第十話

 ある夜。紅蜘蛛丸は京の夜道を散策していた。この時代、夜というのは町中であっても真っ暗な闇であるのが当然で、人が外出するときには提灯などを持ち歩くのが普通だが、紅蜘蛛丸は人間よりも夜目が効くため、そのような不都合はなかった。この頃まだ、夜というものは怪異の住まう世界だったのである。


 先日の禁門の変には大きな副産物があった。市中の戦火いくさびが広がり、大火災になったのだ。真言寮のある東山は無事であったが、しかし被災域は京の半分以上にも及び、二万数千の家が焼失し、焼け死んだ者の数も数百を数えた。いわゆる『どんどん焼け』、あるいは戦の喧騒の中に火事が広まったことからこう言うのだが『鉄砲焼け』、そのような呼び名で京の歴史の一幕に加えられた惨事であった。


 町はまだ復興の途上というか、なおも荒廃が広がったままになっていると言った方が事情に合っていた。今年、つまり改元があって元治二年あらため慶応元年の祇園祭は中止されることが既に決まっていた。それについて民人たみびとの嘆くことの深さについては言うまでもない。


「おや?」


 紅蜘蛛丸は、三条橋の西側のたもとで、看板が転がっているのに気付いた。踏みつけたような形跡があり、板が割れている。ひっくり返して表を上に向け、読んでみた。


『このたびの戦災、並びに大火は、朝廷に楯突いた長州藩の罪科によるものである。従って長州藩は朝敵であるが、既に幕府の力によって京からは放逐されたのであるから、民は安心して日常に戻り、日々を送るべきこと。また付け火があるなどと噂するものもあるようだが、根も葉もないことだから信じてはならない』


 云々、といったようなことが書いてあった。紅蜘蛛丸も京都に暮らすひとりであるのでよく知っているが、このたびの大火について、京の一般民衆の間では、長州の敗残兵を狩り立てるために会津の兵が火を放ったために起こった、と広く信じられている。真相は今日に至るまでなおよく分かっていないのだが、とにかくみんなそう思ってはいたのである。従って民草みな長州藩に同情し、幕府を恨むこと著しい。この制札もそういう者が引き抜き、そして踏みつけていったものであろうか。


 さらに歩いて行くと、提灯を持った幾人かの侍の姿が見えた。こちらが気付くのとほぼ同時に、向こうも紅蜘蛛丸に気付いた。先頭にいる侍が明かりを高く掲げ、大声で呼びかけてくる。


「待たれよ! こちらは会津藩お預かり新撰組、公用の夜回りである! そこもとは何者か!」


 という。なんだ、竜胆のところの連中か、と紅蜘蛛丸は思うが、あえて真面目に名乗ってやった。


「真言寮。当方も夜回りである。怪異が京都市中を脅かすことのないよう、こうして巡視を行っている」


 と言うと。


「むむっ!? なんと、これは紅蜘蛛丸どのではありませぬか!」


 と、声を発したのは近藤勇であった。ちなみに、広い京都を、新撰組だけで全部見回っているわけではない。ほかにも京都見廻組などの類似組織がいくつかあって、手分けして市中巡察を行っている。もっとも、真言寮は管轄するものの性質があまりに異なるのでそれらとはまた独立であったが。


「いちおう報せておこうと思うが。三条の橋で制札が壊されていたぞ」

「なんと! それは早速の検分を致さねば、かたじけない。ではこれにて御免」


 近藤たちは離れていった。それはそれでよかったのだが、その後も、京都のあちこちで、幕府が設置した制札が引き抜かれる事件が相次いだ。


 これが、それから一年以上にも渡って続くことになる、三条制札事件のその始まりであった。

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