碁盤目状になっている。別に目的地があるわけではないので、彼はあてもなくそのあたりをぶらついた。このあたりは、貴族の屋敷がたくさんある一帯のようだった。


「おや?」


 と、彼とすれ違いざま、彼にはなんだかよく分からない立派な装束を纏ったひとりの男が声をかけてきた。


「そなた、ひとではないな」

「む、むっ」

「いや、怯えずともよい。わたしは、安倍晴明あべのせいめいと申すものだが——」


 蜘蛛はなんとなくその相手を恐ろしいと思って、逃げることにした。背を向けて走り、角を曲がったところで、小さな蜘蛛の姿に戻り、その角の築地塀の崩れていたところから中に入り込み、その庭に逃げ込む。


「ああ、話も聞かずに逃げてしまいおって……」


 清明は相手がどこへ逃げ込んだのかだいたい見当を付けられたが、蜘蛛が入っていった築地塀の崩れは人間が入り込めるほど大きくはなかったし、だいたい人様の邸宅の庭に無断で入り込むのも体裁が悪い。


「んー、ああそうかここは、按察使あぜちの大納言どのの御邸であった……他所へは逃げられんように、この周りにちょいと結界を張るとして、だ。そう大それた悪さをしそうな者でもないし、また、後日様子を見に来るとするか」


 話の内容は半分くらいしか理解できなかったが、雑草がぼうぼうに茂る庭の隅で、蜘蛛はぷるぷると震えていた。

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