第三話

 宵。神威小路商店街であるはずの異界へと、二人は入り込んだ。彼岸花は初めてであるが、それでも違和感があった。


「アーケードが無いですね」

「ああ。……ここは神威小路ではない」


 建物は並んでいたが、神威小路商店街が幻想的な雰囲気を纏いつつもいちおう現代の商店街風の装いをしているのに対し、いまいるここは、まるっきりアイヌの集落コタンであった。いちおうは道の左右を埋めて並んでいる建物が、しかしすべて茅葺かやぶきの木造なのだ。そのいずれも日本家屋ではなかった。チセと呼ばれる、アイヌの古い建築様式によるものであった。


「いちおう、中を覗いてみよう」

「はい」


 どれも同じに見えるが、その一軒を選び、入り口から中を覗き込む。人の姿はないが、囲炉裏アペオイに火がかけられており、そこで干し魚が焼かれている。


「……ひどく臭いですね。地獄の臭いそのものとはまた別で」

「そうだな。あれは、プンダイだ」

「ああ……あれがそうなのですか。あたしは初めて見ます」


 プンダイとは、樺太の少数民族オロッコに伝わる黄泉戸喫の伝承である。地獄の魚を干したもので、干し魚でありながら黴が生えて腐っている。それを生きた人間が食べると必ず死んでしまう、という。


「紅様。食べてみますか?」

「いや。前に試したことがあるから。わたしにとってはただひどい味がするだけだった」

「そうですか。流石というか何というか」


 道は一本なので、まっすぐに進んでいく。もとが神威小路、つまりは狸小路の八丁目であるに過ぎない場所だからか、すぐに奥に突き当たった。奥の突き当りには巨大な大地の裂け目があり、そこから暗黒の地下洞が覗いているのだが、その大穴の手前で、ひとりの鬼人が番をしていた。


「おい、貴様ら。プンダイを食べていないな。それではここを通すことはできんぞ」

「お前は……確か、タースダーダーダル、だったか。かつてヤクート族が信仰していた鬼の一種だな」

「そんなことをよく知っているな」

「長く生きているのでな。おい、この先には何がある」

「ふん。聞いて驚け。この地獄穴アフンルパロの先は、冥神モシレチクチク・コタネチクチク・モシレアシタ・コタネアシタ様の居城へと通じているのだ」


 紅蜘蛛丸は彼岸花と顔を見合わせた。


「まさか。あのときパウチコロムンが戯れに口にしただけの村滴滴国滴滴が、本当に黄泉還よみがえったのか」


 村滴滴国滴滴は、かつて太陽を捕らえて我がものとし、そして英雄神アイヌラックルと六年間に及ぶ闘争を繰り広げたという、強大な邪神である。所詮はもとが蜘蛛の変化であるに過ぎない紅蜘蛛丸とは、背負っている伝説の次元が違う存在であった。


「黄泉ではなくテイネポクナモシリだが、まあ、そんなようなことだ。どうだ。驚いたか。分かったなら尻尾をまいて帰るか、黄泉戸喫をしてからここを通るか、どちらかにするがいい」


 さて、どうしたものか、と紅蜘蛛丸は思う。タースダーダーダルというのは木っ端妖怪に過ぎないので、殺して突破することは容易い。しかし仲間を呼ばれるなどの事態が生じるかもしれないし、それよりもそれ以前に今の紅蜘蛛丸は、相手が妖怪であってもこちらに殊更の害意や悪意を向けるわけではないものを、殺すことに積極的にはなれなかった。そこで、こうした。


「おい、お前。これを見ろ」

「ん? おお、それは!」


 紅蜘蛛丸が見せたのは魂貨であった。ここではなく‟彼方の地”で手に入れたものだが、フォーマットはどこの魂貨も同じである。


「五百枚ある。これをやるから、ここを通せ。そして、我々が通ったことを誰にも報せるな。もちろん、断るならこれはやら——」

「くれ! 何でも言う通りにするから!」


 台詞を被せて喰らい付いてきたタースダーダーダルに人間五人分の魂の貨幣をくれてやり、そのまま後ろに置き去りにして、紅蜘蛛丸と彼岸花は地獄へと進んでいく。


「紅様……地獄の鬼って、案外としょうもないんですね」

閻魔王えんまおうの部下の鬼ならばここまで安くはないがな。蘇ったばかりの悪神の使いなどは、この程度のものだろう」

「そんなものですか」


 しかし、彼岸花はそこで気を引き締める。


「本番はここからです。……紅様も、お覚悟のほどを」

「ああ」

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